第3章
第6話
ギルドの寮に住んでいるのはメニラを含めて九人で、空き部屋があと三つある。一階には共用のキッチンがあって、他の住民と顔を合わせることはかなり多い。朝早い時間に降りていくと、何か恵んでもらえることもしばしばだ。
管理人であるフィグは夜の間は家に帰るらしく、寮にはいない。最近ではその間に何か困ったらメニラに報告すればどうにかしてくれるという口コミが広まっているらしく、鍵を失くして部屋に入れないだとか、トイレの照明が切れただとかで引っ張りだこになっている。
今は、気持ちの悪い虫が出たからどうにかしてくれという呼び出しで、物置に向かうところだった。大男が指さす先を見ると、なんということはない、小さな昆虫が無害そうな顔をしてこちらを見ている。メニラは窓を開けて、それを逃がした。虫が怖くて狩りができるのかと呆れたが、森の中で出会うのとは違って、こういういるはずもない場所に登場されると鳥肌が立つのだと言う。
いろいろな物を退かして、隅々まで虫がいないかを確認した男は、ようやく満足したのかメニラの頭をわしゃわしゃと乱暴に撫で回してから解放した。
乱れた髪を撫で付けながら、二階への階段を上っていく。ギルドでの生活は活気があって楽しいが、それとは別に、慣れない生活には少し疲れが溜まってきているような気がした。今日はゆっくり休もう。上がり切ったところで左から来た誰かにぶつかりそうになったメニラは慌てて謝った。
「メニラ」
向こうの驚いたような声に顔を上げると、ラナロロがこちらを見ていた。
「ここに住んでるのか?」
「看病してもらった時の部屋を、そのまま貸してもらってて……」
ラナロロも寮住まいなのだろうか。今まで顔を合わせたことはなかったが、ギルドの中の独り身のほとんどは寮で生活していると聞いているから、まだ若いラナロロがここに住んでいるというのは自然なことだった。しかし、ラナロロはメニラの考えを読んだようにそれを否定した。
「私は少し用があって来ただけだ」
だったらどこに寝泊まりしているのだろう。思うが、あまり詮索して嫌われたくはない。メニラはラナロロの手元のものに気づいて話題を変えた。
「それは?」
ラナロロは赤色の液体が入ったボトルをよく見えるように掲げて見せて「酒だ」と短く言った。その言い方はあまり楽しげではなかったが、ラナロロはふと思い立ったようにメニラに尋ねた。
「酒は飲めるか?」
メニラは疲れていたことを忘れて頷いた。今年二十二になるメニラは故郷の規則でもこの国の法律でも立派な大人だ。親も親戚も揃って酒は強かったので、メニラ自身もこうして訪れる土地土地で酒をごちそうになっている。
「飲むか?」
「一緒に?」
「いや、メニラにやる」
そう言って、ラナロロはボトルをメニラにぐいと押し付けた。贈り物のように紙が巻いてあるそれは、何か特別なものではないのか尋ねたが、別に構わないのだと言う。
「一緒に飲もうよ」
既に背を向けて階段を降りようとしているラナロロを引き留めると、一段降りたところから、メニラの顔を窺うように目が向けられた。何か探ろうとしているような目つきだ。しかし一度瞬きをするとそれは消え失せた。小さく首が縦に動く。
「部屋に来る?」
「いいのか?」
「むしろ嫌でなければ」
ギルドのテーブルは空きがあるかもしれなかったが、なんとなく、ラナロロはそれ以外の方が落ち着くのではないかと思ったのだ。
メニラはラナロロが来た方とはちょうど反対方向に歩いて行って、一番端の部屋の扉を開けた。
もし自分の家だったら準備なしに人を招くことに抵抗があっただろうが、今は散らかるような環境でもない。私物はほとんどなく、備え付けの家具があるだけだ。その小さなテーブルの傍に置かれた椅子は三脚あるが全部デザインが異なっていて、使えるものを集めたらしいことがわかる。メニラはそのうち一番座り心地の良さそうなものを選んでラナロロに勧めた。
メニラが共用キッチンからグラスを拝借してくると、その間にラナロロは一度部屋を出たらしく、どこからかチーズを取ってきて皿に載せていた。
ぶとう酒かと思っていたボトルの中身は、よくよく見てみれば、青みのない鮮やかな赤色で透明度も高い。ボトルに書かれた字は異国のもので全く読めないが、それはラナロロも同じのようで興味深そうに眺めている。わくわくした気持ちで酒を注ぎあいグラスをそっと合わせると、カンと気持ちのいい音が響いた。
わっと香るのは、芳醇な果物の香りで、やはり果実酒なのだということがわかる。少しだけ口に含むと、柑橘類の爽やかな酸味とともに、豊かな甘みが広がった。
「ブラッドオレンジだ」
「ブラッドオレンジ?」
メニラが言うと、ラナロロはそれをおうむ返しにした。メニラは、以前いた街で商人が厚意で食べさせてくれたことを思い出した。確かここよりずっと西の方で採れる果物だということを聞いた気がする。遠い地のものだけにジャムなどの加工食品はともかくとして、生の実が出回ることはほとんどないのだとか。
説明してみたものの、実際に果実自体がどんな味だったのかはあまりよく思い出せない。おいしかったと思うと付け加えれば、ラナロロは小さく笑った。
メニラはそれに少し驚いて、目を奪われた。瘴気の森で見た、何か深い意味があるのではないかと疑ってしまうような笑い方とはまた異なるように思える。それよりももっと素朴な表情だ。メニラは彼がそんな風に笑えることを意外に思った。
ラナロロは酒が美味かったのか自分の薄い唇をぺろりと舐めて、メニラに質問をした。
「そういえば、あの時、なんで瘴気の森にいたんだ?防毒マスクもしてないから驚いた」
メニラはフィグに瘴気の森に入る人間は馬鹿だと笑われたことを思い出し、首の後ろに手を当てた。
「そもそもあそこに瘴気っていうのが存在するなんて知らなかったんだ」
「随分遠くから来たみたいだな」
ラナロロは声の調子はそのままに、少しだけ目を見張った。
「妙な雰囲気の場所だとは思ったんだけど、でも探し物をしてて……」
「探し物?」
「お守りを探してたんだ。信じてもらえないかもしれないけど、本当にとびっきり大きい鳥がいてさ、それに盗られちゃったんだよね」
メニラは「真っ黒くて、このくらいの……」と言いながら、腕を目いっぱい広げて見せると、続けて立ち上がって、自分の胸の高さを示した。
ラナロロはぱちりと一つ瞬きをして、そして言った。
「オオワタリガラスのことか?」
ワタリガラスというのは聞いたことがあるが、オオワタリガラスなんて聞いたことがない。その名の通り、大きなカラスということだろうか。
「そうなのかな……?」
「見たことないのか?」
「今まで村から北西に向かって来たけど、そんなに大きいカラスは見たことないなあ」
ラナロロは不思議そうな顔をしてメニラを見ていた。
「逆に小さいカラスなんて見たことがない。オオワタリガラスの雛じゃないのか?」
そう言う彼の顔は真剣そのもので、メニラは腹を抱えて笑いそうになる。少し考えて、故郷にいた動物やこれまで見てきた植物の話をすると、地域によって全然違うものなのかと言って感心したような声を上げた。
そのうち酔いが回ってきたラナロロの態度はやや友好的なものへと変化していった。そうすると結局はラナロロも話好きなギルドの人間と似たようなところがあるのか、メニラの旅の話を聞きたがった。
しかし、その内容は少し異なる。ラナロロが聞きたがったのは、旅の先で出会った人々の考え方や信仰、そしてそれらについてメニラがどう考えたのかということだった。これまでメニラがギルドの人たちに話してきたのは、他の地域の食文化や歌、風俗なんかが中心で、あまりラナロロの求めるような内容について語ったことはない。それは、メニラの関心が低いわけではなく、ただ聞いただけの立場である自分が語ることで何か誤解のようなものが生まれるのを恐れたからだ。
それに、異なる考え方や信仰というのは時に排斥され攻撃を受ける。メニラによくしてくれた人たちが他の国では悪く言われることもある。そういう光景を見るのはとても辛いことだった。
メニラは戸惑ったが、やがて考えながら一つ一つを口にした。聞いたことと自分が感じたことを、目を閉じて思い出す。ある国では特定の生き物が神として敬われていたこと。またある国では同じ国民の間にも生まれによって序列があったこと。いくつかの地域の話を、ラナロロは静かに聞いて時折頷いたり質問をしたりした。
ここまで正直に自分の考えを人に話したのは、家族以外ではこれが初めてだった。ラナロロは出会ったばかりの人間だが、どうしてか彼には中途半端なことを言いたくなかった。
メニラは話しているうちに、フィグの言葉を思い出していた。ラナロロのことを気にかけてやってほしいと、そう言っていた。しかし、今話を聞かれているのはメニラの方で、そもそも自分が悲しみや不安を抱えているとすら思っていなかったが、そうしたものが和らいでいく感じがしている。
皿のチーズがなくなったころ、ふいにラナロロは窓際に寄って空を見上げた。日付を超えた真っ暗な空は、隣の建物の屋根の上で狭そうに身をかがめている。
「こんなに星が見えるのか」
ラナロロの声にメニラは首を傾げた。確かに星は出ているが、こんな夜中でも光の多い街中だからかそう目立っていないように見える。数は少なく光もどこか弱弱しい。メニラの故郷や訪れた村のいくつかでは、開けた視界いっぱいに大小の星々が煌めいていた。
気分を損なわないようにその話を控えめに伝えると、ラナロロは目を丸くした。
「普段はこんな都会だし、狩猟は日の落ちる前に切り上げることになっているから知らなかった」
ラナロロは、ここより西の方では星のひとつひとつを繋げて「星座」というものを考える人間がいるらしいという話をした。皆が寝静まった後も、夜空では星の光でできた大きな熊だとか金色の毛をした羊といった生き物が東から西に移動していて、その中に混じって冠や髪の毛といった物までが追いかけっこしているのだと言う。
「その星座それぞれにストーリーがある。例えばペガサス座という星座があるんだが、そのペガサスという生き物は羽の生えた白い馬なんだ」
「羽?馬に?」
「その馬は怪物を退治した時の首の傷口から生まれたっていうくらいだし、その後も確か、空を飛んで雷を運ぶとかいう仕事をしていたらしいから多分作り話だ。でもさっきメニラが教えてくれたいろいろな生き物の話の後だと、どこかにいるのかもしれないなんて想像した」
そう言ってラナロロは目を細めた。
メニラは、美しい白い毛並みの馬に立派な羽が生え、夜の空を力いっぱい羽ばたいていく姿を思い浮かべた。メニラの村でも星のいくつかに名前があったような気はするが、ここまで具体的で不思議なエピソードを耳にするのは初めてだ。
「ペガサスは、不死とか自由のシンボルになっているんだ」
そんなに詳しい話まで知っているというのに、実際どの星を結んだらペガサス座になるのかは知らないようだった。
「もっと田舎なら、それも見えるんだろうか」
「見えるよ。きっと」
メニラは答えた。
「いつか見てみたい」
どこか遠くを見つめたままぽつりとつぶやかれたその言葉に、メニラは悲しいような切ないような何とも言えない感情になった。何かつらい過去を告白されたわけでもない。突き放すようなことを言われたわけでもない。ただの何気ない一言なのに、どうしてこんなに苦しくなるのだろう。
もっとこの人のことが知りたい。そしたらその理由がわかる気がした。
「ラナロロは普段どうやって過ごしてるの?仕事でも全然一緒にならないけど」
「私か?……私のことはいい。メニラの話が聞きたい」
ラナロロは居心地悪そうに少しうろうろしながら言った。
まだ信用されていないのだとメニラは思った。無理もない。ギルドの人たちは他所者のメニラを置いて技術まで教えてくれるが、普通素性のわからない人間に対しては誰だって警戒する。
少ししゅんとしたメニラに気づいたのだろうか。ラナロロは付け加えた。
「別にメニラがどうというわけじゃない。ただ、……自分の話をするのは苦手だ」
「そっか。ごめんね」
ラナロロは椅子に戻ると、自分のグラスに酒を注いだ。そうして一口飲むが、やはり何か思うところがあったのか、指先でグラスを弄びながら少しだけ自分のことを話した。瘴気の森での狩猟は自分の担当であること。もう少し小さなサイズのオオトカゲであれば、仕留められること。仕留めた後は、革が高額で取引されるのだということ。
そこまで来ると、ラナロロの話はどんな獲物が儲かるかという方向にずれていった。メニラの聞きたい話はもう少し個人的な部分ではあったが、その僅かな表情の変化を見るのは楽しかった。
そのうちラナロロの頭がかくんと揺れだして、眠いんだなと思った。怪我だって治りきっていないだろうし、軽くとはいえ仕事もしていると聞くから疲れているのだろう。そう思っているうちに、どうやらメニラの方も眠りこけていたようで、再び目を開けた時には肩にブランケットが掛かっていた。時刻は二時を少し回ったところだ。正面にはまだラナロロがいて、けれど既に深い眠りの中なのかテーブルに置かれた腕の中に顔を埋めていた。
帰らなくても大丈夫だったのだろうか。考えながら、どこかでまだこうしていてくれることにほっとする自分がいた。規則正しく上下する肩に、自分に掛かっていたブランケットをそっと乗せると、口元が薄ら弧を描いた。額に垂れる髪を耳にかけてやると、どきりとするような睫毛の長く、整った横顔が露わになる。もう少しだけ触れたい。湧き上がる危うい感情にぐっと蓋をして、メニラは椅子を引いた。
グラスや皿を落とす前に移動させておこうと思ったからだ。しかし、ラナロロが同じように考えたのかボトルだけは既に足元に置かれていた。なるほど、頬が赤いとは思っていたが、残りの酒はこの男の腹の中のようで透明なガラスの中はすっからかんだった。それを眺めながら、考える。
メニラは、同性が好きなわけではない。今まで好きだと思ったのは、同じ村の幼馴染しかいないからあまり参考にはならないが、それでも、友達との話題で盛り上がるのは隣町の輸入品を取り扱う店にいる美人や妖しい店に出入りする化粧の濃い女性たちの話だった。ラナロロは綺麗な男だが、女性みたいだと思ったことはない。ならば、どうしてここまで心惹かれるのだろう。命を救ってくれた恩を、何か別のものとはき違えているのだろうか。
二つのグラスと空の皿を棚の上に移したメニラは、もう一度ラナロロに視線を戻した。その顔は穏やかで無防備だ。裏切りたくない。彼との間に芽生えた小さな信頼関係を、メニラは壊したくなかった。
メニラは静かに席に着くと、テーブルの上に組んだ腕の中に顔を乗せた。そのままラナロロの寝息を聞きながらもう一度目を閉じた。
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