第三十八話 想い出を胸に


 卯月(四月)になっていた。

 桜の季節。

 去年の管弦の宴を月姫つきひめは思い起こしていた。

 ……今年もやりたい。桂城帝かつらぎていといっしょに演奏したい。

 あと数ヶ月。

 想い出をたくさん作っておきたい。


桂城帝かつらぎてい、今年も管弦の宴をやりましょう。去年と同じように」

「そうだな。宮中も荒れていたし、その上疫病が流行って大変だったから、しばらくの間、宴どころではなかった。でも、疫病は収まったし、物事はあるべきところに収まったようでもあるし、管弦の宴をしよう」

「はい!」

「あとは……」

 桂城帝かつらぎていはそう言って、月姫を引き寄せると、「あとは、あなたがいつ入内じゅだいするか、なんだけれど?」と耳元で囁いた。


 いいお声! きゃん!

 帝の声を耳元で聞くと、決意したことがみんな崩れてしまいそうになる。

 だめだめ!

 あたし、あと数ヶ月で第一階層に戻らなくちゃいけないんだから。

 ――戻りたくないけど。

 でもきっと、逆らうことは出来ない。


 月姫は大きく息を吸うと、笑顔を作って、「それはよき日を選んでから」とようやく言った。

 桂城帝かつらぎていは月姫を後ろから抱き締めると、「あなたが何を考えているか分かるような気がするけれど。……でも、私はあなたを離さないよ、月姫」とまた耳元で囁く。


「帝……」

「とりあえず、管弦の宴をやろう。母上にも伝えて、去年のようにいっしょに演奏しよう」

「はい」


 帝の気持ちが嬉しくて、でも月白つきしろに逆らうことは出来ないだろうことが本能的に分かって、それでもこうしていっしょにいられて音楽を奏でられるのだと思うと、制御しがたい喜びが込み上げてきて、どうしてずっといっしょにいられないのだろう? ずっといっしょにいたいのに、と、やはり諦められない気持ちが、月姫の心の中に込み上げてくるのだった。



 桜の中にきん和琴わごん、そしてそうの音が重なり合って響く。

 去年と同じように。

 帝と寧子宮やすこのみや、月姫が弦を弾く。

 そこに蒼真そうま龍笛りゅうてき孝真こうま横笛ようじょうが重なり合う。

 美しい音色が辺りを満たした。


 あれからもう一年も経ったんだ、と月姫は思う。

「月姫、私と結婚してくれる?」と帝が言ってくれた、あの日。

 今日はあの日と同じようでありながら、全然違う。

 橘治為たちばなのはるなり雅為まさなりがおらず、敵を恐れる心配がないのはいい意味で違うこと。蒼真そうま兄さまと孝真こうま兄さまの笛といっしょに演奏できることも、いい意味で違うこと。


 だけど、今年のあたしはもう別れを覚悟している。

 入内じゅだいを、あたしと帝との結婚を、周りの人たちも望んでいる。本当はあたしもそうしたい。帝と結婚したい。

 ――でも、第一階層に戻らなくてはならない。


「離さないよ」と帝は言った。

 ……本当に叶うといいのに。

 桂城帝かつらぎていが月姫を見て微笑み、月姫も笑みを返した。

 ずっと忘れないでいよう。せめて、想い出だけでもずっとずっと持っていたい。

 忘れないから。



 月姫は葉月(八月)十五夜まで、大切な人と過ごす時間を味わった。

 どんな時間も決して無駄にはしないように。

 賀茂の祭があったり、端午たんご節会せちえがあったり。

 薫物たきもの合わせを、左大臣家でもしてみたり、やはり宮中でもしてみたり。

 季節は巡る。

 花が美しい季節から、青空と緑が美しい季節と移り変わる。

 朝扉あさとのお腹が膨らんで来た。


「月姫さま、ほら、大きくなってきましたよ」

「ほんとだ!」

 月姫が恐る恐るそのお腹に触ると、「もっともっと大きくなりますよ」と淑子としこが笑う。

「もっと?」

「そう、もっと」


 月姫にはそれが想像出来なかった。

 そして、朝扉あさとのお腹の中には赤子がいて、その赤子が朝扉あさとから生まれ出て来るということは、もっと想像出来なかった。

 とても不思議な感じがした。


じきに、朝扉あさとのお腹を赤ん坊が蹴るんですよ。お腹に足の形が出たりするのです」

 淑子が目を細めて懐かしそうに言う。

「え! お腹の中で動くの⁉」

「そうですよ。だって、生きているのですから」


 生きている……母親のお腹の中で、生きている。

 ――どうしてあたしは第一階層に出現したのだろう?

 初めから第七階層に生まれたかった。そして、淑子のお腹の中に入って、淑子のお腹から生まれたかった。


「月姫さま? どうして泣いていらっしゃるの?」

 朝扉あさとに言われて、月姫ははっとする。

「……嬉しくて」

 月姫はにっこりとして見せた。

「赤子はまだ生まれませんよ。今からそんなんじゃ、生まれたとき、大変ですよ」

「ほんと、そうね」

 そのとき、そばにいたかった。


 お母さま、大切に育ててくださってありがとう。

 お父さま、屋敷に連れ帰ってくださってありがとう。あたし、左大臣家で育てられてとても幸せです。

 蒼真そうま兄さま、慶真けいま兄さま。優しくしてくださって、ありがとう。

 孝真こうま兄さまには本当にお世話になりました。宮中で、孝真こうま兄さまの存在がどれほど頼りになったか。

 朝扉あさと

 朝扉あさとのこと、お姉さんみたいだって思ってた。……朝扉あさと伊吹いぶきの赤ちゃん、見たかったな。そして大きくなっていくのを、見守りたかった。

 今までありがとう。


 ――桂城帝かつらぎてい

 あたしに、心をくれた人。

 あたしに、愛を教えてくれた人。

 



 夢でのみ逢はむとぞ思ふ 望月の影に隠れむ地に君置きて


(これからは夢の中だけでもお会い出来たら、と思います。八月十五夜に月の光と共に元いた場所に帰ってしまうので。……あなたをここに置いて。)




 月姫はその和歌を口ずさんだだけで、帝には送らなかった。



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