第8章

第22話

「揺れる!」

 少しはしゃいだような、それでいて不安なような声を上げたラナロロに、メニラは笑い声を上げた。

 ラナロロと一緒になって柵に掴まって下を覗き込むと、じゃぶじゃぶと音を立てて波が船の壁面にぶつかっているのが見えた。

「船、壊れないか心配だ。海では泳いだことがない」

 島国出身のメニラは船に乗ったことがある。というか、村にいた時頻繁に魚を獲っていたのでかなり慣れてはいる。一方でラナロロは船に乗ったことが一度もないと言う。

「そんな簡単には壊れないと思うよ」

「もし壊れたらどうすればいい?」

「壊れたらどうしようもないよ。泳いでも岸にたどり着く前にへばっちゃうと思うな」

 ラナロロは真顔のまま黙った。平均的な人の表情に補正したら、顔色が曇っているという表現になるんだろうか。多分不安になっているのだろう。古城のトラップに対してはあんなに度胸があったのに。肝が据わっているのかそうでもないのかよくわからない人だ。

 二人はエジュジャの街、レヴトの港にいる。この船はレヴトを出るとオランビエの海沿いの街ロランエールへ向かう。

「何回か乗っとるが、まだこうして生きとるぞ。余程運が悪くなければ大丈夫じゃろ」

 そう後ろから声をかけたのは武器商人のお爺さんだ。二人が行きとは違うルート、つまり陸路でなく海路を選んだのは、この武器商人の提案があったからだった。

 ラナロロの目が覚めた日の翌日、夕方ごろに武器商人の泊っている部屋を尋ねると、武器商人はあと二、三日待ってくれと言った。

「いや、俺たち、お爺さんを連れ戻しに来たわけじゃないんだけど」

「ん?そうなのか。てっきり誰かに頼まれたのかと思ったわい」

 武器商人はわさわさとボリュームのある髭を撫でた。

「瘴気の病を治す薬について、何か知ってるか?それを聞きたくて来た」

「ああ、なるほど!待っとれば戻ったのに。お前さんたちはせっかちじゃな」

 言いながら、武器商人はメニラの背中をばしばしと叩いた。老人の割に力が強い。続けて、怪我を気遣ってか弱めにラナロロの背中を叩く。

「待ってたらお爺さんは盗賊に捕まりっぱなしだったでしょ」

「んー。それもそうじゃ」

 武器商人は聞かれた内容について思い出そうとしばらくの間唸った。やがて、記憶を探り当てたのか顔の横でぴんと人差し指を立てた。

「思い出したぞ。ゼーリカの鍛冶屋に聞いたんじゃ」

 ゼーリカというのはギプタの東にある国だ。元々メニラが行こうとしていた国でもある。

「このくらいの瓶に入っとってな。透明な液体らしいんじゃが」

 武器商人はちょうど手の大きさくらいの四角を指で描いて見せた。

「どこで手に入るんだ?」

「そこまではわしも知らん。ただ、鍛冶屋の身内がそれを飲んで治ったとか言っとったような……」

 メニラとラナロロは顔を見合わせた。情報の出どころにかなり近づいている気がする。

「その鍛冶屋の詳しい場所は?」

「うーん。あと二、三日待っとってくれんかの。そしたらそこまで案内できる」

「そんな。そこまでしてもらわなくても、ただ場所だけ教えてもらえれば」

 ゼーリカは武器商人の住むオランビエから一か国分離れている。一本の剣を追い求めて国を越えるようなタフさをもった老人ではあるが、それでも連続での大移動は疲れるだろう。

 武器商人は呆れたような視線を二人に向けた。

「ああ、せっかちじゃからか……。宿泊代もちゃんと払うし交通費も出すからおとなしくしとれ」

 どうしようかとラナロロと視線を合わせると、武器商人はさらに続けた。

「助けてもらった礼じゃ。それくらいさせんか。それに久しぶりに鍛冶屋に会いに行くのもいいじゃろ」

 そういうわけで武器商人とともに店のあるアンテディールに一度戻ることになったが、武器商人はトラックを使わないと言う。

「あんな乗り物に年寄りが乗れるわけなかろう。船じゃ、船」

「確かに砂漠の中のトラックは苦痛だった……」

 ラナロロは行きのことを思い出しているのか苦い顔をしていた。一度くらいならいいと言っていた気もするが、二回目は避けたいのだろう。確かにまた体調を崩す可能性もある以上、船の方がいいのかもしれない。

 そうして武器商人の言葉通り三日をゼヴァーリで過ごし、今に至る。

「わしはちょっと向こうで話してくるからうろうろせんようにな」

 武器商人は小さい子どもを扱うみたいに言うと、手をひらひら振って船の中に入っていった。

 武器商人は顔が広いらしく、この船も知り合いのもので、頼んで乗せてもらったようだ。蒸気船ではなく帆船ではあるが、大きさもそこそこあって立派だった。貨物船なので客が乗るようにはできていないらしいが、こうして屋根がある時点で、野晒しみたいな目にあっていたトラックでの移動より数段上だと言える。

「薬、あるといいね」

「ああ……」

 ラナロロは水面に視線を落としたまま、小さく返事をした。長い睫毛が伏せられているその横顔は少し物憂げだ。

 この前イエヴィンのことを明かしてくれたラナロロは、今までと比べると晴れやかな顔をするようになったが、こうして未だにどこか陰のある表情をすることがある。やはり、病のことが気にかかるのだろうか。

「ラナロロ、きっと今日は星がよく見えるよ」

 少しでも気が休まればと思って口にすると、ラナロロははっとしたように顔を上げた。

「確かにそうだ。海の上なら絶景だろうな。船以外の光がないんだから」

 僅かに興奮気味に言うラナロロは、まだ太陽が高い位置にある空を眩しそうに見上げた。頭の中ではそこにたくさんの星が煌めいているのだろう。

「もし寝てたら絶対に起こしてくれ。絶対に」

 絶対と二回念押ししたラナロロは、少し子どもっぽく見えて面白おかしい。どうやら、行きにトラックの中で星を見そびれたことを相当悔しがっているようだ。

 しばらくすると武器商人が戻ってきて、中を案内すると言った。といっても、仕事の邪魔をしては悪いので乗船期間中に使うことになりそうな箇所のみに留められた。

 メニラが驚いたのは寝床だった。てっきり寝室があってベッドが設置されているのだろうと思っていたが、ハンモックという縄で編んだ吊り寝具を使うのだと言う。

「こことここに引っ掛ける部分があるじゃろ」

 武器商人は梁を指差した。

「夜になったらここにずらーっと並べるんじゃ。船はスペースが足りないからの」

「寝心地はどうなんだろう。なんだかぐらぐらしそうだ」

 ラナロロの言葉に、武器商人は孫を見ているかのように目を細めた。さっきも子どものような扱いをしていたし、長く生きてきた武器商人にしてみれば、メニラやラナロロのような若者はまだまだ幼く思えるのかもしれない。

「その通りぐらぐらする。ぐらぐらした方がいいんじゃ」

「どういうことだ?」

 武器商人は顎髭を撫でながら説明した。ハンモックは確かに揺れるが、船の揺れに合わせて傾くので、眠っている間に落下して怪我をする心配がないのだと言う。

 なるほど。メニラは新しい発見に目を剥いた。

メニラは自分の村で船に乗ってはいたが、こんな画期的なアイデアがあるというのは知らなかった。それは、近い距離での漁しかしておらず寝泊まりする必要がなかったということと、ハンモックを置く場所があるような大きな船ではなかったということが理由にある。それに旅で島から出た時も早朝に出発して夜には下船できたので、やはり泊まる必要がなかった。

 実際にハンモックの出番がやってきたのは日が沈んだ頃だった。吊るされたそれに恐る恐る身を預けたラナロロは、感動というよりは微妙な顔をしていた。

「なんか……変な感じだ」

「確かに常にちょっと動いてて、不思議な感覚。身体も真っすぐにはできないし」

 目を閉じる。しかし、このまま寝られそうにはない。

「わかった」

 同じように目を閉じていたラナロロは、唐突にそう呟いた。

「何が?」

「何かに例えられそうだと思って」

「何なの?」

「揺り籠」

 言い得て妙だと、メニラは肩を震わせて笑った。揺り籠で大の大人があやされているのかと思うと、なんだか間抜けに思えてくる。

 赤ん坊の時の記憶などないし揺れている向きも違うのだろうが、きっと似たような感覚だったのだろう。

 そうしているうちにまだ薄明るかった空もすっかり暗くなっていた。それに気づいた二人は慌ててデッキに出た。

 外は風があって少し肌寒かった。もしかすると、もう大分北上していて赤道付近ではない場所にいるのかもしれない。思えば今は十二月の終わり。ラナロロに出会ったのは夏だったのに、季節はとっくに冬へと移り変わっていた。

 なんだか少ししんみりとした気持ちになっていると、ラナロロの手が勢いよくメニラの腕を掴んだ。

「メニラ!」

 ラナロロが高い位置を見上げるのにつられ、メニラもそうする。

 思わず息をのんだ。驚くような数の星たちが、真っ黒い空の中にひしめき合っている。その粒の一つ一つが、青白い色をしていたり、黄金色をしていたりと異なる色彩をもっているのがはっきりとわかった。

 こんなに美しい夜空を見たのは初めてだ。

 メニラにぴったりくっついたままのラナロロは、少し瞳が潤んでいるように見えた。

「とても心動かされるのに、上手く表現できそうもない」

 それにメニラは微笑んだ。こうして飾らない言葉を聞けることが嬉しい。

 帆が視界を遮らないところでもっとよく星を見たくて、二人で手摺の方へ近づいた。

「ペガサス座、どれだろう。冬にも見えるのかな」

「メニラの作った馬の星座は?それも知りたい」

 メニラはくすくすと笑った。メニラが考えたものは星座なんて呼べる代物ではなかったが、行きのトラックで話したことを覚えていたらしい。

「どれだったかな。位置が変わっちゃうから……。多分こんな感じだったかなあ」

 夜空を指でなぞって言うと、ラナロロは笑いながら首を振った。

「全然わからない。私の顔の前でやってくれ」

「無理だよ。完全に目線は重ならないんだから」

 無茶振りに苦笑しながら、後ろに立って、ラナロロの目の前でもう一度同じ形を作ってみる。

「どう?」

「わかった。これだ」

 ラナロロはメニラを後ろに立たせたまま、自分の顔の前で人差し指を動かした。

「そうだろ?」

 振り返った顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいて、愛しくてたまらなくなる。

「そうかも」

 メニラが後ろから抱きしめると、ラナロロは幸せそうに笑った。

 しばらくそのまま星を眺めていると、後ろから人の来る気配があった。名残惜しいような気もしながら、そっとラナロロを離す。

「おー爺さんの連れか?」

 現れた若い男は、メニラたちと同じくらいの年頃に見えた。船員の一人だろう。他の乗員と同じように頭に布を巻いていて、半袖からよく日焼けた肌が覗いている。

「そうだ。武器商人の」

「ああ、星見てんのか。今日はよく晴れてるからなあ」

 メニラは男の言葉を聞きながら、今夜のように綺麗な星空が見えるのはそう多くはないことなのかもしれないと思った。

「星について聞いたら教えてもらえる?」

「はは、特別詳しいわけじゃねえけどよ。まあ船乗りだから、多少はわかるかもしれねえ」

 男は頭を掻きながら、何について聞きたいのか尋ねた。

「ペガサス座っていう星座があるって聞いたんだ。でもどれだかわからなくて」

「ああ、それならわかるぜ」

 男は西の方の空を指差した。

「あそこに四つ星があるだろ。あれが秋の四辺形」

 言われた通り他よりも明るく見える星が四つあるのがわかる。メニラは頷いた。

「そこから横に……ええと、こんな風に星を結ぶと……」

 男は言いながら、胸ポケットから紙を取り出してペンを走らせた。まず四角形が描かれる。そして、その右上の頂点から二本、右下の頂点から一本の線がそれぞれ伸びた。そこで男の手は止まる。

「これがペガサス座だ」

「えっ?」

 メニラとラナロロは首を傾げた。その紙を受け取ってじっと眺めるが、どうやっても羽の生えた馬には見えない。

 男はそんな様子を見て、また少し書き加えた。

「馬はそのままの向きじゃなくて逆さまになってんだ」

 線の上に追加された曲線によって、前足と頭、胴体が現れる。

「羽は?」

 男は少し考えて、やや投げやりに羽を描いた。

「ここの部分は、確か該当する星はねえんだ。でも絵としてはこんな感じだ」

 該当する星がないのに、羽の生えた馬の星座ということでいいんだろうか。どうも腑に落ちない。

 同じ気持ちなのか、ラナロロが馬の胴体に指を置いた。

「後ろ足は?」

「後ろ足?うーん。そこまで描いてる絵は見たことねえな。端からないんじゃねえか?」

 男はなかなか信じがたいことを言うと、豪快に笑って船内へと引き返していった。

 残された二人は、しばらくの間難しい顔をして紙と空を見比べていた。

「これを考えた西の方の国の人間というのはかなり想像力が豊かなんだな」

 最終的にそう呟いたラナロロにメニラは頷いた。まさかほとんど線だけでできているとは思わなかったし、羽の生えた馬の一部しか星で構成されていないことにはさらに驚いた。こんなことを言ったら星座を考えた人物に怒られそうではあるが、ずっと期待していただけになんだか拍子抜けしてしまった。

「あれが、ペガサス座……」

 未だにその方向を見つめているラナロロは、唖然とした様子で一度呟き、笑い交じりにもう一度呟いた。

「思ったのとは違ったが、星座が確かめられた。ずっと知りたかったから」

 メニラは目元を和らげた。

「自由のシンボル、だったよね。やっと見つけられた」

「そうか。自由のシンボル……。だから、無意識に心惹かれていたのかもしれない」

 ラナロロは驚いた表情の後で、控えめな唇に緩やかな弧を描いた。

 ラナロロを自由な旅に連れ出せた。そんな風に思っていいんだろうか。

 夜の風に曝され、すっかり冷たくなった髪に指を通す。ラナロロが目を伏せると、メニラは柔らかい形になったその唇を啄むようにした。

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