第14話

 一か月以上も滞在した宿を後にした二人は、ポルデレルの街を並んで歩いていた。ゆっくりと歩く二人の横を子どもがぱたぱたと走って追い越していく。その元気な声を聞きながら、ラナロロはこれまでのことを思った。

 随分いろいろなことがあった。数か月前の自分には、ギプタを出てオランビエに来ることなど思いも至らなかった。自分がこんなに他人に心を許すことができる人間だったということも、メニラに出会って初めて知った。

 この突き当りの大通りに出たらそこで最後だ。メニラは一度南の方に下ってそこから西に移動する方法を探すと言う。ラナロロはこの辺りを点々とするつもりだ。もう二度と会うことはないだろう。

 昨日の夜までの二人には張り詰めたような空気が漂っていたが、今は穏やかな会話がぽつぽつと続く。別れなど感じさせない普段と変わらない会話だ。

 何かもっと肝心なことがあるような気がするが、言うのを躊躇った。そうしている間に、通りまでの距離は僅かになっていた。

 あの灰褐色の煉瓦で舗装された広い道に辿り着いたとき、何を言ったらいいのだろう。以前別れの言葉を言った時みたいに、幸運を祈るとでも言えばいいのか、これまでの感謝を伝えればいいのか。

 そういえば、メニラに対して平和ボケしていると言って睨んだことを、自分はきちんと謝っただろうか。これまで遠ざけるようなことを口にしても、メニラはただ困ったように微笑んでいることばかりだったから、まさかあんな風に立ち向かってくると思わなかった。しかし、今思ってみれば、ラナロロのことを想ってくれていたからこそ本心でぶつかってきてくれたのだろう。

 迷っているうちに、相応しい一言が見つからないままとうとう歩道の煉瓦を踏んだ。

 横で同じように歩みが止まる。向き合ったメニラは困惑したように眉を下げて笑っていた。

 ああ、なんだ。この男も同じだったのか。ラナロロは可笑しいような安心したような気持ちで小さく息を吐いた。

 メニラは何も言葉にせず、右の手のひらを差し出す。それに倣って自分の右手も伸ばした。

 笑って別れよう。

 その時だった。

「ちょっとあんたら」

 なんだか聞き覚えのあるような声に後ろを振り返ると、店先から薬屋の女主人が手招きしていた。なるほど、ちょうどその店の横だったらしい。

 別れの挨拶くらい静かに待っていてほしい。たった数秒で終わってしまうのに。

 握手の形になっていた手を引っ込めて肩を竦めて見せると、メニラも仕方ないといったように苦笑した。

 相変わらず薄暗い店内に入ると、女は切り出した。

「新しい依頼があるんだけどさ」

「ああ、そういうことならもう……」

 ラナロロが歯切れ悪く言うと、女は片眉を上げて二人の顔をじろじろと見た。

「何?喧嘩?」

「いや……」

「あーあー、どうせ大したことじゃないんだから、ちゃっちゃと話しあって解決しなさいよ」

 メニラが否定しかけたのを遮って大きな声を上げた女は、こちらの言うことを聞く気がまるでないらしく、その依頼とやらの説明を始めた。

 メニラの視線がそれとなくラナロロに向く。仕方がないので聞くだけ聞こうということのようだ。ラナロロは小さく頷いた。それに、メニラはこの地を離れるが、ラナロロはこの辺りに居座るつもりだ。一人でできそうな仕事なら引き受けるのも悪くない。

 女が差し出した紙面を掴んだその時、手首が掴まれた。

「おい……」

 何突拍子もないことをと思っていると、そのまま強い力で手の甲の方を向けさせられた。

 手の甲には、発疹の痕が赤く残っており、瘡蓋状になっている箇所もある。女の目はそれを見ていた。

「あんた、怪我……。いや、これは……」

 固まっているうちに、袖の方に手がかかる。

「……っ、離せ!」

 思わず手を振り払うが、それに驚いたのは女主人の方ではなく、メニラの方だった。

「ラナロロ」

 その声には、心配する響きの他に窘めるようなものも含まれている。ラナロロは少し冷静になった。

 知られたくないことを知られて、さらに余計なことを暴かれそうになって取り乱してしまった。けれど、女に悪意があったわけじゃない。むしろラナロロの心配をしてくれたようでもあった。

「悪かった」

「いや、構わないよ」

 女主人は脇にあった何かの木箱に腰かけて脚を組んだ。

「警戒しなくていい。別にあたしはあんたたちの事情を探ろうってんじゃないんだ」

 そう言うと、懐から煙草を出し、火をつけた。

「生憎あんたにしてやれることはないが、小耳に挟んだことがあってねえ。なんでも瘴気の病を完全に治す薬があるらしいのさ」

「完全に……」

 町医者はこの病の根本的な治療法はないと言っていた。瘴気の森で狩猟をしていたラナロロ自身も、一度発症したら治療の甲斐なく死ぬという噂しか聞いたことがない。

「それは一体どこに?」

「どうせガセだろ」

 食いつくメニラを制してラナロロは首を振った。

「かもしれないがね。あたしも存在するらしいってことしか知らないし。ま、とにかく何か情報を掴んだら教えておくれ」

 ひらひらと手を振る女にラナロロは首を傾げると、さっき腕を振り払った時に床に落としてしまった紙を拾い上げた。

「これは?いいのか?」

「何言ってんだ。そんな場合でもないだろ。これは他に頼むよ」

 女はきょとんとしている。

「いや……」

 別にその噂の真相を確かめる気はない。そう続くはずだった言葉を遮ったのはメニラだった。

「そうだよ、ラナロロ。行こう」

「は、ちょっと」

 腕を掴まれて、店の外に引っ張られる。そのまま再び大通りに出た。

「待て、おい」

 引き摺られながら少し大きな声で言うと、行き交う人たちの数人が怪訝そうな目を向けた。「揉め事か?」と聞こえてくる。ラナロロはそれを睨んだ。

「探さなくていい。どうせ誰かの作り話に決まってる」

 はっきりと言うと、メニラはようやく立ち止った。

 けれど、振り返ったその目はあまりに真っすぐで、ラナロロはたじろいだ。

「たとえ嘘だったとしても、何もせずに諦めたくない。少しでも希望があるなら、それに賭けたいよ」

「私は……」

「ラナロロが行かないって言うなら、俺だけでも探しに行くよ」

 目を閉じて、開く。

 この男は、どうしてここまでラナロロのことに一生懸命になれるのだろう。やはり罪悪感からだろうか。それならば今ここで開放してやりたい。

 もううんざりだ、構わないでくれと突き放せば、諦めるだろうか。ラナロロのことを嫌いになって、きちんと忘れてくれるだろうか。けれど、そんな思ってもいないことを口にしたくない。

 あるいは、自分の秘密を明かせば……。ギルドの男たちやフィグがメニラに何も伝えなかったのをいいことに、自分はメニラを騙し続けている。それをもう全部話してしまおうか。一瞬、思う。

 でも、この男の穏やかな目がもう二度と自分に向かないと思うとぞっとした。

 さっきまでもう一生会えないと覚悟していたのに、今こんなことを思うのはどうかしている。わかっている。頭の中がぐちゃぐちゃだ。

「私は……どうしたらいい……」

 弱音のようなことを口にしたと気づいて、ラナロロは自分を恥じた。

 メニラはラナロロに逃げる気がないとわかったからか、もしくは怯えているみたいにでも見えたからか、腕を掴んでいたのを離す。

「ラナロロが本当はどうしたいのか、教えて」

「もうこれ以上メニラの時間を奪いたくない……」

 メニラはゆっくりと首を振った。

「俺がそうしたいんだよ」

 もし、それを気にしなくていいというのなら。ラナロロのために時間を使ってくれるというのなら。そしたら、本当の希望はなんだろう。

 薬を見つけること?そうすれば生き延びることができる。

 でも、一番に願うのはそれではない。ほしいのは……。大通りに差し掛かる時にも、本当は同じことを感じていた。

「探してほしい……一緒に」

 絞り出すみたいにして言うとメニラは何か安堵したように笑った。


 聞き込みを始めたはいいが、日が暮れるまでに有力な情報は得られなかった。酒場には情報が集まりやすいとメニラが言うのでとりあえずポルデレルの酒場に行ってみたが、それでもやはり詳しい者はいなかった。

 幸いだったのは、薬について聞いて回ってもあまり詮索されなかったことだ。どうやら金目当てに眉唾物のそれを探して歩く連中というのは時々いるらしい。

 今朝出た宿とは異なる宿に入った二人は、話し合った末首都のアンテディールに向かうと決めた。アンテディールなら他の国から人も物も盛んに移動してくる。そういった情報に通じている人物もいるかもしれない。

 一日ではアンテディールには着かない。休憩で立ち寄った土地土地で話を聞いたが、結局そこでの収穫もなかった。

 そうして四日後に目的地に辿り着いた時にはちょうど夕方だったので、二人はそのまま人の多そうな酒場に出向いた。外にもたくさんテーブルが出ているその店の内装は、異国情緒を感じさせるものだった。あまり見慣れない不思議な幾何学模様の織物が至る所を飾っている。

 そこで、恰幅のいい男が話しかけてきた。ラナロロたちのように若い人間が訪れるのは珍しいのだと言う。それに対してメニラは人好きのする笑みを浮かべて、少しの間雑談をした。

 その楽しげな横顔を、半分は羨ましいような気持ちでもう半分は絶対にああはなれないという気持ちで眺めた。メニラは、ラナロロにないものをたくさんもっている。だからこんなに心が引きつけられるのかもしれない。

 しばらくして、メニラが瘴気の病を治す方法についての話を持ち出すと、男は顎に手を当てた。

「そういえばそんな話を聞いたことがあるな」

 ラナロロとメニラは思わず顔を見合わせた。

「確か……ああそうだ、武器商人の爺さんから聞いたんだ」

 メニラが身を乗り出して詳しい話を尋ねたが、あるらしいと聞いただけでそれ以上は知らないのだと申し訳なさそうに男は告げた。

「その武器商人はどこに?」

「残念だが爺さんは今アンテディールを離れてるんだ。なんだかの剣を手に入れるって鼻息荒く言ってエジュジャに向かっちまった。店もあらかた片づけてから行ったみたいだし、ありゃ多分相当粘るつもりだ」

 エジュジャというのは、オランビエと一つ国を挟んだ南西にある国だ。かなり乾燥した地域で、砂漠が広がっているというイメージが強い。

「エジュジャのどこに向かったかわかるか?」

「いや、それがさっぱり。剣の名前でも覚えてれば手がかりになったんだろうが、興味がなかったもんで」

 男は代わりにエジュジャへの行き方を教えてくれた。エジュジャと隣国の間に広がる砂漠の手前から、週に一度トラックが出ているのでそれに乗ればいいと言う。車というのはまだなかなか普及していない乗り物で、一般的に言って馬車や船舶の方が圧倒的に安い。ラナロロの不安そうな顔に気づいたのか、男は説明を加えた。

「エジュジャに馬なんて連れて行ったらばてちまう。大丈夫だ。でかい車だから一度に何人も乗るし、そう高くはつかない」

「なるほど」

 礼を言うと、男はいい笑顔を見せて、近くで店を営んでいるからまたいつか来いよと言った。

「びっくりだよ。アンテディールに来ていきなり収穫があるなんて」

「ラッキーだな。けど、一応もう少し話を聞いて回ろう」

「そうだね。その武器商人以外にも詳しい人がいるかもしれないし」

 ラナロロは頷いた。内心では、もう一つのことを考えている。あの恰幅のいい男は、そのトラックとやらの運営をしている者たちの回し者なんじゃないか。相場のわからない旅行者を騙して、金を巻き上げるつもりなんじゃないのか。そもそもその武器商人というのもでたらめかもしれない。そんな風に疑っている。けれど、そういうことを口にしてメニラに軽蔑されたくはなかった。

 そのまま酒場にいる他の人物から話を聞いたが、その武器商人はかなりのお喋りなのか数人の口から話題に上った。エジュジャに向かったと知っている者もいれば知らない者もいたので、酒場にいる人間がグルだという可能性は少なそうだ。

 新たな情報も掴めた。どうやらその剣はエジュジャの伝説の剣らしい。貴族だか王家だかに伝わる剣で何か不思議な話があった気がするらしいが、そこまでは覚えている者がいなかった。

 エジュジャに行くにはやはりトラックか船舶という選択しかないらしい。船なら一度海沿いの都市であるロランエールに行く必要があるので、その手間と金をかけるならトラックの方がいいだろうという話だった。

「数日はアンテディールで情報収集をして、他に詳しそうな人がいなければエジュジャに行こう」

 そう決定し、酒場を後にした。

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