第5章
第13話
夢を見ているなとラナロロは思った。
生きているはずもない母親が、優しい笑みを浮かべてこちらに向かって両手を広げている。
「母さん……」
ラナロロは手を伸ばしかけて、はっとした。
手のひらは小さく脚もか細くて頼りない。ラナロロは自分の姿が子どものころのものであることに気づいた。
「ラナロロ」
懐かしい声だ。ずっと忘れていた声。けれど頭の隅ではこうして覚えていたらしい。
綿菓子のように柔らかい声に引き寄せられ、ラナロロはふらふらと足を動かした。胸に飛び込むと、温かい腕がそっとラナロロを包み込んでくれる。
「母さん……」
ラナロロはもう一度呟いて目を瞑った。このまま眠ってしまいたい。ラナロロは自分が既に夢の中にいるということを知っていながら、そんな奇妙な思いを抱いた。
途端、母親の腕の力が強くなった。身体がぎりと痛む。
「っ……!」
ラナロロの細い喉からはほとんど声になっていない悲鳴が上がった。
「ラナロロ、誇り高く生きなさい。なぜならあなたは――」
耳元で聞こえる声は、先ほどまでの穏やかなものではない。もっと硬くて、有無を言わさない言い方だ。
「痛いよ、母さん」
ラナロロは母親の言葉を遮って、腕の中でもがいた。けれど、子どもの力では逃れられない。
そうしているうちに、二人の足元から火が上がり一瞬で背丈を超えて大きく燃え上がる。ぱちぱちと舞い上がる火の粉が頬を掠めていく。
ラナロロは、眼窩から目が零れ落ちそうなほど目一杯瞼を持ち上げた。
「火が……。お母さん!お母さん!」
足が、服が、腕が焼けていく。熱いのを通り越して何か強烈な痛みが走る。
それなのに、母親の表情は少しも変わらない。まるで仮面でもつけているかのような彼女は、ラナロロを掴んだまま離さない。
「ラナロロ、返事を」
母親が催促する。けれど、ラナロロには答えられない。「はい」とは言えない。
ラナロロは、母親が自分を優しく抱きしめてくれるなどと期待したことの愚かさを思った。
「ラナロロ」
何度も何度も名前が呼ばれる。
もう聞きたくない。耳を塞ぎたい。でも手が自由にならない。ならば答えなければ終わらない。しかし答えることはできない……。
「ラナロロ……、ラナロロ!」
強く揺さぶられて、恐ろしい光景が遠のく。ラナロロより深い色をした青い目が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「随分魘されてたよ」
ラナロロはかなりの時間をかけて呼吸を整えた後、力なく頷いた。夢だとわかっていたのに、どうすることもできなかった。
今も動悸が止まらない。背中は汗でびっしょりと濡れていて気持ち悪い。まだ頭の中が散らかったまま、からからの喉を震わせる。
「何か……、私は言っていたか?妙なこと……」
「いや……。唸ってただけで、特には」
そう答えたメニラの顔には驚きと困惑が滲んでいた。
余計なことを聞いた。後悔しながらラナロロが身体を起こそうとすると、メニラはそれを支えようと手を伸ばしてくれる。が、ラナロロはその手を押しのけた。
「……大丈夫だ。一人で起きれる」
親切心を無下にする行為だとわかっている。しかし、今の弱った姿を誰かに見せたくなかった。
メニラはラナロロの態度に嫌な顔一つせず、眉を下げて頷くと立ち上がった。
「何か食べられそう?俺買ってくるよ」
「いや……」
答えかけて考え直す。ラナロロが少しの間一人になれるようにとさりげなく気を遣ってくれているのだろう。
「果物が食べたい」
ぽつりと呟くとメニラは頷いて背を向けた。静かに、そして丁寧にドアが閉じられる。
ラナロロは、こうやってメニラが適度な距離感を維持してくれることに密かに感謝した。お節介といかないまでに親切なこの男のことは、共に過ごした時間の長さとは不釣り合いなくらい信頼している。
ラナロロは壁に手を突いてのろのろと立ち上がり、無造作に服を脱いだ。放ったそれは、普段用の長袖の衣服だ。普通、病人の着る服は緩い作りのものの方が良いのだろうが。
ラナロロは鏡に映る自分から目を逸らした。
濡らした布で身体を拭う。程よく冷たい感触。夢の中で焼かれた肌の痛みを和らげてくれる。あの恐ろしい悪夢から現実へと、ラナロロを引き戻していくようだった。
現実。そう。今、目を向けなければいけないのは、現在起きていることだ。
町医者は、部屋を訪れた時、ラナロロを安心させるようにいくらか声をかけてくれた。しかし、診察を始めるとそれは一変した。一刻も早くこの場を去りたいというのが態度に表れ、熱を下げる薬や炎症を抑える薬を棚の上に置くと、荷物を纏めだした。
町医者が瘴気の病について知っていたことは、初期にこうして高熱や咳などの風邪に似た症状や発疹が現れ一週間程度続くこと、疲労が溜まると症状が再発すること、そして、月日の経過とともにその重症度は増し、個人差はあるが十年くらいで死ぬということだった。対処療法しかなく、根本的な治療はできないのだと言っていた。
メニラはこのぼろ宿で、ほとんど付きっ切りで看病をしてくれた。メニラは本当にできた人間だ。自分がどうしようもない人間なだけにつくづくそう思う。放っておいて構わないと言っているのに。
ラナロロが高熱や咳で苦しそうにしていると、あの男はまるで自分の身体を引きちぎられたかのような悲痛な表情をしている。何の専門知識もない自分ではちっとも苦痛を取り除いてあげられないことが悲しく、悔しいのだと言っていた。病気を肩代わりできたらいいのにとまで言ってくれた。
多分自分のせいだと思っているのだろう。ラナロロがメニラに防毒マスクを貸さなければ、メニラを見捨てていれば、ラナロロは大量に瘴気を吸うこともなく、こうして病気になることもなかった。けれどそれは間違いだ。いや、事実ではあるが表面しか捉えていない。
優しいメニラ。別に代わってほしいなんて思わない。ラナロロは、瘴気の森で身を挺して救ったのがメニラであったことの幸運を思った。もしあの男でなかったら、こんなに根気強くラナロロに寄り添ってはくれなかっただろう。
ラナロロは布を桶の水で濯いで縁に掛けた。とにかく、メニラの献身的な看病の甲斐あってか、八日続いた熱もようやく下がった。少し咳は残るが、ぜろぜろと喘鳴のするようなものではない。
ただ、一つだけ。身体の発疹は、まだ薄らと赤く痕が残っている。これだけは完全に消えるまでに少し時間がかかりそうだった。
ラナロロは畳んでおいた替えの衣服に袖を通した。なんとなく再び横になる気が起きず、先程までメニラが腰かけていた椅子をぼんやりと眺める。
そうしているうちに戻って来たメニラは、腕の中にオレンジを抱えていた。ラナロロの顔色がそう悪くないのを見て、表情が和らぐ。しかし、その中にはどこか思い詰めたようなものがあった。
「メニラ、もう体調はほとんど回復した。町医者が言った通り、一週間くらいで治まるみたいだ」
「そう。それならちょっとだけ安心」
そう言いながら、ラナロロに差し出しかけたオレンジは、再び引っ込められる。
「ああ、うっかりしちゃった。齧って食べるわけにいかないよね。切り分けてもらってくる」
立ち上がって外へ向かおうとするメニラを、ラナロロは引き留めた。
「明日の朝、この宿を出よう」
「……ポルデレルを出るの?いや、何にしろ、そんなに急がなくたって。ゆっくり養生した方がいいよ。まだ体力も戻ってないし、仕事してる場合じゃないって」
その言葉に、ラナロロは首を横に振った。
「メニラが看病してくれて本当に助かった」
「いいよ、そんなの」
続けて、もう一つ礼を言う。見知らぬ土地で生活する方法を今まで教えてくれたことに対しての感謝の言葉だ。
メニラは目を大きく見開いた。何を意味するのか、正しく伝わったのだろう。
二人の旅は、お終いだ。別に病気になって感傷的になっているわけではない。もともと、ギプタを出るまではメニラと一緒に行動することになるだろうと思っていたが、安全なオランビエに逃れた後はそのつもりではなかった。メニラの思いがけない提案に気まぐれで乗っただけだ。そうして先延ばしになっていた別れが、今やってきた。ただそれだけだった。
仕事の見つけ方はもう大体わかる。病気にはなったが、症状のない間は働けるだろう。メニラの申し出である「生活の見通しが立つまで」付き添うというのはもはや達成できているのだ。
メニラは何か言おうと口を開きかけて、けれど何も言わずに閉ざした。傷ついたような、そんな顔をしている。引き止めないのは、メニラにはこれ以上ラナロロの役に立てることがないと考えているからだろう。
そんな顔をさせたいわけではない。でも、弁解しようとは思わなかった。メニラが罪悪感のようなものを抱く理由はわかるが、何かで償えなどと言うつもりは全くない。
翌朝まで、二人の間にほとんど会話はなかった。
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