Nanako 6.obscurity―kiss


あれから、やっぱりわたしとナツの関係は変わらない。わたしだけがする電話。


わたしだけが送るライン。

わたしだけが誘うデート。

わたしのほうから腕を組む。


わたしのことを“さん”づけで呼ぶナツ。


でも変わったこともある。


ナツはいつも十時きっかりにするわたしの電話に、必ず出るようになった。


まわりが静かな時もあるけど、たいていまわりはうるさくて、その喧騒はドア一枚隔てた向こう側にあるようだった。


たまにだけど、あんまり自分のことを喋らないわたしに、ナツがしつこく質問してくるようになったこと。


兄弟のこととか、出身地のことととか。


友達のこととか。


なんの雑誌が好き? 

なんの本が好き? 

どんな音楽が好き? 

どんな映画が好き?


簡単に答えられる質問はいいけど、答えたくない質問でもナツは絶対容赦しない。


答えないと機嫌が悪くなって、またあの怒っているみたいな顔になる。


仕方なくわたしは話す。


答えると、ぱっと明るい笑顔になってくれる時もあれば、しぶしぶといった感じに唇の端を持ち上げることもある。



だから。

出身のこと……子供の頃のこと、わたしは嘘をつく……。


それから、千夏に言われたせいなのか、ナツはもうわたしを自分のマンションに誘わなくなった。


誘われるのも複雑だけど、ぜんぜん誘われなくなったのもそれはそれで複雑だ。


気になるのは、何かの瞬間、ナツは前触れもなく口をつぐむことが多くなった。


苦い何かに耐えるような、男の表情になる。


週に二、三度、たいてい大学が終わってから、ナツのジムが始まるまでの数時間、駅のショッピングモールをウロウロする。


ナツの気持ちがわからない。


うら寂しくて、でもそれなりに満ち足りた静かな日常で、気づけばわたしはほとんど高志のことを考えることがなくなっていた。


ふとした瞬間、わたしはナツのことを考えている自分に気づいてびっくりすることがある。


ナツの、血管が浮き出た手の甲と、節くれだった長い指が無造作にグラスをつかみ取る映像が脳裏をよぎる。


肩から肘にかけての二つの筋肉の山、Tシャツの上からでもわかる斜めに走るその流れが、触れて確かめたくなるくらいきれい……。


だとか。


……いったい何を考えているんだわたし! 


これじゃただの変態だよ……と、自分で思ったりもする。



いつもの午後のようにその日、わたしたちは大きな駅の地下にあるショッピングモールの中の喫茶店で喋っていた。


あいかわらずナツが喋って、わたしが聞いているという構図だ。


ナツのラグビー時代の話を聞いていた。


ナツが高校三年のとき、ナツたちは全国大会に出場したらしい。


「俺らの三コ上の先輩が煙草でつかまってさ、その年は大会出場できなかったらしいんだよ。それから部員がめっちゃ、減ってさー、花園に行ったときは十五人ぎりぎりだったんだよ人数。あ、ラグビーって十五人ですんのな」


「うん」


「二、三年あわせて十五人。まぁほとんど三年だけど。でもこの人数でみんなぎりぎりんとこでがんばって、でも一回戦で負けちゃったんだけどさ」


「ふぅん」


「んで、まあ結束が固いわけよ。俺らもガキだったのもあって、記念に十五人全員でタトゥーいれようってことんなったんだよ」


「タトゥー?」


「そう、喫茶店で何にするかって考えてて、チーム名でもよかったんだけど、俺ら、十五人しかない名前にしようとか、誰かが言い出してよー」


「うん」


「すんげえ何時間も十五人で悩んで、もうみんなイライラし始めたんだよ。んで誰かが、おしぼり人に投げてさー、そいつが、そんなもんフォール奴ガいるかよ!! って言ったんだよ。それで決まった」


「何に?」

「フォルガ」

「フォルガ……」


素敵な名前だと思った。十五人だけの勲章。

いつまでもかわらない証としての刺青。


「男って熱くなると変なことするだろ?」


そんなことないよ、って言葉自体が軽く感じた。


「見たい」


「や、それがさ、ほら、タトゥーあると、ホテルのプールとかいけないじゃん。だから、腰の下ーのほうなんだよ。入れたの」


「いいよ。見たい。どうしても見たいっ!!」


「え……それって……」


なぜかナツはすごく動揺して、手に触れていたアイスコーヒーのグラスをひっくり返した。


「何やってんのよナツ!」


「わ…わりい」


わたしはすぐグラスをもとにもどしておしぼりでこぼれたコーヒーをふいた。


幸い、グラスの中はほとんど氷で、たいして濡れることもなかった。


「いいの? 菜々子さん」


なにがいいの? なのかわからず、ナツを見つめると、怒ってるわけでもないのに色気が全面にでた男モードの顔になってわたしを見据えてる。


ん? って感じで、ナツを見返すと、ナツはやけにこわばった顔をして、黙って伝表を手にとって立ち上がった。


なんだか動きがぎくしゃくしてる。何で急に?


「ちょっとっ」


わたしは後ろをむいているナツのベルトに手をかけた。


「何すんだよ!」


ナツがなぜか赤い顔で振り返った。


「タトゥー見せてって言ったじゃない!!」


「ああ、だから――…」

「早く早くー」


「…まさか、ここで?」

「そう!!」


ナツが伝表を持った手を、テーブルに落っことすみたいな座り方でどかっ!! と椅子に腰をおろした。


「ったく、なんだよもうっ!! 仰天したじゃんかっっ!」


ナツは片手で額を覆って、肘をついた。


「ねぇ、早くっ。見たいってば!!」


「こんなとこでズボンぬぐわけいかねぇだろっ!!」


「平気だよ。ここ、角で観葉植物で隠れてるもん。どうせジーンズ腰バキなんだからあとちょっとベルトゆるめれば見えるよ」


「もうかなわねぇよ、菜々子さんには」


ナツは大きくひとつため息をつくと立ち上がって、後ろを向き、ベルトをゆるめた。


「恥ずかしいから一瞬な。てか、警察いたら確実に捕まるぞ。俺」


ナツはホントに一瞬だけ、ジーンズの後ろをグッと下ろして……すぐあげた。


見えた。

小さくFORGAの文字が下に書かれた輪の上をさえぎるように……。


それはちゃんと見えたんだけど……。


別に見るつもりのない、おおおおおおお尻も見えてしまった。


「あーす、すごいね」


ダメだ恥ずかしくって顔があげられない。


「どーしたの? 菜々子さん。そんな下むいちゃって」


お尻が見えたから恥ずかしいとは言えない。


「ケツまで見えたから照れてんだろ?」


わたしはますます下をむくしかない。


今顔をあげたら、さっきのナツ以上に真っ赤になってるに決まってる。


「パンツも見たんだろ? あーお気に入りのパンツ履いてきてよかった。俺、菜々子さんに会う時は勝負パンツって決めてんだ!!」


またそういうバカなことを言い出す。


わたしはもう残っていないアイスカフェラテのグラスに手を伸ばし……。


「もうぜんぜん残ってないよソレ」


ナツの意地悪!!


「顔あげろよ? 恥ずかしい思いして見せたんだからちゃんと俺見て、感想言えよ」


そうだね、ちゃんと言わなきゃ。


わたしはたぶん真っ赤な顔を、ヤケ気味にあげた。


「素敵」

「………」


「憧れる。そういうナツの人の繋がりを大事にするとこ」

「………」

「まぶしい」


恥ずかしかったはずなのに、どうしてわたし……。


気がつくとじわじわと涙がにじんできていて、わたしはあわてて、右目を指でぬぐった。


「……なにこれ……」


ナツが聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いて、自分の右手を胸の前あたりの宙に一瞬、浮かせる。


ナツは、ものすごく苦しそうな顔をしてて、唇を強く噛んでいる。


「出よう」


いきなりまた伝票をつかんで立ち上がる。


どうしたの? さっきまでおチャラけてわたしのことからかってたのに。


「待ってよナツ!!」


すごい早さで出てしまったナツをおいかける。


さっさと会計をすませて先を歩きだしているナツの腕に、自分の腕をそっとからませる。


どうしたの? なにかわたし悪いことしたの?


そんなに早く歩かないで。


ナツはわたしが絡めた腕から自分の腕をやんわりと引き抜くと、わたしの手を握った。


指と指を絡める握り方で、初めてナツから手を握ってくれたから、わたしもそれにこたえて握りかえそうとしたのに、彼があんまり力をいれてるもんだから、わたしの指が曲がらなかった。


「ナツ、ねぇ、どこに行くの?」


返事がない。


何を怒ってるの? 


わたし、何か気に障ること言った? 


黙ってこんな態度をとられてもちっともわからないよ。


「ナツ……痛いよ」


ナツがあんまり早く歩くから、引っ張られているみたいだ。


ぜんぜんしゃべらないナツは地下街から地上に出て、歓楽街の路地裏のほうへ入って行った。


小さな飲食店の裏口ばかりが並ぶような細い道には、生ごみ用の青いポリバケツがいくつもならんでいた。


……何ここ? こんな場所があるんだ?

なんでいきなり?


暑くなりはじめた陽気にかすかな悪臭が漂っている。


まだ陽は落ちていないけれど、人通りは0だ。


「ナツっ。ナツったら!!」


かなりのスピードで歩いていたナツがいきなり立ち止まったから、わたしは彼の肩口に鼻先からつっこむことになった。


自分の鼻を押さえて見上げる先に、ナツの苦しげな視線が降っている。


「ナツ、どう――――……」


言葉の途中で、わたしの身体が前に傾き――――――……いきなりナツに抱きすくめられた。


ナツの両腕はわたしの背中を上下に横切って、交互になったその手は痛いほどの力で肩と腕に食い込んでいる。


どうしてこんなことになっているのか、一体何がおこっているのか全くわからず、ただ心臓だけがバクバクと破裂しそうなくらいに踊っていた。


締め付けられる腕は力を増し、ナツはわたしの髪の間に鼻先を強くおしつける。


ナツの体から放たれる雄のにおいがわたしを縛る。


しばらくして、腕がゆっくり解かれた。

至近距離で目が合う。


ナツの瞳は熱に浮かされたように潤んでいて、かみ締める唇からも、ゆがめられた眉間からも、におい立つような色気が感じられる。


いつもと全然違うナツに、彼が何をしようとしているのかを悟る。


わたしは一瞬恐くなって顔をそらせた。


その顔を両手で挟まれて正面を向かせられると、予想どうり、ナツの唇が降ってきた。


乱暴で急いたキス。


むさぼるようなキス。


これは恋人同士なんだから当たり前。

むしろ遅すぎたくらい。


そう思っても、豹変したナツが恐くて、息をつぐためにわずかに体が離された時――、


「…ゃ…」


わたしは両手でナツの腕を押し戻していた。


それがナツをさらに刺激したのか、彼は押し戻したわたしの手首を両手でつかみ上げ、後ろの壁に押さえつけた。


さらに強引なキスが降り注ぎ、わたしの唇を割ってナツの舌が入ってきた。


堪能するようにわたしの口の中で動く舌。


この行為に愛はある? わからない。


わたしは渾身の力をこめて身体をひねり、一瞬離れた片手でナツを思い切り突き飛ばした。


路地の出口をめざして走りだそうとしたわたしは、置いてあったポリバケツの一つにつまずき、ポリバケツごとひっくり返る。


右ひざをしたたかに打って、そこから血があふれ出す。


ナツが息を呑むのがわかった。


「菜々子さん!!」


ナツがわたしの腕を持って引っ張りあげる。

わたしはその手を振り払った。


ずっとテニスで鍛えた足。

走ることには自信があった。


呆然として動けないでいるナツを視界の端にとらえると、猛烈な勢いで走り出す。


ミュールだけど、履きなれたものでよかった。


歓楽街を抜け、駅の地下へと降りる階段のところで、腕をつかまれた。


「菜々子さん!! 話聞いて……俺……」


息をきらしたナツがわたしをすごく切ない目で見る。


まわりには人だらけ。

好奇の視線が痛い。

冷静にならなきゃ。


わたしのほうが年上なんだ。


わたしはつとめて冷静な口調で言った。


「ごめんね。これから家庭教師のバイトなの」

「送る」


「きょ、今日は近くだから。一人で行ける」

「送らせて」


「……ゃだ」


ナツは静かにわたしの手を離した。


わたしは走って階段を下り、自動改札をすりぬけた。


「痛っ……」


膝の傷口は縫うほどじゃないけど、浅いというわけにもいかない。


それでも電車の中でハンカチでずっと押さえていたら、わたしのアパートがある駅につく頃には、血は止まっていた。


駅前の薬局で消毒薬や軟膏、ガーゼを買って帰る。


家に戻ると、消毒して軟膏をぬり、ガーゼを置いてテープで止めた。


わたしは部屋の角に座り、壁にもたれた。


「わかんないよナツ……」


何を考えての行動だったのか。


わたしだってもう子供じゃないし、男の子とつき合うってことがどういうことなのかを、知らないわけじゃない。


でも、わたしとナツにとっては、初めてのキスだったわけで、それをあんな、異臭のする路地裏で、生ごみのポリバケツに囲まれながら……って。


キスがイヤだったわけじゃない。


……ただ、ナツの気持ちがわからないまま、行為だけが進んでいくのがすごくイヤだった。


わたしの気持ちも置き去りのままだ。


でも、自分で決めてはじめた恋。

やっぱりわたしが悪かったんだ。


あんなふうに恐がってナツを突き飛ばして、彼のプライドを傷つけた。



わたしはあふれる涙もそのままに、放心したように、正面の壁を眺め続けた。


その日、初めて、ナツからラインが届いた。


「ごめん。俺、どうかしてた」


その微妙な内容をどうとっていいのかわからなかった。


なにに対してのごめん? 

キスしたこと?

気持ちがないのにキスしたこと? 


キスしたことを謝られるって、かなり傷つくんだけど。


どう返信したらいいのかわからずに、迷いに迷って『いいよ』とだけ送った。


既読はすぐについたものの、返信がないまま数分が過ぎ、それからさらにしばらくがたってから、ナツから二度目のラインがきた。



「怪我の手当てをさせて」


どういうこと? 

今からこの部屋に来るってこと? 


こんな気持ちのままナツをこの部屋にあげる気にはとうていなれない。


結局、そのラインには返信しなかった。


もうすぐ十時になる。

いつもわたしからナツに電話をする時間だ。


つき合いだしてからの二ヶ月の間、わたしはどんなにその時間がふさがっていても、調整して無理に続けてきた。


わたしは手の中のスマホを見つめる。


ナツがわたしにラインをくれた。


微妙だけど、とにかくラインを打っている時間は、ナツはわたしのことを考えてくれたってことだよね。


この二ヶ月でわかったことだけど、ナツの思考の大部分は友達と、ボクシングやラグビーなんかのスポーツのことでしめられている。


そのナツがラインをくれたんだ。

進歩なんだと思おう。


大丈夫ナツは優しい。


通話画面に触れる。


ワンコールで出たナツの声はこころもち、興奮しているようだったけど、いつもとあんまりかわらない……気もする。


もうあのことには触れないでおこうと思った。


わたしはナツが謝りそうな気配を察知すると、すばやく話題を変えた。


なぜか謝られるのがすごくイヤだった。


あたりさわりのない会話をして、その日はすぐに電話を切った。























































































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