第三十八話 想い出を胸に
卯月(四月)になっていた。
桜の季節。
去年の管弦の宴を
……今年もやりたい。
あと数ヶ月。
想い出をたくさん作っておきたい。
「
「そうだな。宮中も荒れていたし、その上疫病が流行って大変だったから、しばらくの間、宴どころではなかった。でも、疫病は収まったし、物事はあるべきところに収まったようでもあるし、管弦の宴をしよう」
「はい!」
「あとは……」
いいお声! きゃん!
帝の声を耳元で聞くと、決意したことがみんな崩れてしまいそうになる。
だめだめ!
あたし、あと数ヶ月で第一階層に戻らなくちゃいけないんだから。
――戻りたくないけど。
でもきっと、逆らうことは出来ない。
月姫は大きく息を吸うと、笑顔を作って、「それはよき日を選んでから」とようやく言った。
「帝……」
「とりあえず、管弦の宴をやろう。母上にも伝えて、去年のようにいっしょに演奏しよう」
「はい」
帝の気持ちが嬉しくて、でも
桜の中に
去年と同じように。
帝と
そこに
美しい音色が辺りを満たした。
あれからもう一年も経ったんだ、と月姫は思う。
「月姫、私と結婚してくれる?」と帝が言ってくれた、あの日。
今日はあの日と同じようでありながら、全然違う。
だけど、今年のあたしはもう別れを覚悟している。
――でも、第一階層に戻らなくてはならない。
「離さないよ」と帝は言った。
……本当に叶うといいのに。
ずっと忘れないでいよう。せめて、想い出だけでもずっとずっと持っていたい。
忘れないから。
月姫は葉月(八月)十五夜まで、大切な人と過ごす時間を味わった。
どんな時間も決して無駄にはしないように。
賀茂の祭があったり、
季節は巡る。
花が美しい季節から、青空と緑が美しい季節と移り変わる。
「月姫さま、ほら、大きくなってきましたよ」
「ほんとだ!」
月姫が恐る恐るそのお腹に触ると、「もっともっと大きくなりますよ」と
「もっと?」
「そう、もっと」
月姫にはそれが想像出来なかった。
そして、
とても不思議な感じがした。
「
淑子が目を細めて懐かしそうに言う。
「え! お腹の中で動くの⁉」
「そうですよ。だって、生きているのですから」
生きている……母親のお腹の中で、生きている。
――どうしてあたしは第一階層に出現したのだろう?
初めから第七階層に生まれたかった。そして、淑子のお腹の中に入って、淑子のお腹から生まれたかった。
「月姫さま? どうして泣いていらっしゃるの?」
「……嬉しくて」
月姫はにっこりとして見せた。
「赤子はまだ生まれませんよ。今からそんなんじゃ、生まれたとき、大変ですよ」
「ほんと、そうね」
そのとき、そばにいたかった。
お母さま、大切に育ててくださってありがとう。
お父さま、屋敷に連れ帰ってくださってありがとう。あたし、左大臣家で育てられてとても幸せです。
今までありがとう。
――
あたしに、心をくれた人。
あたしに、愛を教えてくれた人。
夢でのみ逢はむとぞ思ふ 望月の影に隠れむ地に君置きて
(これからは夢の中だけでもお会い出来たら、と思います。八月十五夜に月の光と共に元いた場所に帰ってしまうので。……あなたをここに置いて。)
月姫はその和歌を口ずさんだだけで、帝には送らなかった。
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