Natsuya 4.orange
「ちわっす」
俺は研究棟下のカフェに来ていた。
昼時で、オレンジの、かなりのメンバーが集まっている。
「一之瀬、お前、退会するのか? 合宿でるのが、オレンジの最低条件だ。お前もう無理なら……」
部長の確か、高宮とかいう先輩が口を開いた。
「行きます合宿。それから、これからはできるだけ出席します」
「一之瀬……」
「いままですいませんでした」
俺は頭を下げた。
菜々子さんがすみのほうで、千夏先輩と百合先輩とメシを食っている。
俺とつき合ってるいる頃、コテで巻いたようなゆるいウエーブをしていた髪は、今、完璧にまっすぐで、それが彼女を少し幼く見せていた。
俺のほうを見ようともしない。
でも、もう俺の気持ちは固まっていた。
ごめん菜々子さん。俺、不器用で、あなたのあきらめ方がわからない。
あなたをあきらめることを、あきらめたよ。
別れたあなたの近くにいるには、もうこれしか方法がないだろう。
「菜々子、お前、夏合宿の申込書、まだ持ってるよな? 一之瀬に書き方教えてやれ。あと練習日の確認方法も」
よりによってこういうプリント類の担当は菜々子さんなのか。
つき合っていた頃でさえ俺が呼べなかった、菜々子、という名前を、いとも簡単に呼び捨てにする目の前の男に、一瞬殺意に似た嫉妬が走る。
「ありますよ。一之瀬くん、こっち来て」
菜々子さんが笑顔で俺を手招きする。
なんだそのフツーすぎる態度。
千夏先輩にまかせるとか、もっとこわばった顔をするとか、そうしてくれたほうがいい。
いっそ無視してくれたほうが、少しは俺を意識しているんだと思える。
まるで、俺たちの間にはまったくなにもありません、みたいな態度に、胸がきりきりと悲鳴をあげる。
この痛みに俺はこれから耐え続けるのか。
それでもあなたの近くにいたいと思う俺は、そうとうのМなんじゃないかと思う。
「こことここに記入して。それから、練習こない時や遅れる時は、高宮部長のスマホにラインしてくれる? あ、練習日と場所はオレンジのグループラインから確認して」
「はい」
俺は菜々子さんの細かい説明のとおりに、夏合宿の申込書を書き始めた。
やべえ。
ボクシングとの日程がどうしても合わない。
初日からの参加は無理だ。
俺はシャーペンを握りしめたほうの手で肘をついて、反対の手の親指で唇の横をガリガリと強く引っ掻いた。
俺の様子を見かねたように横から千夏先輩が口を挟んだ。
「一之瀬君の車、ランドクルーザーなんだ?」
千夏先輩が、俺の書いた車種の欄を見ながら聞いてくる。
「え? そうですけど」
「だったらたぶん、そのまま高宮さんに持っていってもOKもらえるよ。就活で先に帰る三年の先輩が何人かいて、帰りの車、たりないらしいから」
「マジっすか?」
「うん」
千夏先輩がそう言った瞬間、菜々子さんがかすかにしぶい顔になった気がした。
「一之瀬君、わかってる?」
「なにが?」
「大会で成績残せないと、ここにいるのはきついよ?」
「わかってます」
これから、生活は厳しくなる。
だけど身体を動かすのは好きだし、体力にも自信がある。
このサークルに残るためにやってみせるよ。
「わかってます」
俺はもう一度、今度は菜々子さんを見据えてそう宣言した。
俺はジムから実家にまっすぐ向かった。
九時をすぎていた。
ガーデニングが俺の母親の趣味だ。
庭の広い芝生を囲んでいろいろな植物が植えられている成城の家は、どの季節でも何かの花が咲いていた。
「母ちゃん、
母ちゃんはエプロンで手を拭きながら、奥から玄関に出てきた。
「なに夏哉、ただいまの前にヒカリなの?」
「いんの?」
「いるわよ。部屋に」
俺は大きく螺旋を描く階段を上って、二階のつきあたりにあるヒカリの部屋にまっすぐいった。
「ヒカリ」
無駄にでかい扉をあける。
「なんだ、ナツ、いつ帰ったの?」
ヒカリはベッドの上にあぐらをかいて雑誌を読んでいた。
「今。お前、次の三連休ちょっと俺につきあえ」
「は?」
「小淵沢いくぞ」
「別荘? なんで?」
「俺にテニス教えろ」
「えー! なんだよ急に。俺一応受験生なんだけど」
「どうせ内部進学でうちの大学くんじゃんか。兄の一大事なんだぞ。つきあうのが弟の義務だっ!!」
俺はベッドにつっこんでいって、ヒカリの腹を抱え上げ、一回転させて頭から落とした。
どうだ!
こんなことはラガーマンにしかできないだろ!!
「ってーな!! 細いくせにバカ力だなーナツは。それが人にモノ頼む態度かよー」
「お願い、ヒカリちゃん」
デートだったのに、とかごちゃごちゃ言っていたけど、ヒカリはしぶしぶ小淵沢の別荘に行くことを了承してくれた。
教えてる間の三日間は俺を「師匠」と呼べ、とかどうでもいい条件をだしやがった。
別荘に一面だけどテニスコートがある。
だから俺とヒカリは小さい頃からテニスをやっていた。
ただ俺は中学からラグビーをやりはじめ、忙しくなってあまり別荘に行かなくなった。
ヒカリは小さい頃からやっているテニスが好きで、そのまま中学からテニス部に入り、高校では東京でベスト四くらいの成績を残してる。
俺だって小学生の頃はヒカリに負けなかった。
三日間みっちり特訓すれば、それなりくらいにはなるだろう。
運動神経には自信がある。
俺はその夜、ヒカリの持っているテニス関係の雑誌を読みまくった。
スピンサーブのフォーム。
バックハイボレーの足裁き。
となりでヒカリがあきれている。
「ナツ、そんなの初心者にはムリだって」
「ほっとけよ、こんくらいできなきゃ、オレンジに残れねえんだよ。初心者とか言うな!」
「オレンジ? オレンジに入ったの? 無謀じゃーん。何考えてんだよ。ナツ」
「いいからお前は俺がオレンジに残れるように、鍛えてくれ」
「へいへい。俺これから風呂はいるよ? ナツ、ここで雑誌読んでる?」
「部屋いく」
俺はテニス雑誌の山を両手で抱え、ヒカリの部屋を出た。
◇
あれから、俺はオレンジのたまり場である研究棟の下のカフェで昼飯を食うことにした。
いままでは、健司とナベが入ったヨット同好会、GO TO SEA とかいうイケてないネーミングのサークルのたまり場で、あいつらとメシを食っていた。
そこは新しくできた八号館の最上階にあって、通称八カフェという見晴らしのいい場所だった。
この同好会は、歴史はないもののかなり本格的なサークルで、ヨットレースで上位の成績を上げているらしい。
ヨット部のない俺らの大学は、このサークルに去年から予算を割き始めたという話だ。
俺らフォルガのつながりは生涯切れない。
だけどこうしてすこしずつ、みんな大学にそれぞれの居場所を見つけていった。
オレンジの中での、俺の居場所も徐々にできつつある。
同期の男は七人。
みんなテニス部出身で、しかも高校で輝かしい成績を残しているやつらばかりだ。
でもみんな気さくでつきあいやすい。
同じ経済学部には枝川という奴がいた。
かぶっている授業も多くて、なにかと重宝しそうだ。(あっちは俺を重宝しないと思う)
菜々子さんと千夏先輩、それに百合先輩はいつも同じ場所でメシを食っている。
菜々子さんの俺に対する態度は、この間が初対面の後輩に対するそれ、そのものだった。
「菜々子さん、ドイツ語教えてください」
意を決して話しかけてみる。
「いいわよ。次の講義までね。こっちきて」
顔色ひとつ変えない。
俺がテキストの問題文を示すと、俺のノートに見慣れたドイツ語をさらさらと書く。
「ここが違う。これ、Freheinは女性名詞。面倒だけど、女性名詞と男性名詞、中性名詞は辞書でいちいち確認するしかないんだよ。ただ、少しは規則性があるみたいで、女性名詞に多いのは、語尾が、heit,とかung ie……。あとは……」
シャーペンで俺のノートに要点を書きつけながら懇切丁寧に教えてくれる菜々子さん。
だけど、もう二号館で二人でドイツ語をやることはない。
華奢な白い指。
その指で落ちてきた髪を耳に掛ける。
それから考え込むように唇で人差し指の第二関節あたりを軽く挟む。
俺の指ときつく絡めあった細い指。
俺の横で揺れていた髪。
ターコイズの小さなピアスのついた、俺が好きだった耳。
そして、俺のと深く重ねあわせた弾力のある優しい唇。
この間まで。
全部。
全部、俺のものだった。俺のものだったのに。
「一之瀬君? わかった?」
わかるわけがない。
俺が見ているのはドイツ語じゃなくてあなただから。
「じゃ、わたし、講義だから」
なんでそんなに普通にしていられるんだ。
俺のことなんてまったく眼中にない?
毎週何回も地下街をブラついて、ただ歩いているだけで、ただコーヒーを飲んで喋っているだけで、あんなに楽しかったのに。
今も、俺の口にする冗談に、幸せそうに笑うあなたの顔がこんなに鮮明に思い出せるのに。
「ナツ、プレイボーイがカタナシだな。ああまで相手にされないと」
枝川がニヤニヤ笑って言う。
「マジで凹むよ」
俺は、今日はないドイツ語のノートをのろのろと鞄につめこんだ。
何日もそんな日が続いた。
◇
俺は大学が終わるとジムに行くまでの間、ヒカリから教えてもらった壁うちスポットへ行ったり、オートテニスへ行ったりして、テニスの腕を磨いた。
三連休で、ヒカリにみっちりしごかれたおかげで、だいぶ勘がもどってきてはいた。
ただカフェでの菜々子さんとの距離は縮まらない。
いっそ、なんで今さら入ってきたのよ、とか攻められたほうが、まだ少しは俺を意識してくれているようで、ここまで寂しい気持ちにはならなかったかもしれない。
「好き」の反対は「嫌い」じゃなくて「無関心」……。
たぶん、嫌い、のほうがまだマシだった。
あなたの心に、嫌い、という俺の場所があったほうがまだよかったんだ。
その日もカフェで飯を食っていた。
菜々子さんがマスター(バイトの学生)から食後のコーヒーを受け取って、自分の席に戻ろうとした時だった。
細かい揺れが足元からきた。
地震だな、と思った次の瞬間、思いのほか地面が大きく揺れ始めた。
菜々子さんの持つソーサーの上のカップがひっくり返りそうだ―――、俺の足はテーブルの間をぬって走り出していた。
「危ない!」
菜々子さんのほうにひっくり返りかけていたカップを、手で向こう側に払いのける。
「ナツ!」
俺の手におもいっきり熱いコーヒーがかかり、カップは床に落ちて砕け散った。
「あちっ」
マスターがすぐカウンターから出てきて、俺の腕をつかみ、細い通路の先の厨房へ連れて行った。
「水、水、ここで流水で冷やしてろ」
シンクの上に俺の手を持っていって、勢いよく蛇口をひねる。
「ありがとうございます」
そのあと、後片付けのためにマスターはフロアへ出て行った。
「い、一之瀬くん」
菜々子さんだった。
俺のすぐ後ろで所在なさげに立っている。
「ご、ごめん。大丈夫?」
「たいした量かかってないよ。俺が勝手にやったことだし」
「でもその手じゃ今日はボクシングできないよね?」
横から俺の手を覗き込む。
たしかに俺の手は赤くはなっているけど、別にこんなのは今日、一日で治るだろう。
「ぜんぜん平気。こんなの」
「ごめんね……ごめんね……」
俺は水道を止めて、菜々子さんの正面をむいた。
ぬれている手はTシャツのわき腹あたりでちゃっちゃと拭く。
「だっ、だめだよ。そんなことしちゃ」
思わず俺に菜々子さんが手を出そうとする。
今をのがしたら二人で話なんかできない。
火傷どころじゃなかった。
菜々子さんにつめよるように一歩踏み出す。
「俺って、あなたにとって何?」
「え……」
「なかったことにしたい記憶? 忘れたい汚点? 過去に俺なんか存在してなくて、最近オレンジに入ってきた下級生?」
「………」
「あなたが俺を信じられなくて、別れたのは仕方ない。でも、地下街歩いたり、一緒にコーヒー飲んで笑ったり、そういう思い出も全部あなたの中では消えたの?」
「ナ……一之瀬君……わたしたちは」
「俺……あなたを忘れようとがんばったよ。実際、俺みたいな男、とてもあなたにふさわしいとは思えないし」
「………」
「でもダメだった。近くにいるだけでもいいって、オレンジにきた。何ものぞんでない。でもあなたと過ごした時間は俺の宝だよ。あなたにとっては汚点でも」
「………」
「まだ好きだって言ったよな? 辛いよ俺。すごく辛い。今の菜々子さんの態度」
「………」
「俺みたいな女にだらしないスポーツバカの気持ちなんてどうでもいい?」
言いたいことをそこまで吐き出すと、俺に限界がきた。
声が上ずって感情の制御ができない。
言葉もはさめないで俺を凝視している菜々子さんの脇をすり抜け、慌ててフロアにむかった。
バカだ。
バカすぎる。
あんなことを彼女に言ってどうなるんだよ。
ラインはブロックされている。
彼女のアドレスから、もう俺の名前は削除されている。
「ブロックに削除……削除かぁ。きっつい単語だなー」
じじいみたいに独り言がでた。
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