第三十話 灯りが消えたような

 橘治為たちばなのはるなりは有頂天になっていた。


 年が改まり、四方拝しほうはい朝賀ちょうが、元旦の節会せちえなどの元旦の儀式が行われた後、大納言であった橘治為はちばなのはるなりはついに右大臣となった。


 藤原充真ふじわらのみつざね伊予いよ(愛媛)に配流され、左大臣の席が空席となっていたところに、高齢でありながらも右大臣の地位にいた、治為はるなりの父橘守為たちばなのもりなりが年の終わりに病死したのだ。左右の大臣の席が空席というのは、異例の事態であった。治為はるなりは今度こと、自分が右大臣に任命されるのだと期待して、今か今かとそのときを待っていた。そしてついに、年が変わった睦月むつき(一月)に、治為はるなりは念願の右大臣となったのである。


「やった! やったぞ!」

 橘右大臣邸たちばなのうだいじんていでは連日宴のような騒ぎだった。

 これまでずっと、治為はるなりの癇癪に怯えていた使用人たちも、顔つきが明るく機嫌のよい治為はるなりに安堵していた。癇癪を起して物を壊されるのは、恐ろしさもあるし後片付けも大変なのだった。


「おめでとうございます」

 雅為まさなりが言うと、兄の彰為あきなり隆為たかなりも続けて「おめでとうございます、父上」と言って頭を下げた。

「うんうん」

 治為はるなりはご機嫌でそう言った。

「あの帝がなかなか首を縦に振らなんだが、ようやく念願が叶ったわ!」

「よろしゅうございました」

 雅為まさなりは冷静に言う。

 笑ってはいるが冷ややかな視線で、だけどそこにいる誰もが治為はるなりの陽気な雰囲気にあてられて、雅為まさなりの冷ややかさに気づいてはいなかった。


 父のはしゃぎっぷりに雅為まさなりは、ここで終わりではないのに困った父上だ、と思っていた。我が一族がもっと強いものになるには、まだ排除しなくてはならぬ者どもがいる。

 雅為まさなり桂城帝かつらぎていの美しく聡い顔を思い浮かべていた。

 あれが一番邪魔だな。

 賢い帝は要らないのだ。

 帝というものは、もう少し暗愚で、こちらの言うなりになるものであればいい。

 ――父上のように。


 屋敷の皆は父上の扱いに苦慮しているようだが、どこに困るところがあろう。なんて御しやすく、分かりやすいのか。単純で欲望が明確で。

 かわいいものではないか。

 雅為まさなりはそう思い、父親に向かって微笑みかけた。

 そして、心の中で思った。

 桂城帝かつらぎていも、そして藤原孝真ふじわらのこうまも邪魔だ。

 なんとかして排除出来ないものだろか。



 灯りが消えたようだ。

 桂城帝かつらぎていはそう思って、ため息をついた。

 月姫つきひめがいなくなり、宮中からは灯りが消えてしまったようで、味気ないものになってしまった。政治的にも難しい状況下にあり、帝は苦難の毎日を送っていたのだ。

 何を見ても月姫を思い出す。

 すぐそこに月姫がいるように感じた。

 ――でもいない。

 別離は恋しい気持ちをいっそうかき立てた。


 あまりにさみしくて、桂城帝かつらぎていは月姫から送られた和歌を取り出して読んだ。

「君を頼りに(あなたを頼りに生きているのです)」

 ――月姫たちが早く都に戻れるようにしたい……!

 桂城帝かつらぎていは月姫たちが流刑になってしまったことを、改めて悔しく思った。全ては根も葉もない噂であったと、帝自身がよく分かっていた。

「わが恋はゆくゑも知らぬ小船かな(あたしの恋は行く先も分からない小船のようです)」の和歌を読んだときは、月姫の心細さを思って涙が出そうになった。遠い伊予いよの国で、どれだけさみしい思いをしているのだろう? 

「恋しい君に逢へずして乱れて流れるる(恋しいあなたに会えなくて、心が乱れ流れるようです)」

 桂城帝かつらぎていは「私も会いたい。会えなくてさみしくて、おかしくなりそうだ」とつぶやいた。


 ……このような自分は全く信じられない。

 日が沈みかけた室内は、微かに暗くなってきていた。

 分かっている。

 今は恋しい思いよりも優先してやらねばならないことがある。


 左大臣充真みつざねが長男の蒼真そうまと、そして月姫とともに配流されてから、宮中は落ち着かない雰囲気が漂っていた。充真みつざね蒼真そうま、そして月姫の抜けた穴は大きく、様々な仕事が滞った。早く右大臣になりたいと圧力をかけてきた橘大納言治為たちばなのだいなごんはるなりは、声だけは大きいものの、全く使えない人間であった。治為はるなりが右大臣の地位について、混乱はますます深まっていた。


「文句を言うのだけはうまかったがな」

 桂城帝かつらぎていは独りごちた。

 ……しかし、問題は橘雅為たちばなのまさなりの方だ、と桂城帝かつらぎていは考えていた。

 治為まさなりはまだいい。あれはある意味とても分かりやすく、御しやすい人間だ。

 だが、雅為まさなりは違う。

 まだ年若いのに目つきの鋭い顔つきの雅為まさなりを、桂城帝かつらぎていは思い出していた。


 彼の動きをうまく封じないと、駄目だ。

 月姫に最後まで文を送り続けていた、坂上麻野さかのうえのあさの高階忠頼たかしなのただよりも、そして大伴保長おおとものやすながも、結局は雅為まさなりの息がかかっていたようだ。橘治為たちばなのはるなりが左大臣充真みつざねを排斥しようと動いたとき、彼らは積極的に治為はるなりに加担した。

 ……最も、大伴保長おおとものやすながだけは、なぜか動きがおかしかったが。雅為まさなりにそそのかされて、偽物の「竜の首の宝玉」を作ったことは裏が取れている。だから、大伴保長おおとものやすなが橘雅為たちばなのまさなり側だと思うのだが……月姫と会って話をしたからだろうか。月姫に不利となるような発言は一切しなかった。雅為まさなりが何か目配せをしたが、大伴保長おおとものやすながは首を縮めて黙っていたのだ。

 あれには、雅為まさなりは相当頭に来ていたと思うのだが。

 ……いずれにせよ、一番油断ならないのは、橘雅為たちばなのまさなりだ。


「帝、よろしいですか?」

 孝真こうまだった。

「ああ、大丈夫だ」

 帝はそう言い、月姫からの文を文箱にそっとしまった。

「帝――。一度、伊予に行かれてはいかがでしょう?」

「伊予に?」

「はい」

 それは行きたい。

 月姫に会いたい。


「だがしかし、今、宮中を空けるわけにはいくまい。どんなに急いでも半月以上かかるだろう。その間に橘雅為たちばなのまさなりがどう動くか」

「……だから、行くのですよ」

「何か仕掛けてくるのを、待つのか?」

「はい。ですから、都には私が残ります。帝は慶真けいまと一緒にお行きください」

「……どんな動きがありそうだ?」

泰明やすあき親王を即位させようとする動きがあるのです。……正直、帝の御身おんみも安全とは言い切れません」

「……なるほど」


 暮れなずみ、室内は灯りが必要な暗さになっていた。しかし、二人は灯りをともすことなく、声を小さくして話を続けた。


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