咲かないトネリコ

U原もみじ

第1章

第1話

「煙が!」

 突然の悲鳴。少年は涼し気な目元を驚きで丸くさせた。片づけようとしていた食器が手から滑り落ちていく。

「あっ……」

 一度テーブルに当たったそれは、重力に従って床へと叩きつけられる。カシャン。耳が痛くなるような音が上がり、大小の破片が散らばったが、それに肩を跳ねさせたのは彼だけだった。両親はぴくりともせずに窓に噛り付いている。

 少年は一度床に目をやって首を振った。華美ではないが小さな花の模様が繊細に描かれているそれは、今は何とも無残な姿になり果ててしまった。母親の気に入りのものだったが仕方ない。

「煙……?」

 少年はそう呟くと、両親の隙間から外の様子を窺おうと試みて背伸びする。が、その目が何か映す前に父親が怖い顔をして振り返った。

「位置からすると、長の家じゃないか?消火に行かないと」

 早口のその言葉にぎこちなく頷いて少年も外へと飛び出した。村の家はすべて木造りであるのに加えて家と家の距離が近いので、一度火が出ると一気に燃えてしまう。隣の家への被害を最小限にするためにも、事態は一刻を争うのだ。

 冬の夕方の空気は澄んでいて、肺いっぱいに満たしていくと落ち着いた気持ちにさせられる。ところが、今はどうも少し違うようだった。形のいい眉の間に皴を刻んだ少年はすんと小さく空気を吸う。妙な匂いが漂っている。何か焦げたような、けれど単にそれだけとは違う。灰色によどんだ空には、さらに汚れた色をした煙が次から次へと立ち上っていく。こんな様子、見たことがない。

 少年はすくんでしまう足をなんとかごまかして、両親と共に火元の方へ走る。他の家からも大人が向かっていくのが横目に見えた。

 近づくにつれ、煙だけじゃなく眩しいほどに燃え盛る炎が見えてくる。

「まずいな」

 父親の呟きは小さなものだったが、その響きは叫ぶよりもかえって深刻さを増して少年の耳に届いた。気づくと自分の背中も冷たい汗でぐっしょりと濡れている。

 冷たい風に乗ってオレンジ色をした火の粉が舞い上がる。真っ暗闇に小さなそれが躍るその光景は皮肉にもどこか神秘的ですらあった。手で払おうとした少年はひとつ瞬きをすると目を細めた。煙の向こうに誰かいる。

 同時に、吹き荒れていた風がぴたりと止んだ。そうして現れたのは、紺色の制服を着た男たちだった。かちりと目が合う。見たことのない恰好。この村の人間ではない。それも大勢。

 少年は困惑のままに父親の顔を見上げ、一体何者なのか尋ねようとした。が、それを遮って、父親の手が肩を強い力で掴む。

「逃げなさい」

「……え?」

「家はだめだ。どこか見つからないところへ」

 混乱する少年の背を、父親は強く押しやった。

「早く!」

 怒鳴るような声に驚いて、一歩、また一歩勝手に足が動く。もう一度その声を聞いた時、彼は振り返らずに走っていた。

 状況が掴めない。なぜ逃げなければいけないのか。あの男たちは何なのか。何一つわからないままなのに、その細い手足が千切れてしまいそうなほど一生懸命に四肢を振る。心臓が耳元にあるかのようにうるさい。肌は粟立ち、本能的な危険を感じ取っていた。

 見つからないところなんてそんな場所。

「――秘密基地?」

 少年は、子どもたちの溜まり場になっている場所のことを思い出した。つい一昨日もそこで遊んでいた。奥行きが三メートルくらいしかない洞穴。その入口には蔓がぎっしりと垂れ下がっているから、後ろに空間があることは蔓をかき分けて進まなければわからない。

 秘密基地のことは、村の大人さえ知らないのだ。あの紺色の制服を着た男たちの正体はわからないが、あそこに行けばきっと見つからない。

 それに、もしかしたら彼の他にも秘密基地に逃げ込んでいる子どもがいるかもしれない。寒い中で独り孤独に震えるより、ずっといい。小さく頷く。

 しかし、それなら両親はどうするというのだろう。少年だけを逃がして、その後どうするつもりなのか。仮に制服の男たちが襲ってきたとして、両親の手元にあるのは水汲み用の桶だけだ。対抗できるわけがない。他の大人たちも火元に向かっていったはずだが、彼のように引き返してきた者は一人もいなかった。

 少年は奥歯が音を立てそうになるのをぐっと堪え、後ろを確認する代わりに顎から落ちる汗を拭った。

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