第7章

第19話

 ラナロロが目を開いてから一番に飛び込んできたのは、自分のことを心配そうに見つめているメニラの顔だった。

 自分はベッドに横になっていて、メニラは傍らの硬い椅子の上でじっとしている。

 ああ、前にもこんなことがあった。ぼんやりと思う。

「……私はまた倒れたのか?」

 気を失う前のことをあまり思い出せない。決闘で体力を使い果たして、瘴気の病の症状が出てしまったのだろうか。

「盗賊の剣に毒が塗られてたんだ。それで、二日も……」

「毒か……。全然考えもしなかった。馬鹿だな、私は」

 いつもだったら必要以上に疑ってかかるのに。今になって思えば、冷静さを失っていたのかもしれない。無茶をしたし心配もかけた。もちろん死ぬつもりではなかったが、死んでいてもおかしくなかった。

「メニラには看病させてばかりだ。すまない」

 メニラは首を振った。

「傷、痛まない?そんなに酷くはなかったんだけど、痕が残らないか心配だな」

「痕が残ったところで……」

 ラナロロは、何となしに切り傷のあった腕に目を落とし、そして声を失った。

 ――そんなに酷くなかった?

「……見た、のか」

 一気に血の気が引いていく。声が震えた。

「見たよ。ごめんね。止血しないといけなかったから」

 メニラは静かに、けれどはっきりと肯定した。

死刑宣告に近いそれは、聞き違えようがない。ラナロロは返事もできずに小さく唸ると、手のひらで目元を覆った。

 メニラはそれ以上何も言わない。言わないが言いたいことは十分わかっている。

 次の言葉を言うのに随分時間を要した。

「一人に……少しの間一人にしてくれないか」

 メニラの気づかわしげな視線を感じたが、少ししてドアの閉まる音が聞こえた。

 さっきまで何も感じなかった傷の痛みがずきずきとやってくる。目をきつく瞑った。

 あの様子だとメニラはまだラナロロの隠し事について調べてはいないようだ。でなければ、あんな風に優しい目を向けるわけがなかった。きっと意識のない人間の秘密を勝手に探ることに抵抗を覚えたのだろう。あの男はそういう男だ。誠実で温かい。

 ラナロロが泣きながら何も聞かないでくれと言えば、メニラはその通りにしてくれるかもしれない。まだ、そんなことを考えて足掻こうとしてしまう。

「本当に馬鹿だ。私は」

 ラナロロはのろのろと身体を起こした。もう一度袖に目を落としてボタンをなぞる。メニラが着せてくれた服だ。多分何回か替えてくれたのだろう。

 メニラは二日間看病をしていたと言った。ポルデレルで看病してくれた期間はもっと長かったが、意識がなかったわけではない。ラナロロはどんなに調子が悪くても自分でシャワーを浴び、着替えた。メニラの前で手と顔以外の素肌を見せたことはなかった。

 ボタンを外していく。袖から腕を抜くとそこからは黒い模様が現れた。肘より下に輪っか状に彫られた刺青。鏡がなければ自分では確認できないが、背中にも細かいそれがある。腕は確実に見られた。背中も見られたかもしれない。

「こんなの……どうして」

 恨めしくて、憎くてたまらない。これがなければ。何度も思ったことだが、今この瞬間ほど思ったことはなかった。

 この刺青が、ラナロロが何としてでも隠したかったこと。正確にはそれに繋がることだ。


 夜に再び部屋を訪れたメニラは、名前を呼ぶ前にノックをした。これは最近にはなかったことで、大体は名前を呼ぶだけだった。昼間のラナロロの様子に気を遣っているのだということはわかるが、初めのころのような距離感に戻されたことが、心臓をひんやりとさせる。

 ドアを開けるとメニラは何とも言えない微妙な表情をしていた。

「具合は?」

「大丈夫そうだ。ありがとう」

 そう答えると、メニラは少し視線を彷徨わせた後に愛想笑いのように口の端を上げた。初めて見る顔。それにラナロロは狼狽えた。

「おやすみ。いい夢を」

「部屋に入らないのか……?」

「その方が、気が休まるかと思って」

 その言葉を聞いて、泣きたい気持ちになった。どういう意味で言っているのかわからない。でも、今のラナロロには好意的な意味では捉えられなかった。

「いや、そんなことない。いてくれ。さっきは取り乱して悪かった」

 恐る恐る言った後に、まるで叱られた後の子どものようだと思って顔を俯けた。

「じゃあ、少しだけお邪魔するね」

 メニラは薄く笑みを浮かべて部屋に入る。今度は取り繕った表情ではない。

 まだこうして普段の表情を見せてくれる。そのことに、まるで不安定な足場の揺らぎが少しだけ収まったかのように感じた。

 それと同時に、身構える。刺青のことは必ず言及されるはずだ。どうにか踏み外さないようにしないといけない。

 ところが、ベッドに腰かけたラナロロの正面に椅子を引いてきて座ったメニラは小さな器を差し出した。中には褐色でしわしわの何かの実のようなものが入っている。

「市場で買ってきたんだ。よかったら」

「何かの木の実か……?」

 言ってからふと思い出す。どこかで見たことがある。そうだ。市場に行った時、ラナロロがあれは何だと尋ねたんだった。覚えていてくれたのだろうか。

「デーツ。ナツメヤシの実なんだって」

 ラナロロは皿から一つ摘まむと、それをよくよく観察した。細長い形のそれは案外柔らかい。

「酸っぱい?」

「いや、甘いらしいよ」

「らしい?」

「そう。俺もまだ食べてないから聞いただけ。一緒に食べたくて」

 そう言ってはにかむメニラをラナロロは見つめた。この男は一体どこまで優しいんだろう。こんな言葉、ラナロロには思いつかない。

 ラナロロは意識的に不安を胸にしまい、少し笑みを作ってその実を口に放り込んだ。思ったよりもずっとしっかりした甘みが口の中に広がる。まるで砂糖を使って煮詰めたような、強い甘さだ。

「菓子みたいだ。甘い」

 続けてメニラも口にすると、頷いた。

「本当だ。乾燥果実って甘さが強く出るって言うけど、これはかなりだね」

 楽しそうなメニラの様子に、今度は自然とラナロロの表情が柔らかくなる。

デーツをもう一粒食べる。甘い。

ふいに呟いた。

「面白いな、旅」

 突然そんなことを言われたメニラは、おかしそうに笑った。

「そうだね」

 ほっとする。けれど、こんなやり取りも最後かもしれないと思うと少し苦しい。

「そういえば、武器商人のお爺さんは裏の通りの宿にいるよ。まだ用があるとかで。あと、ラナロロが起きるまでは待ってるって言ってた」

「用って、古城ではないよな」

 無意識に顔を顰めて聞くと、メニラは声を上げて笑った。

「流石に堪えたみたいだったよ」

 よかった。ラナロロは胸を撫で下ろした。二度目の救出は勘弁してほしいところだ。

「薬の話もラナロロと一緒に聞こうと思ったからまだなんだけど、元気そうなら明日にでも行こう」

 ラナロロは慎重に頷き、メニラが武器商人と少しは会話をしたであろうことを考えた。

「武器商人から、何か聞いたか?」

「何かって?」

「私の、刺青のこと」

 メニラはギプタから離れた地域の出身だからこの刺青を見てもぴんと来ないのかもしれないが、武器商人は隣国であるオランビエの人間だ。瘴気の森。刺青。その二つのワードが揃えば、ラナロロの出自に気づかないわけはない。だからもし武器商人に尋ねれば、一発で答えに辿り着くだろう。昼間の異常とも言えるラナロロの動揺ぶり。違和感を抱いたメニラが何か聞きに行っていたとしても疑問はない。

 メニラはゆっくり首を振った。

「聞かないよ」

 どうしてという思いと、やっぱりという思いが同時に生じた。

 メニラは皿に入った実に視線を落としたまま続けた。その表情は、いつものように明るいものではない。どちらかというと真顔に近い表情だった。

「ラナロロのことは知りたいと思う。それは、特別刺青のことをってわけじゃなくて……、俺は欲張りだから、何が好きとか何をしたら喜ぶのかとか、そういうの全部知りたいって思って……」

 ラナロロは驚いた。ラナロロに珍しいものを見せてくれたり聞かせてくれたりするのは、単にメニラの親切心だと思っていた。それに、刺青のこともそうした理由で知りたいと思っていたことはあまりに意外だった。不審だから調べるという以外の発想がラナロロにはなかった。

「だからデーツもそういうこと。どんな表情するのか知りたくて、持ってきた」

 そう言ったメニラは、困ったような申し訳なさそうな表情をした。

 どうしてそんな顔をするのだろう。驚きはしたが、それで嫌悪するなんてあり得ない。むしろ……。でも、上手く伝えられそうもなくて、どうしたらその表情をやめさせられるのかわからなくて、戸惑った。

 メニラはラナロロが困惑しているのがわかると眉を下げて片笑んだ。

「でも、ラナロロが話したくないことは、俺も聞かない。それでいいよ」

 唖然とした。

 泣きながら縋れば、聞かないでいてくれるかもしれないと思った。けれど、それがあまりに浅ましい考えだったと知る。そんなことしなくても、メニラはそのつもりだったのか。

 メニラはラナロロのことを決して追い詰めない。ほんの少し近づいたと思っても、自分からラナロロの落ち着く距離に戻ってくれる。

 心地がいい。

 これまでの数か月、人生で初めてのことばかりだった。自分が他人の体温で安心できる人間だとは知らなかったしわがままを言って許されるこそばゆさも知らなかった。こんなに誰かに嫌われることを恐れたのも、笑っていてほしいと思うのも初めてだった。

 そんな幸せな時間をくれたメニラに何が返せるだろう。

 息を吸って、吐く。

 服のボタンに手をかけると、メニラの一回り大きな手が上からそれを押さえた。優しく重なった手から、この男の深い思いやりが伝わってくるような気がした。

 一つ瞬きをする。

 きっと、そういう男だから、ラナロロは本当のことを話したいと思うのだろう。

 ラナロロはその手をやんわりと退けるとボタンを外し、服から腕を抜いた。背を向けて、腕の刺青と背中のそれが見えるようにする。

 まじまじと見るのは初めてなのか、息をのむ気配がした。

 そこに僅かでも恐れが滲んでいないか、敏感に感じ取ろうとしてしまう。ラナロロは最後まで話しきれるように、機械的な声と表情を意識した。

「これは私の故郷――イエヴィンの人間が入れるものだ」

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