第7話
「メニラ!」
耳元で呼ばれて、身体をびくりとさせたメニラは、目を擦って声の主を見上げた。時刻は五時十八分。窓から見える空は薄らと明るく、一部が燃え上がったような色をしている。まだ仕事の準備には早すぎる。
「何?トイレなら階段の正面だよ」
寝起き特有のかすれ声で言ったメニラは、顔を再び伏せた。二時から悶々と頭を悩ませていたメニラは、結局よく眠れていなかった。二度寝されると慌てたラナロロは、メニラの身体を力強く揺さぶった。
「トイレじゃない!起きて、ちょっと出かけよう」
「こんな時間から?」
大きく頷いたラナロロは、普段より気分が高揚しているようだ。少し強引に腕を引いてメニラを立たせた。ふらついたメニラを案外しっかりと支えてくれる。
「酔ってるの?」
「酔ってない」
むっとしたように言ったラナロロは、寝ぼけ眼のメニラの手首を掴むと、部屋から出て寮の外に向かった。明け方の外は少し冷える。身震いをしたメニラは、羽織るものを取ってくるから待っていてほしいと言って一度部屋に引き返した。そういえば、どこへ行くつもりなのか教えられていない。あまり遠くではないだろうが、不安に思って上着のついでに水筒を用意する。
二人分持って再び玄関に戻った時には、ラナロロが馬を連れてきていた。ギルドの裏には馬小屋があるのでそこから借りてきたのだろう。体格も毛並みもいい馬だ。
「乗れるの?」
「当たり前だろ」
メニラの問いは酔いが覚めているのかを聞くものだったのだが、ラナロロは普段の能力的に乗れるかどうかを聞かれたものと思ったらしい。はっきりと答えて、その栗毛の馬に飛び乗ると、自分の後ろをぽんぽんと叩いて示した。そこに乗れということだろう。
「よしてよ、酔っ払い」
ラナロロが後ろになるようにスペースを空けさせると、メニラは手前に乗り上げた。
「乗れるのか」
ラナロロの嬉しそうな声が聞こえて、メニラは頭を掻いた。酔っていないと自分では言っているが、ラナロロがこんなに感情をわかりやすく表している姿は見たことがないから、やはりまだアルコールが抜けきっていないのだと思う。そんな人に手綱を任せるよりは自分で引いた方が安心だった。
「目的地は?」
尋ねると、ラナロロは向こうだと斜め前を指さした。ギルドの裏手の方を示しているようだったが、アバウトすぎてよくわからない。メニラは本当に目的地が存在するのかを疑いつつも、ゆっくりと馬を歩かせた。
同時に、後ろから腰に手が回る。メニラの心臓は飛び跳ねた。そうする理由はわかる。メニラが手綱を掴んでいて、ラナロロには掴むものがなく、不安定だからだろう。別に他意はない。頭ではわかる。けれど、普段の冷たい顔つきに反してきちんと人並に温かい腕が、ちょうど抱きしめるように身体に回されると動揺してしまう。
一方のラナロロはそんなこと露ほども気にしていないらしく、やはりどこか楽し気だ。初めてギルド内で見た時は大人びているように思ったが、こうしてみるとなんだか子どものようにも思えてくる。
ラナロロの指示通りに三十分くらい馬を歩かせていると、辺りの景色はギルドの周辺とはかなり異なるものになっていった。道は大通りのように石畳ではなく、ただ土が均されているだけだ。周囲には派手な店舗はなく、小さな民家や特に看板も出ていない四角い建物がぽつぽつと点在している。ヒュードフのような都市部であっても、少し移動すればこんなものだと言う。
やがて斜面に差し掛かったところで、大きな建物が見え始めた。高さ自体は三メートルくらいでごく一般的な建造物と変わりないが、その奥行きや幅はかなり広い。同じ規模のものが三棟並んでいた。白い塗料で塗られた壁の上の方は柵のように間が空いていて、そこから中で何か動物の鳴き声や動いている音が聞こえてくる。
ここが目的地だと告げられるので馬を降り、きちんと繋げてから一つ伸びをした。辺りはもうすっかり明るくなっていて、気持ちのいい風が吹いている。夜に一度雨が降ったのか、土の湿った匂いとともに葉の青い匂いがする。メニラは、ヒュードフにもこんなのどかな場所があるのかと驚いた。ここなら星空もよく見えそうだ。
ラナロロも大きく伸びをすると、一番近くの建物の扉に手をかけて体重を使って引いた。ぎいという低い音と一緒になってゆっくりと扉が開いていく。全部開くのは骨が折れるらしく、人一人分隙間ができたところでラナロロはメニラを手招きした。
「こいつらが、オオワタリガラスだ」
メニラはその言葉に驚いた。その鳥の名前は昨夜聞いたばかりだったが、まさか飼育しているとは想像さえしていなかった。大体、飼うといえば普通ニワトリやウズラであって、カラスを飼うなんて話は聞いたことがない。
隙間から顔を覗かせて中の様子を窺おうとするメニラの背を、ラナロロが押す。そうして踏み入れた建物の中には、ラナロロの言葉通り、巨大なカラスがずらりと並んでいた。
「合ってるか?」
「うん……。多分」
メニラは圧倒されて、言葉に詰まった。一羽一羽壁に仕切られた部屋には藁が敷き詰められており、その中で大きな体のカラスたちは思い思いに眠ったり餌をつまんだりしている。メニラを興味深そうに眺めている個体もいた。よく世話がされているからだろうか、あまり動物特有の匂いはしない。
「ギルドの連中は、大体皆このオオワタリガラスを一羽は飼っていて、狩りに連れていくことが多い。鋭い嘴や爪が役立つし頭がいいからな」
「なるほどね。カラスは頭がいいって言うし、仲間にいれば心強そうだ」
メニラは「仲間にいれば」ではない時を想像して身震いしたが、ラナロロは気に留めることなく頷いた。その様子はどことなく誇らしげでもある。
「しかも普通のカラスより記憶力も思考力もずっと上だ。ちょっとなら言葉も話す」
「言葉?どんなことを話すの?」
ラナロロは顎に手を当てて、少し考えた。
「そうだな……。『ぺこぺこ』とか『おやすみ』とか」
メニラは吹き出しそうになるのを慌ててこらえた。「ぺこぺこ」という言葉の響きは、なんだか幼くて、かわいらしい。彼の口から出るには不釣り合いだった。
「『ぺこぺこ』って、お腹がぺこぺこってこと?まさか」
揶揄っているのかと笑えば、ラナロロは「嘘じゃないぞ」と真剣な顔をした。
「それで腹が減ったってアピールするんだ。多分誰かが言ったのを真似してると思うんだが」
ラナロロは、ずらりと並んでいる一つの檻に近づくと、懐から複数個が束ねられている鍵を取り出して中に入った。
「は、入って大丈夫なの?噛みつかれたりとか……」
「大丈夫だ」
そうきっぱりと言ったラナロロはカラスの健康状態でもチェックしているのか、足元の藁の中を覗いている。馬の足元にそうしていると蹴られて大怪我をすることもあるが、ラナロロは攻撃される様子もない。
メニラは恐る恐る檻の中に入った。すると、ぴょんぴょん跳ねて近寄ってきた住人の嘴が案の定メニラの腹を突いた。
「痛っ、大丈夫じゃないよ。餌だと思われてる」
思わず悲鳴を上げる。噛んでいるわけではないが大きな嘴は威力がありすぎる。
「馬鹿、突くな。ボウシ」
ラナロロは大きなカラスの体を軽く叩いた。
すると、「ボウシ」と呼ばれたカラスは、一応メニラが敵でも餌でもないということがわかったのか、それ以上は突き回すのをやめた。
まだ何かあるのだろうか、ボウシはメニラの顔を見て首を傾げている。
「どうした?」
ラナロロも不思議そうにしている。
ボウシはまた跳ねて、部屋の隅に移動した。そこには、ちょうど鳥の巣のように、藁が丸く編まれて置かれている。そこに顔を近づけたと思うと、何かを咥えてメニラの方に戻って来た。
「えっ、それ」
メニラは思わず声を上げた。ボウシの嘴の先にあるのは、メニラの探していたものだった。金色の装飾の中に小さな黒い石が嵌め込まれているペンダントは、手に乗ると案外ずっしりとした重みがある。これが、メニラの失くしたお守りだ。間違いない。
「犯人はお前か」
ラナロロの呆れたような声に、ボウシはごまかすようにして頭を腕へと擦り付けた。
それを見ていると、オオワタリガラスが相当賢いのだということが伝わってくる。
「こいつ、こんなでかい図体だけど、カラスらしく光るものを集めてるんだ。他にもそういう個体がいるから、まさか自分の飼ってるカラスがお尋ね者になってるとは思わなかったが。悪かったな……」
手を焼いているのか困ったように言うラナロロに、メニラは慌てて首を振った。
「そんな。元はと言えば俺の不注意が原因だし。とにかく見つかって良かった」
「そのお守りにどんな意味が込められてるのか聞いても?」
メニラの手元を一緒になって覗き込んだラナロロは、昨夜メニラの旅の話を聞いた時のようにそっと尋ねた。
「詳しくはよく知らないんだ。変な話だけど。俺の村では二十歳になると一度旅に出る風習があって、その出発の日に婆ちゃんが『これを肌身離さず持つのじゃ。そそっかしいお前のことだから危険な目に遭うこともあるじゃろが、必ず土地神様が守ってくださる』って。三百年の間うちの家系で代々伝わって来たらしいよ」
「ああ、それで旅を」
ラナロロは納得したように頷いた。そういえば、その話は以前口髭の男たちに話しただけでラナロロには言っていなかった。
メニラは兄も数年の間身に着けていたらしいそのお守りを目の高さに上げて角度を動かした。中心の黒い石は光に当たると緑のようにも見える。錆どころか傷一つないそれは、三百年旅の供をしてきたにしては綺麗すぎる。祖母の話は本当なのだろうか。
「しかもさ、なんか効果が欲張りなんだよ。金運、恋愛運、健康運を上げて、あとはなんだったかな。確か虫歯が治るとかなんとか」
「虫歯?なんかそれだけやけに具体的だな」
それまで真剣そうな顔をしていたラナロロは、声を上げて笑った。一瞬ぽかんとしてしまうが、つられてメニラも笑う。
「効果はあったのか?」
「そもそも虫歯になってないからわかんないよ。ラナロロも試してみる?」
「生憎私も虫歯になってない。なったら試させてもらう」
なったときにいちいち報告されるのを想像するとなんだか笑える。メニラはお守りを元のように首から掛けた。
「実のところあんまり信じてないんだけどね。きちんと持ち帰らなかったら婆ちゃんはきっとカンカンだから」
言いながら左右の人差し指を額の上に乗せてみせると、ラナロロは目を細めた。
「きっといい家族なんだろうな」
メニラは少し驚いた。今のふざけたやり取りでそんなことを返されるとは思わなかった。
「うん。一緒に住んでるのは兄貴と婆ちゃんだけだけど、親戚も村の人も皆温かくていいところだよ」
戸惑いながらも言うと、ラナロロは頷いて、ボウシの頭を優しく撫でた。
ボウシは甘えたような鳴き声を出して、ラナロロに体を寄せている。
その様子は一見穏やかだが、メニラはそれ以上近づくのを拒絶されたように感じた。理由はわからない。が、何か余計なことを言ってしまったのだ。後悔の念に駆られる。
それまでの饒舌さが嘘のように、言葉が出てこない。これ以上何を話してしていいのか、そもそもこの場にまだいてもいいのかさえわからず、メニラは口を噤んだ。
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