Nanako 7.sweet
次の日、サークルのたまり場の研究棟下のカフェでアメリカの児童文学の原書を読みながら、時間をつぶしていた。
カフェには部長の高宮さんと同級生の男の子が何人かいるだけだった。
千夏も百合もこの時間は授業に出ている。
「ちわっす」
上から降り注いだ声に仰天した。
ナツ!! どうして?
そこにはナツが肩にスーパーのビニール袋をひっかけて立っていた。
「お前、一之瀬……だったよな? 一回も練習こないってどういうことだ?」
部長の高宮さんが、口調はやんわりとだけど、はっきりと咎めた。
「すみません。俺、ボクシングもやってるんで、なかなか時間とれなくて」
「どういうつもりで入ったのか知らないが、このサークルはお遊びとはちょっと違う。ほかのスポーツとの掛け持ちは無理だよ」
「はい」
「とにかく、全員参加が条件の夏合宿にもこれないようだったら、そこで入会は終わりだ」
「はい……」
わたしはナツを凝視した。
何をしにきたの?
もしかしてこの場でサークルやめるとか?
でも、もうどう考えてもやめるのは時間の問題だ。
サークルのある土日、ナツはほとんどボクシングジムに詰めてる。
神妙な顔をして部長の話を聞いてたナツの視線は、話が終わると同時に、フっとわたしに向けられた。
「菜々子先輩、ドイツ語のことで……。ちょっといいっすか?」
うちのサークル、縦関係で勉強も協力しあうような不文律ができていて、勉強にかこつけられると嫌とは言えない。
「ここでやれよ!」
隣のブースにいた同級生の風間っちが、ナツに向かって声を荒げる。
「あー、俺、図書館にかばん置いてきちゃって。一緒に行ってもらえないっすか?」
ナツの重い視線がわたしをとらえる。
うむを言わせないような視線。
一緒に来い、そう言っている。
「うん……」
わたしは自分のバッグを持って、立ち上がった。
うちのサークルには不文律がもうひとつある。
夏合宿までは、一年生に、誰と誰がつき合っているとか、つまり、上級生の恋愛関係は内緒にしなければならないんである。
まして新歓コンパで一年に手をだしたなんてことが、上に知られたらおおごとだ。
だからわたしとナツの関係も知っているのは千夏だけだ。
そうだこの間、高志には話したけど、彼はわたしのことは見てみぬふりをしてくれている。
なんだか痛い視線を背中に感じながら、わたしはカフェをあとにした。
ナツはどんどん歩いていく。
しかもそっちは図書館じゃない。
「ナツ……」
気まずいのもあって、わたしは小さくナツの背中に声をかけた。
中庭のまんなかあたりまでくると、ナツがわたしの手を握った。
また強くにぎるから、わたしの手は五本の指が開いたまま固定される。
ナツは何もしゃべらないまま、わたしの手をひいて向かった先は、空き教室の多い二号館だった。
最初に、ドイツ語の訳をわたしがやった教室に入っていく。
「ここでやるの?」
ナツがはじめてくすっと笑った。
「だからその発言はエロいって」
あ……。
わたしまた同じこと。
でも今日は、笑えもしなければ、バッグでナツをひっぱたくこともできない。
「そんな、泣きそうな顔しないでよ」
教卓の前で立ち止まったナツは、困ったような、ちょっとゆがんだ笑顔をみせた。
ナツのほうが泣きそうな顔してると思った。
ナツはちょっと腰をおとすとわたしのわき腹を両手でつかみ、えいってカンジで持ち上げて教卓の上に座らせた。
「ドイツ語じゃないの?」
「こないだあたったから今日はあたんない」
「じゃ、なんで……」
「怪我、手当てさせてって言ったじゃん」
「い、いいよ。昨日、自分でやったから」
その言葉は無視して、ナツは目の前にあるわたしの膝に視線を落とす。
今日は膝より短い丈のすとんとしたワンピにふくらはぎあたりで止まるレギンスだ。
ミニワンピが多くて、こういう格好はわたしにしては珍しい。
でもレギンスは膝のガーゼを上手く隠してくれて都合がよかった。
わたしが座らされた教卓の正面に立ったナツは、いきなり右足のレギンスを膝上までめくりあげる。
「ちょっ。やめてよ、大丈夫だってば」
「動かないの!!」
強い口調を落とされ、なにも言い返せずにわたしは黙った。
どうして?
そもそもこんな傷をつくったのは、ナツが原因なんだから、振り切って教卓から飛び降りて、走って出てしまえばいいのに。
でも、今日のナツはそうさせるのをためらうような、寂しそうな雰囲気をかもし出している。
ナツはビニール袋の中から、軟膏やハサミやガーゼ、消毒液を取り出して、自分のとなりの机に置いた。
わたしの右膝についているガーゼを慎重にはがしていくナツは、そうされているわたしよりも痛そうな顔をしていた。
わたしが昨日つけた軟膏を恐々した手つきでガーゼでふき取り、消毒をする。
それからナツが買ったらしい軟膏をつけて、新しいガーゼをあて、テープでとめた。
なおも彼はうつむいている。
「ごめん」
低く、苦しそうな声に胸が震え、わたしは昨日から思っていた疑問を口にしてみることにする。
「ナツ、何に対して謝ってるの?」
「乱暴なことしてこんな傷、つくったこと」
ナツがわたしをはさんで教卓に両手をつき、ガーゼの上に、静かに唇を置いた。
その場所、膝から全身の血管に電流が走る。
「菜々子さんさ、昨日一人で泣いてるんじゃないかって……何にも言わないですぐ我慢するから」
「………」
「だから昨日、菜々子さんの近くに居たかったんだよ。あのライン、返信してくれなかったけど、俺、ホント、昨日のラインには下心とかみじんもなくて。ただ近くに居たかった」
「………」
「電話でも俺に、昨日のことぜんぜん喋らせないようにしてすぐ切っちゃうし」
そこでナツは顔をあげて、わたしの目をまっすぐにとらえた。
「勝手かもしんないけど、勝手だってわかってるけど、菜々子さんが昨日のこと、一から十まで全部なかったことにしようとしてるみたいで、すげえ嫌だった」
胸がズキンと疼く。
ナツの言葉の一つ一つにわたしの全部の細胞が反応している。
「乱暴なことしてごめん」
「うん…」
「やり直して」
「え?」
「昨日のこと、なかったことにすんのはやだけど、塗り替えたい。あなたの記憶から。あなたが泣くのは嫌だ」
「……な、泣いてないよ」
「嘘だ」
ナツの右手がゆっくりわたしの後頭部に伸びてきて、そうっと自分のほうにひきよせる。
その手が、かすかに震えているように感じるのは、わたしの錯覚だろうか。
わたしは、動くこともできずに、ナツの顔が近づいてくるのをだまって見ていた。
「そんなに見るなよ。目ぇ閉じろってば」
ナツのもう片方の手が、わたしの頬をつつむ。
ためらうような優しい感触だ。
身体が勝手に反応してわたしは目を閉じる。
次の瞬間、唇に柔らかい弾力を感じ、それはすぐに離れていった。
うっすらと目をあけると、うつむいて、唇をかみ締めているナツの顔がすぐ近くにある。
傷ついた子供みたいだと思った。
たまらない愛おしさがこみ上げてきて、わたしはナツの背中に両腕を回した。
教卓に座らされてるわたしとナツの身長差は、いつもより少なくて、いつもよりずっとナツの顔が近くて……ドキドキする。
一瞬、ナツはびっくりしたように大きく目を見開き、またわたしに唇を重ねてきた。
今度は後頭部に置かれている手に力が加えられ、ぐっとナツのほうにひきよせられる。
それでも、充分に優しいキスだった。
探るみたいにわたしの唇をゆっくりなめてから、意を決したように唇が割られ、ナツの舌が侵入する。
ひとつひとつ確かめるようなていねいな動きに、頭の中が白く濁る。
わたしのすべてがナツにおぼれてゆく。
力が抜けそうになり、わたしはナツの背中のシャツをぎゅっとにぎりしめた。
「やっ、ここ、やばいって!」
突然響いた抑えたような女の子の声に、わたしたちは、バッと離れる。
教室に入ってこようとした二、三人の女の子が、お弁当箱を手に、あたふたと出ていくのが見えた。
気まずさに下を向いていると、いつもの調子でナツが言った。
「菜々子さん、顔、真っ赤」
「…………」
「じゃまされて途中になっちゃったから、また最初っからやり直しだなー」
な! 何を言いやがる。
「………」
「マジで……、昨日、菜々子さんから二度目のライン、返信こなくてよかったかも。下心なかったのはホントだけど、俺、やり直しだけで止まれる自制心、あったかどうかわかんないし」
「………」
「そしたらまた菜々子さんに突き飛ばされてた」
突き飛ばさないよ、と素直に言えない。そうなっていたら……突き飛ばしてたかもしれないな。
明るい表情にもどって、わたしに背をむけると大きく伸びをするナツを見つめながら思った。
キミは、どうしてわたしにキスをするの?
欲望?
義務?
それとも、……愛の片鱗?
小さな愛情がわたしに対して芽生えてきたと、そう思っても、いいですか?
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