九章 あなたに会いたくて

第二十九話 恋歌

 伊予いよの国船ゆきし君思ふかな 浪風なみかぜよ吹け我が息乗せて   桂


(伊予の国はいかがですか。船に乗って行ったあなたを思わない日はありません。あなたのことを思って吐く息が、波や風に乗ってあなたに届いて欲しい。せめて。)




 露ならぬ君を頼りに あひ見むと言ひしことをば命なりぬる   月


(露のようにはかないものではないと信じています。あなたを頼りに生きているのです。また必ず会えるとおっしゃった言葉で命を繫いでいるのです。)




 何もかも惜しむべきかは 月光る君ならずして誰をか思はむ   桂


(どうして何を惜しむことがありましょう。あなたのためなら、惜しむものはありません。月光るように美しいあなた。そんなあなた以外に誰を思うのでしょう。月姫、あなただけです。)




 わが恋はゆくゑも知らぬ小船かな 浪に揺られて思ひわたらむ   月


(あたしの恋は行く先も分からない小船のようです。小船が波に揺られてゆくように、あたしの思いも揺られています。あなたの元に行きたい。)




 思へども逢はで年ふるいつはりに人知れずこそ袖濡らしけれ   桂


(会いたいと思いながら会わないで過ごす年月はきっと偽りなのです。本当は二人一緒にいるべきなのです。私は誰にも気づかれないよう涙を流しています。会いたくて。)




 涙河恋しい君に逢へずして乱れて流れるるわが身なるべし   月


(涙の河が出来ています。恋しいあなたに会えなくて涙が止まらないのです。河が乱れ流れるように、あたしの心も乱れています。さみしくて。お会いしたいです。)




 月姫つきひめ桂城帝かつらぎていからの和歌を何度も読み返した。

 それから、自分が送った和歌を思い返していた。

「帝……」

 月姫は帝の文を胸に押し当て、屋敷の向こうに広がる海原を眺めた。

 あの海を行けば、帝のいる都に行きつく。……なんと遠いのだろう?


 このひなびた(田舎の)土地に皐月さつき(五月)の終わり来て、もう数ヶ月経った。

 その間、月姫は桂城帝と何度か文にやりとりをしていた。文が、二人の間にあるえにしのように思えた。細いけれど、とても強い糸のような。

 配流されて来た伊予の国(愛媛)は、思ったよりも都より遠い場所だった。そしてここで過ごすにつれ理解したのは、期待していたほど早くは都に帰れそうもない、ということだった。もしかして年単位になることも覚悟しなくてはならないと。


 伊予は暖かく海の幸のおいしいところで、ひなびているけれど、慣れてみると、思っていたよりもずっとよいところであった。

 ゆるりとした生活を送っていた。悪くはなかった。

 ……だけど、とてもさみしい。


 月姫は、都から文を持ってくる人を心待ちにして、毎日を過ごしていた。せめて、文だけでも読みたかった。そして、桂城帝かつらぎていに文を送る。

 離れていると、愛しさが募った。とても恋しくてさみしかった。

 月姫は、帝からの文を繰り返し読んですっかり覚えてしまった。その言葉も墨の濃淡も紙の色合いも。

 だけど、やはり何度も読まずにはいられなかった。


「月姫、元気を出して。きっと戻れるから」

蒼真そうま兄さま」

孝真こうまが色々頑張っているようだよ」

「お父さま」


 元気を出さなくては、と思っても、なかなか元のようにはいかなかった。

 ……あたし、いったいどうしたのだろう?

 今まで、こんなふうになったことなどなかった。あたしはもっと強かったはずなのに。

 最近のあたしは本当に弱くてなよなよとしている。

 また涙がこぼれた。

 ……泣き虫になってしまった。


 第一階層にいたときのことを思い出す。

 もう、あのときのことは、遠い昔で、まるで別世界のようだった。凛月りる、と呼ばれていた自分は、自分ではないようであった。

 あたし、あのころは〔魅了チャーム〕の力で周りに人を置いて、そして愛されている気持ちになっていた。……全然違った。異能力であたしの方を向かせても、それは本当の気持ちじゃない。あたしはどうしてあんなことをして喜んでいたのだろう?

 月姫は過去の自分の行動にため息をついた。


 ……パートナーをとられた、と怒って来た人もいた。

 今では分かる。

 とても心無いことをしたと。

 あのときは、あんなふうに激高する気持ちがまるで分からなかった。

 あたし、全然分かっていなかった。

 ……ごめんなさい。



 ふさぎ込みがちな月姫のために、充真みつざね蒼真そうまが小規模な宴を開いた。

 宮中の宴のように立派ではないものの、心温まる宴だった。

 充真そうまは楽琵琶を弾き、蒼真そうま龍笛りゅうてきを吹いた。

 そして月姫はそうをかき鳴らした。

 そうを弾きながら、やはり帝のことを思わないではいられなかった。


 ……帝のきんの音が聞こえるような気がする……

 あたしのそうが、都にいる帝に届くといい――


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