第20話
「イエヴィン……」
「イエヴィンは、今はギプタの一部だ。ギプタの東の端、ちょうど瘴気の森から東の部分が元々独立した地域だった」
七年前までは、ラナロロもそこに住んでいた。本当に小さな村で外部との交流もなかった。
「今はもう誰も住んでいない土地だ。家は皆焼かれた」
「焼かれた……?」
「ギプタ軍に焼かれた。生き残りは子どもだけだ」
ラナロロは服をきっちりと元に戻し、メニラに向き合った。
「イエヴィンの人間は忌み嫌われている。瘴気の森で狩りや採取なんかをしても死なないからだ。もちろん防毒マスクなしで。イエヴィンの者は瘴気の病には絶対ならない。むしろ瘴気を操って外部の者を殺してるんだと。周辺国の者なら皆知っている話だ」
メニラの顔に疑問が浮かんだ。
「瘴気の病にならない……?でもラナロロは」
「嘘を吐いたわけじゃない。町医者が言っていた通り、私は本当に病気にかかった」
ラナロロの身体を目にした医者は奇妙そうにしていた。それは、イエヴィンの刺青が入った人間が、瘴気の病を発症するなんてことはあり得なかったからだ。
町医者の態度に、メニラは瘴気の病それ自体に対する差別があると思ったようだったが、おそらくあれはイエヴィンに対する感情と、言い伝えに合わない人間に対する不信感から来るものだったとラナロロは思っている。
「どうして」
「わからない。ただ、同じ民族でも瘴気に対しての耐性には差があって、私が特別弱い体質なんだと思っている」
「イエヴィンの生まれでも防毒マスクをしていたのはそういうこと?」
「いや」
イエヴィンの掟では瘴気の森に入れるのは成人の儀を終えた者と決まっていたから、ギルドに入る前にラナロロが森で瘴気を吸ったことはない。イエヴィンの人間は瘴気で死なないと言われてはいるが、ラナロロたちのような生き残りはそれを経験しているわけではなく、かつて大人から聞いていただけだ。だから、本当に瘴気に耐性があるのかは皆不安に思っていた。
ギルドのあったギプタのヒュードフでは、ある程度都会なこともあって少し金を出しさえすれば防毒マスクは簡単に手に入る代物だった。そうとなれば命を安売りする必要はない。それだから、ラナロロ以外も皆防毒マスクは着けていた。
ラナロロはそのことを説明した。
「だから、自分には瘴気の耐性がないということを知ったのは病気になってからだ。あらかじめ知っていたわけじゃない」
メニラが難しそうな顔をしているのを見ながら、ラナロロは一旦話を締めくくった。
「とにかく、私はそういう気味の悪い人間だ」
メニラは特に答えることなく、しばらくの間考え込んでいた。視点は床の一点に留められている。
ラナロロはメニラをあまり視界に入れないようにしながら、水差しの水を飲んだ。二口飲んで、それを元に戻した時、声だけがこちらに投げかけられた。
「あの、それって気味が悪いかな?不思議ではあるけど……。少なくとも、ラナロロは瘴気を操れないしそれで人を殺せないでしょ?悪いことしてないよ」
本心か、それとも恩故にそう言っているだけなのか。判断はつかない。ただ、いつも真っすぐだった目が向いていないだけで、こうも孤独を感じるのかと思った。
横顔から目を逸らし、ラナロロは再び口を開いた。まだもう一つ明かさないといけないことがある。
「メニラが私に恩を感じてくれているのはわかっている。けれど、それも本当は少し違う。私はメニラが思っているよりずっと自分勝手な人間だ」
ギルドにはイエヴィンの生き残りが七人いたが、ギルドの内外問わず、ギプタの主要民族からは平等と見做されていない。こちらから話しかけることは許されず汚らわしいものとして扱われた。
一方で、故郷を追われたイエヴィンの人間はそれでも誇りをもっていた。自分たちこそが強く、気高い存在なのだと。瘴気で死なないということも、神から認められた民族故のことなのだと。それだから、ギルド内での自分たちの扱いの酷さは許せないことだというのが決まって出る愚痴だったと思う。生き残りたちはいつも気張っていた。それは、狩りで大きな成果を上げれば、ギルドの他の者たちも態度を改めざるを得ないだろうと考えていたからだ。
そこまで話すと、メニラは申し訳なさそうに口を挟んだ。
「ギルドにいた時、ラナロロはそういう風に見えなかったけど……」
「私は民族の誇りなんてもっていない。むしろ、イエヴィンの生まれでなければと、そう常に。そういう風だから、私はイエヴィンの生き残りたちからも次第に謗られるようになっていった」
自分でも馬鹿だと思う。子どもみたいに意地を張っていないで、表面上でも周りに合わせておけばよかったのだ。けれど、惨めな生活を送っているのに誇りなんて口にされるのが、ラナロロには耐えられなかった。同族を軽蔑していた。
瘴気の森でメニラを助けたあの日、ラナロロはギルドに所属するイエヴィンの人間二人とともに、狩猟に行っていた。オオトカゲを追って洞窟に入ったが、そのサイズはあまりに大きく、三人では仕留められるものではなかったと今のラナロロなら思う。しかし、それほどの大物なら、革から何まで高額で取引できる。二人がこの機会をみすみす見逃すわけはなかった。
そうして無理な戦いを挑んだラナロロたちだったが、結局歯が立たず、オオトカゲに振り回された二人は洞窟内の崖に転落してしまった。
その話を聞いて、メニラの瞳孔はがっと開いた。メニラと会った時ラナロロは一人だった。二人がどうなったかというのは察しがつくだろう。
「助かるような高さではなかった。それに、降りられもしなかった」
淡々と言うと、メニラの横顔は強張った。
ラナロロが二人を崖に突き落としたわけではない。オオトカゲに怯んで力を十分に出せていなかった可能性もあるが、誓って故意ではない。けれど、ギルドにいる残りの同族たちにはそんなこと関係ないだろう。異端者のラナロロがどんな風に詰られるか。そんなことは、すぐに想像がついた。
なんだかもう疲れていた。
オオトカゲを撒いて洞窟の入口までのろのろと戻った時、別のオオトカゲに襲われているメニラに出会った。
「メニラに防毒マスクを貸したのは、もしかしたら自分に瘴気の耐性があるんじゃないかと思ったからだ。……それに、その予想が外れても私はもう構わなかった。何か強い覚悟があってメニラを守ったわけじゃない」
「でもギプタの山の中で馬車から降ろしてくれたのは……。それは、自分の国の軍に追われること覚悟でやってくれたんでしょ」
メニラの言葉に、ラナロロは少し考えた。合っている気もするが、合っていないような気もする。
ラナロロは、元々ギプタに愛着などない。二度とギプタに戻れなくなったとして、その時に抱く感情は、メニラが自分の国から追い出されることを想像して抱く感情とは異なる。しかし、軍に捕まるかもしれないというのは恐ろしいことだった。特に、故郷の家を軍に焼かれたラナロロにとっては。
ギプタ軍にメニラが連れて行かれた時、本当は見捨てようと思った。いくら投げやりな気持ちに侵されていても、積極的に殺されに行くようなことはやはりまだ怖かった。
でも、ふと埃に塗れたような薄暗い空を見上げた時、寮の部屋でメニラと話したことが頭に浮かんだ。メニラは星の綺麗に見える場所がたくさんあると言っていた。自分の世界はなんて狭くてちっぽけなんだろう。自分も国の外に出れば、メニラみたいに自由になれるだろうか。イエヴィンのことを知らない人しかいない場所が、どこかにあるんじゃないかと思った。
「私にとっては、国から出るだけで自分の願望を叶えることができる。メニラを馬車から降ろす必要はなかったのは確かだ。それは礼のつもりだった。私に少しでも夢を見させてくれた礼のつもりだったんだ」
メニラは口を開きかけて、何も言わずに閉じた。驚愕する気持ちはわかる。失望するのもわかる。けれど、それについて、今この瞬間は考えないようにした。告げることはあと少しだった。
「だからメニラがそんなに恩を感じる必要はなくて、私を気味の悪い民族だと遠ざけても、誰もメニラのことを責めはしない。メニラが一生懸命薬を探すような義理もない。それが私の隠していたこと。メニラに軽蔑されたくなくて、黙っていたことだ」
ラナロロは、これまでメニラにしてしまったことを頭の中で振り返った。
初めは、ギルドの男たちやフィグがメニラにイエヴィンのことを語らなかったと知って、あえて自分から言おうとは思わなかっただけだった。自分から差別を受けたいと思う人間なんていない。けれど、一緒にいるうちに段々とメニラに惹かれていった。それで、他の有象無象の人間ではなく、もっと限定的にメニラのことを考えるようになって、その目に侮蔑の色が載るのを恐れるようになった。
結果として、もし先程のメニラの言葉が本心だとすれば、メニラはイエヴィンの生まれであるラナロロを蔑みはしないということになる。けれど、ただ自分の気持ちだけ優先して、ここまでメニラを騙し続けてきたことそれ自体が許されない。
「ラナロロ」
自分の膝を見つめ、そこをぎゅっと握りしめた。しかし、次に聞こえたのは予想したのとは全く異なるものだった。
「話してくれてありがとう」
そう言うと、メニラはラナロロの握りしめたままのラナロロの手に自分の手をそっと重ねた。それ以上は、何も言わなかった。
ラナロロは重なった手から視線をゆっくり上げた。怖くて直視できなかった目をようやく正面から見つめる。
こちらを見つめる深い色の目には、自分の乏しい想像力では描けないような、穏やかなものが満ちていた。
「メニラはなんで――」
なんでラナロロのことを許し、まだこうして受け入れてくれるのか。そう聞こうとして首を振った。そんなのこれまでと同じだ。
傷付きたくなくて、殻に閉じこもったまま。これまでのずるい自分から変われていない。
躊躇いがちに、メニラの指へと自分の指先を絡ませた。
「もし、許されるなら……、まだメニラの傍にいさせてほしい」
僅かに目が見開かれる。少しだけ絡んでいた指が今度はしっかりと組まれ、きゅっと力が入った。
「傍にいて」
メニラは、ラナロロの頬に手を添えて壊れ物を扱うような慎重さで顎までを撫でると、額をそっと合わせて唇を重ねた。
何度か角度を変えて、繰り返す。その途中でゆるりと持ち上がった目が合うとこそばゆそうに細まった。
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