第三十九話 光る球体と、帝の力

 桂城帝かつらぎてい月姫つきひめをそばに置いておきたかったが、当の月姫が首を縦に振らなかったので、月姫は宮中ではなく左大臣邸に留まっていた。

 入内じゅだいするまでは左大臣邸にいるということかと最初は考えたが、どうもそうではないようだと考え直し、桂城帝かつらぎていは迫りくる不安を抱えていた。そうして、帝はお忍びで左大臣邸に行くことが増えた。

 その度に月姫は微笑んで迎えてくれる。

 この一年で随分大人びたと帝は思う。

 何かを考え込んでいるような憂いのある表情、そして月を見て瞳を潤ませているさまはこの上なく美しく、静かな微笑みは悲しくさえあった。


 葉月はづき(八月)の十五夜が近づくにつれ、月姫は月を見て涙を流すようになっていた。


「月姫、どうしたのだ? そんなに月を見て泣いて」

「……帝」

 月姫は桂城帝かつらぎていのそばに座りながら、「もうすぐ、十五夜ですね」と夜の闇に吸い込まれそうな声で言う。

「月姫? どうしたのだ?」

 帝は月姫の不安に押されるように尋ねた。

「……十五夜に戻らねばならないのです……」

 月姫は顔を伏せた。

 泣いているようだと帝は思い、月姫を胸に抱きし寄せた。

「月姫、離しはしないよ」

 月姫はそれには答えず、帝の胸に顔をうずめていた。

 さみしい泣き方だった。


 十五夜はもうすぐだ。

 藍色の空に浮かぶ月は、あと少しで十五夜になる準備をして丸みを帯び、光を空に散らしていた。桂城帝かつらぎていは月を睨むように見た。

「……左大臣邸に武士を手配する。月姫、私があなたを守るよ」

 決して離しはしない、と帝は月姫をいっそう強く抱き締める。

 桂城帝かつらぎていに抱き締められながら、月姫はこの気持ちだけで十分だ、と思っていた。



 十五夜の夜、左大臣邸は武士たちで取り囲まれ、重々しい雰囲気に包まれていた。月姫は屋敷の一番奥の部屋におかれた。

 桂城帝かつらぎていは月姫の手を握り、そばには左大臣充真みつざね淑子としこもおり、孝真こうまたち兄弟も控えていた。朝扉あさと伊吹いぶきもいて、皆、月姫がどこにも行かないように気持ちを強くしていた。


「どうして言ってくれなかったんです?」

 朝扉あさとはずっとそう言って泣いていた。

朝扉あさと……ごめんなさい」

 第一階層に戻らねばならないことは、帝にしか打ち明けていなかったので、朝扉あさとにも、そして左大臣家の面々にも寝耳に水の話だった。

 泣く朝扉あさとの両手を握りながら、「ごめんなさい」と月姫が言うと「……何かあるのだろうとは思っていたんです。ご様子がおかしかったので。……ただでも、お別れしなくてはいけないなんて。月姫さまとお別れなんてしたくないです」と言って朝扉あさとはまた涙を流した。


 月姫が淑子を見ると、淑子は静かに微笑んだ。

 淑子のようすを見ていると、薄々と何かを察していたようだ、と月姫は思う。

 そうして、淑子も、恐らく淑子に何か言われた充真みつざね孝真こうまたちも、何かを問い詰めることなく、月姫のそばにいてくれた。……お母さま、ありがとう。


 十五夜の月はとても美しかった。

 夜空に上り、そして見たことのない明るさで輝いた。まるで昼間のように明るく、たいまつなどの灯りが要らないほどだった。部屋の中も輝くばかりの光が満ち溢れ、そして、部屋が光で満たされると同時に、屋敷中の戸やしとみ(窓)が全て開け放たれた。


 丸い月から、月の雫が一筋垂れて、月姫の方へと向かった。

「矢を! 矢を射るのだ!」

 孝真こうまが振り絞るように言う。

 しかし、武士たちは凍り付いたように動けなくなっていた。

 わずかに動けるものが矢を射ったものの、全く違う方向へ小さく飛んだだけだった。


 月の雫は月姫の前に落ち、光る球体をつくった。

 月姫がこちらに来たときと同じものだ!

 桂城帝かつらぎていはそう思い、月姫を引き寄せて絶対に離すまいと、力を込めた。

 光る球体は金色にきらめき、白銀の光の粒を辺りに撒き散らしながら、月姫の直前に迫った。


 誰も、動くことが出来なかった。

 ――桂城帝かつらぎてい以外は。


 桂城帝かつらぎていは月姫を抱き締めたまま、後ずさった。

 逃げなくては。

 この光る球体に取り込まれたら、きっと月姫はいなくなってしまう。

「月姫……逃げよう!」

「帝……」

 月姫は青ざめた顔で帝を見た。


 光る球体が迫る。

 武士たちも左大臣家の人々も凍り付いて動けなくなっている。孝真こうまですら、動きを止めた。


 この、光る球体がなければ!

 桂城帝かつらぎていはそう思い、全く無意識に、月姫を抱いていない方の手のひらを、光る球体に向けた。


 どけ! 月姫を連れて行くことは許さぬ‼


 桂城帝かつらぎていが強くそう願うと、帝の手のひらから強い風が起こり、光る球体に向かって吹き荒れた。

 光る球体は、光の粒子を撒き散らしながら、形を歪める。

 桂城帝かつらぎていはなぜそのようなことが自分に出来たのか疑問に思いつつも、自ら起こした風で光る球体を散らしてしまおうと、手のひらに力をこめ、一心に願った。――どけ! どくのだ!


「帝……!」

 月姫は目を大きく見開いて、そのさまを見た。そして帝に強くしがみついた。

 桂城帝かつらぎていの額には汗が浮かんでいた。

 呼吸が早くなり、苦しそうに顔を歪めた。


 光る球体と帝の風は、押し合い、どちらも譲らないような状態であったが、次第に光る球体が形を取り戻し、より大きく膨らんでいった。


「月姫!」

 桂城帝かつらぎていは月姫の名を呼ぶが、光る球体はさわさわと光る粒を撒き散らしながら帝の風を押しのけて広がり、月姫を包み込んだ。そして、そのままふわりと浮くと、すうっと月へと吸い込まれるように昇って行った。


 

 夢でのみ逢はむとぞ思ふ(夢の中だけでもお会い出来たら)……



 帝には、月姫が最後にそう言ったように聞こえた。

「月姫……」

 そして、その場にいた人たちは皆、明るい十五夜の月と、その月に昇って行く光る球体を呆然と見つめることしか出来なかった。


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