第4章

第9話

 ギプタの南西に位置する国、オランビエは国土が南北に長い形をしている。南部は海に面しており、人口の多く活気のある街が並ぶ。首都はアンテディールというやや内陸にある都市だが、海沿いにあるロランエールという都市の方が人口は多いのだとか。オランビエの西の端には比較的なだらかな山脈があって、隣国との国境線にもなっている。

 オランビエの中でも比較的ギプタとの国境に近い街であるポルデレルに辿り着いたメニラは、久しぶりのまともなベッドの感触に深く息を吐いた。古い宿で、窓は木枠が歪んでいて開かず、掛布団には縫い合わせた個所があちこち見られる。しかし、今のメニラには天国のように思えた。

 ラナロロによって腕を自由にしてもらったメニラは、あの後、草むらを道沿いに進み、いくつかの分かれ道を経て夜が明けるころに山間部の小さな村へと出た。ザサムの人間はお尋ね者ではあるが、幸いなことに見た目だけで確信を得るほどの身体的特徴があるわけではない。二人とも夜通し森の中を歩いていたのでひどく汚れた格好をしていたが、道に迷ったと言えば不審がるどころか労わってくれた。

 村からはちょうど昼過ぎに馬車で麓へ降りる男がいた。しかし、それがバーレハウザーへ向かう道だというならあまり気乗りはしなかった。態々自分から刑務所の方へ近づきたくはない。また、都市部の方が軍の監視も厳しいだろうというラナロロの意見も頷けた。男に詳しく聞いてみると、麓というのはバーレハウザーの方角ではなく、南らしい。荷台に乗せてくれると言うので厚意に甘え、日の暮れるころにはイーメルトという街に辿り着いた。

 そのイーメルトで新聞を読んだメニラは、馬車の中でしゃがれ声の男が話してくれた内容に間違いはなかったと知った。それとほぼ同時に、ザサムの人間が捕らえられ始めたのは、メニラがそうなるたった一日前の出来事であることも知った。そうであれば、ギルドの人たちはメニラに態と警告をしなかったのではなく、そもそもメニラに危険が迫っていることを知らなかったのかもしれない。

 メニラはその可能性を信じたかった。横にいる人物に聞けば真実はわかるのだろうが、そうするつもりはなかった。ギルドの生活は本当に楽しかった。勇ましい男たちが自分よりも大きな獲物を仕留める姿には舌を巻いたし、時折出る嘘か本当かわからない武勇伝は愉快だった。その思い出を、傷をつけないまま取っておきたい。そう思ったからだ。

 イーメルトからは、段々と南西に移動し、オランビエを目指した。途中、衛兵が立っているのに何度も遭遇して背筋が凍った。食事が喉を通らなくなると、ラナロロは「そんなことではオランビエまでもたない。食わなければ死ぬだけだ」と硬い声で言った。

 メニラはラナロロが無邪気に笑うことのできる人間だということは知っている。それに、重責で手を震わせたり焦りを顔に滲ませたりする姿も知っている。けれど、前者は酒が入っていたからで、後者は命の危機が迫っていたからだ。そういう特別な条件がなければ、ラナロロは顔の筋肉をほぼ動かさず、随分平坦な声で話す。

 もちろん冷たい口調で何か言われたからといって腹を立てるわけではないが、その度にギルドの男たちの陽気さと対照的なその態度は少し異質に思えた。そして、ラナロロはどうして自分を二度も助けてくれたのだろうと考えた。

 直接それを尋ねたこともあるが「なんとなく」だと言われてしまった。

 メニラはクリーム色の壁をそっと撫でた。この隣に、ラナロロがいる。壁一枚を隔てて。

 あの人が何を考えているのか、まるでわからない。酒を注ぎ合ったあの時は少しでも近づけたように思ったが、自惚れだったのかもしれない。


 翌日、朝食に顔を出さないラナロロを心配して、メニラは部屋のドアをノックした。

「ラナロロ」

 数回呼んだところで、少し髪の乱れた男が姿を現した。酒が抜けきらずに迎えた朝はメニラを半ば無理やり外に連れ出したというのに、今のラナロロの目つきは気だるげだった。

「何か?」

「朝食。時間終わっちゃうよ」

 食事を一緒にとる約束をしているわけではない。行動を共にしているから昼と夜は大概一緒になるが、朝に関しては各々起きて勝手に食べるというのが、二人の間に自然に出来上がったルールだった。けれど朝食を抜いていたことは今までなかったように思う。

「いらないから寝たい」

「食わなければ死ぬんでしょ」

 その言葉はラナロロが自分で言っていたものだ。しかし流石に恩人にする態度としては礼を欠いていると思い、心配だから食べてほしいということを付け加えた。

 ラナロロは何か言いたげだったが、結局何も言わずに口を閉ざす。そのまま一度部屋に引っ込むと、二、三分してある程度身なりを整えた状態で現れ、メニラを少し見上げた。待たせたと言っているようでも、まだいたのかと言っているようでもある。

 ラナロロが壁際を選んでテーブルに着くと、メニラはその正面に座った。しかし、もう既に食事をとり終わっているので、そこにいるだけだ。

 ラナロロはフォークでオムレツを突いた。あまり行儀のよくない行為だが、何か考え事をしているようでもある。

「オランビエは安全だ。ギプタみたいに軍事力を持て余していないし、ギプタには及ばないが生活水準も高いと聞いている」

 何が言いたいのかよくわからないが、ひとまずメニラは頷いた。

「もし故郷の家族が心配なら、港のある方へ向かえば帰る術があるかもしれない。旅を続けるならそれもいいだろう。私の知る限り、この辺りでギプタ以外に危険そうな場所はない」

 ラナロロはフォークを置いて、結局パンに手を伸ばすとそれを一口分千切って咀嚼した。

「幸運を祈る」

 メニラは信じられない気持ちでラナロロの顔をみつめた。瘴気の森で助けてもらった礼として何をしたらいいか尋ねた時、ラナロロはすぐに思いつかないと言っていた。だからまだ何も返せていない。それに、馬車から降ろしてここまで連れてきてもらったという恩も増えてしまった。ところが、彼はメニラに何かさせようという気がないらしい。

 いつか別れが来るのはわかっていたが、まさかこんなに突然、しかもこれほどあっさりと告げられるとは思っていなかった。

「ラナロロはこれからどうするの?」

「さあ。まだ考えてない」

 自分のことだというのに煩わしそうに答えたラナロロは、フォークの先でレタスを重ねて刺した。それを口に運び、またレタスを突き刺す。機械みたいな動きだ。

「ただ、思ったより……いやなんでもない」

「何?」

「……思ったより自分には行動力がなさそうだと思った」

 メニラの頭には疑問符が浮かんだ。瘴気の森でもギプタの山の中でもラナロロは大胆なことをやってのけると驚いたものだが。

 こんなことを言うのは先が不安だからなのだろうか。メニラはフィグに頼まれたことを思い出していた。

「もし、ラナロロにとって迷惑でなければなんだけどさ。見ず知らずの土地で稼いで生活しようとするとなかなか一筋縄ではいかないことってあるんだ。だから、そういう時に苦労を引き受けられればなって、そう思うんだけど。二年くらい旅をしてきたし、きっと役立てることもあるよ」

 フォークがぴたりと止まった。

「確かにメニラの得意なことではあるな」

 メニラの申し出を受け入れたともとれるが明確な言葉がなくてよくわからない。緑がかった青い目は、メニラをじっと見ていた。まただ。メニラは思った。ラナロロはまた真意を探ろうとしている。

 一体何を知りたいのだろう。メニラは隠し事などしていない。あるとすれば、ラナロロの寝顔を目にした時に感じた、蠟燭の火のような小さな揺らめき。ただそれだけだ。まさか勘づいているとは思えなかった。

「私の生活の見通しが立つまで?」

「うん」

 頷いた時、反対側の壁際に座っている客が席を立つのがラナロロの後ろに見えた。夫婦に連れられている二、三才くらいの子どもがこちらに手を振っている。メニラが手を振り返すと、子どもはふくふくとした頬を持ち上げて、足をばたばたさせた。

 振り向いて、そのやり取りを見ていたラナロロは、思い出したように尋ねる。

「家族はいいのか?」

「少しは心配だけどね。交戦状態になったわけでもないし、しばらく様子を見るかな」

 ギプタも二か国同時に戦争を仕掛けることはないだろう。そして、ザサムの方から剣を向けるようなことはあり得ない。

「それなら、頼んでもいいだろうか」

「むしろそうしてほしいな。役に立たせてよ」

 ラナロロは首肯して、やっとオムレツに手を付けた。

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