第2話

「確かにこっちに飛んで行ったはずなんだけどな」

 メニラは一つ息を吐くと、額に浮かぶ汗を拭った。そこには麦の穂のような金髪がぴたりと張り付いている。

 周囲にそびえ立つ大木は異常なほど立派だ。きっとメニラの生まれるずっと前からここに生えているものなのだろう。鮮やかな緑色の葉をぎっしりとつけており、強い日差しは木々の濃い緑にかき消されている。しかし、地面から蒸気が出ていると錯覚するほどに湿度は高く、身体中がべたついてしまっていた。

 風さえなく、息が詰まりそうだ。

「少し休もうか」

 メニラは馬から降りてその黒っぽい鼻先を撫でた。大きな鼻腔はひくひくとせわしなく動いている。

 周囲を見渡すと小さな湖が見えた。ちょうどいい。くたくたになった足を叩いて励まし、手綱を引いて近寄る。

 水辺には腰の高さほどある植物が生い茂っていた。背丈は高いが、星形の黄色い花や小さく連なっている白い花は控えめで可愛らしい。あまり踏み倒さないように注意を払いながら進んでいく。

 水面は青く透き通っており、その上には陸に生えているのとはまた異なる小さな白い花がいくつか顔をのぞかせていた。メニラは水底を注意深く観察した。この地域にどんな生物がいるのか把握していないが、ワニなんかがいたらひとたまりもない。水を飲もうと近づいた馬ががぶりと襲われてしまうからだ。しかし、メニラは首を傾げた。水中に大きな生物のいる気配はない。それどころか、小魚一匹見当たらない。

 馬はメニラがいつまで経っても水分補給の許可を出さないでいることに焦れたらしい。鼻先を水面に寄せ、また鼻の穴を動かした。

「飲まないの?」

 尋ねるが、もう顔を上げてしまっていて飲む気配は全くない。メニラは、前足で地面を蹴っている横へとしゃがみ込むと水を手で掬った。両手の中のそれは、光を受けて煌めいている。こんなに透き通っているのに。

 直後、後ろからガサガサと草の揺れる音がした。勢いよく振り返ったメニラは腰を抜かしかける。

 一メートルほどある草の上に、鱗に覆われた顔がのぞいているではないか。オオトカゲだ。黒い鱗の中に時折白が混ざっている顔の両サイドには、真っ黒な目玉が収まっていて、正面を向いているわけではない。しかし、その視線はしっかりとメニラを捉えていた。

 メニラは身体が凍り付いたかのように動かせない。肺と心臓だけが動きを速めていくが、それ以外は瞼を動かすことさえできなかった。

 そうして数秒の間どちらも身動きをせず見つめあうが、オオトカゲはついにぱくりと大きな口を開けて薄い赤色をした内部を見せた。そこから飛び出している細長い舌は、先が二つに分かれていて、なんとも不気味だ。

 メニラは封印が解けたように立ち上がり、馬の背に飛び乗ろうとした。ところが、馬は鼻を鳴らし、首を振って激しく抵抗する。

「あ……」

 手綱はあっさりと手からすり抜け、赤茶色の背中が遠くなっていく。

「絶体絶命だ」

 メニラは現実を認めるために敢えて呟いた。今までこんなに大きなトカゲに出会ったことはない。当然、対処法など知るわけもなかった。

 メニラはごくりと喉を鳴らして腹を括ると、あとは振り返らずに草原に飛び込んだ。

 それに続いて、オオトカゲもメニラに飛びかかる。

 ドーンと地鳴りがしたと思う間もなく脚を牙が掠めて、メニラは呻いた。横に転がって、右足を押さえる。ぬるりとした感触にはっとして手のひらを見た。血だ。それを見てしまうと痛みが増すが、自力でどうにかするしかない。左足に重心をかけてなんとか起き上がり、湖とは逆方向を目指す。

 背の高い草をかき分けて進む。今度は折らないように気を付ける余裕はない。息は上がり、背中にじわりと汗が滲む。後ろからは、ガサガサ、バキバキという音がどんどん近づいて来ていた。

 このまま走り続けても追いつかれる。そう思った時、メニラは自分の異変に気付いた。物が二重に見える。どうやら牙に毒があったらしい。

 ぐらぐら揺れる視界を左右に動かすと、隠れこめそうな場所を見つけた。洞窟だろうか。人の手が加わっているようで、四角く開いた穴の周りを覆っている岩には、人の形にも見える模様が彫られている。考える暇はない。そこに飛び込んだ。

 中は暗いのだと思い込んでいたが、奥の方が薄らと明るい。日陰になっているからだろうか、空気がひんやりと冷たかった。あるいは毒が回った結果、悪寒が始まっているだけかもしれないが。

 メニラは僅かに動かすだけでずきずきと痛みの走る足を引き摺って、石造りの階段をほとんど転がるようにして降りた。光の方に向かえば助かるような、そんな気がした。

 しかし、最後の一段に足をかけたとき、メニラの耳はブンという音を聞いた。頭上だ。思うと同時に、遅れてやって来た強い風に倒れ込んでしまう。二度目の地鳴り。天井からは砂か埃かわからないものがパラパラと降ってくる。

 勢いよく打ち付けた額を上げると、階段を飛び越えたオオトカゲが恐竜みたいな顔をしてこちらを向いていた。

 もう足は動かない。もはやこれまでか。メニラは最後の力を振り絞り、倒れこんだまま腰の剣を手探りで掴んだ。

 しかし、それを抜くことはなかった。突然、バチンというような高い音が右側から聞こえたからだ。続けて、キーンと耳鳴りがする。メニラは、オオトカゲが頭を激しく振って身を小さくしているのを見て初めて、先ほどの音が銃声だったことを理解した。

 銃を構えていた人物は、若い男だった。すらりとした長身を白いマントが包んでいる。フードの下にある顔は奇妙な黒い面で覆われていて、目の部分だけがガラスにでもなっているのか、青い目だけが透明なそこから確認できた。

 男は、オオトカゲが怯んでいる隙にメニラに駆け寄った。助け起こそうとして、しかし右足のあたりに血が垂れているのに気付いたらしく、ほんの数秒動きが止まる。その間にオオトカゲはのろのろと動き出していた。

 彼ははっとしたように懐から何か取り出すと、上に向かって投げた。銀色のとげとげとした形のそれは、ヒュンと音を立てて天井の装飾の一部に絡まる。手元に残ったロープが男と抱えられたメニラを引き上げ出すが、オオトカゲも獲物を逃すものかと飛びかかった。その立派な前足の先にある鋭い爪が、目と鼻の先に迫った。痛みを覚悟する。

 しかし、それはやってこなかった。彼は身体を捻ると、その攻撃を自らの脇腹に食らわせていた。庇われたのだ。メニラは唇を噛んだ。

呻く声が耳に届き、メニラを支える左腕の力が一瞬弱くなる。が、驚くことにメニラを落としはしなかった。

 オオトカゲはしばらくの間ジャンプを繰り返していたが、届かないと知ると今度はおとなしくなった。宙ぶらりんになっている二人を前に、下で口を開けている。力尽きた獲物の手がロープから離れるのを待っているみたいだ。

 男は手が滑るのか、オオトカゲの期待通りに次第にずり落ちていく。このままでは二人とも死んでしまう。メニラは「左腕を離してもいい」と言おうとしたが、もはやそれすらも掠れた音にしかならなかった。

 メニラは首を少しだけ動かして、先程抜きそびれた剣に手をかけた。腕は既に、それをふるうほどは動かない。ただ力を抜くと、重力に従って真下に落ちていく。

 幸運なことに、オオトカゲは突然の落下物に反応が遅れた。閉じかけた口の隙間に、剣がすとんと入り込む。体表は鱗で覆われていて硬いが、口腔内は柔らかい。力をかけずとも一定の効果があったようで、オオトカゲは剣と血液の混じった唾液を一緒に吐き出した。

 オオトカゲはしばらくの間、ロープの下で円を描くようにぐるぐると回っていた。けれど、口内を傷つけて捕食する気が失せたのか、来た方とは逆側へと姿を消した。

 男は、ほとんど落下するようにして地面に降り、膝を突く。横たえられたメニラは、そこで初めて彼が負った傷の程度を知り、顔を顰めた。マントの片側は無残に引き裂かれ、その白い布はじわりと滲む赤に汚れている。

 しかし、彼は自分の止血をするわけでもなく、ぐったりとしたままのメニラを仰向けにさせると、懐から包みを取り出した。それを広げると、透明なチューブが現れる。中には同じように無色透明な液体が満たされていた。

 男がメニラの大腿にチューブをグッと押し込むような動作をした後で、その部分に僅かに痛みが走るが、オオトカゲに噛まれた痛みに比べれば些細なものだった。何の説明もないが、薬の類なのだろう。少しだけほっとする一方で、ここまでしてくれた人物に礼の一つも言えないことを悲しく思った。

 仮面越しに、青い目が覗いている。メニラも青い目をしているが、彼の目の色は少し緑がかっていた。故郷のなつかしい海のようにも、異国のまったく知らない海のようにも思える。繊細な色彩が美しかった。

 その目がぱちりと瞬いて、思い出したようにその仮面が外された。外されたそれは、今度はメニラの顔をすっぽりと覆う。少し息苦しい。目を白黒させているうちに、仮面の後ろ側に付いたベルト状のものがしっかりと固定されていく。それが終わると、彼はほんの少し微笑んだように見えた。

 顔を露わにした男はメニラの腕の下に肩を入れると、おぼつかない足取りで入口の方へと進んでいく。メニラの足は引き摺られているが、意識がぼんやりとしているせいで、もはや強烈な痛みは感じなかった。

「くっ……」

 男から漏れる苦し気な声にふと足元を見ると、通ったところにぽたぽたと血が落ちている。メニラはぞっとした。このまま死んでしまうのではないかと恐ろしく思う。

 それでも彼はなんとか階段を上りきり、洞窟の入口までたどり着いた。しかしそこでもう限界だったのか、メニラを降ろして入口の壁面にぐったりともたれかかった。

 目だけ動かすと、彼が首に下げていたものを引き寄せているのが見えた。紐に繋がっている乳白色のそれは、何かの動物の骨で作られた笛だろうか。それに口を付けて息を吹き込むと、不思議な甲高い音がした。聞いたことのない、どこか不安を煽るような物悲しいような音。

 それが三回繰り返されたところで、ついにぱたりと止む。彼の頭はがくりと下を向いていた。先程まで笛を掴んでいた手も力なく投げ出されている。

 気を失ったのだ。心臓は動いていることを願ったが、動けないメニラに確かめる術はなかった。

 ただその笛の音を思い出しながら、重たい瞼を閉じた。 

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