第二十八話 さみしさ勝りけり

 建春門けんしゅんもんが焼けているとの一報が入ったとき、桂城帝かつらぎていはまず、月姫つきひめのことが気にかかった。月姫のいる梨壺なしつぼは建春門に近かったからだ。

 すぐさま人をやり、清涼殿せいりょうでんに来るよう伝えた。


 その後は大混乱だった。

 火事は恐ろしい。

 ゆえに、建春門が燃えているという騒ぎが、騒ぎを呼んだ。人々が入り乱れ、逃げなくてもいい人たちまで逃げていた。実際、建春門は焼け落ちたものの、消火は早い段階で出来ており、延焼は免れた。しかし、火を消すことよりも人々を鎮めることの方が大変だった。


 月姫が無事であり、清涼殿まで逃げて来られたのはよかったのだが、橘雅為たちばなのまさなりといっしょだったと孝真こうまに聞いて、桂城帝かつらぎていは非常に嫌な気持ちになった。

 なぜ雅為まさなりが都合よく、月姫のもとにいたのだ?

 使いにやった伊吹いぶきよりも早く。

 嫌な気配がぞわりと、帝を足下から包み込んだ。


 ――予感は当たった。

 建春門が焼け落ちたのも困ったことだったが、それ以上に困ったことが起きた。


 噂だ。

 噂は生きている毒であるかのように、人々の間に広がった。

 噂は悪意を撒き散らした。黒い息を吐いて、煙のように宮中をじわじわと埋め尽くして行った。


 悪意が凄まじい早さで広がって行ったのには、桂城帝が若くて、政治的に未熟であることも関係しているであろう。そしてまた血縁関係的に、左大臣充真みつざねを重用していることも、大きく関係しているはずだ。

 もしかして、月姫に冷たくされた男たちの恨みや月姫自身への妬みもあったかもしれない。

 桂城帝かつらぎていはそのように分析していた。

 いずれにせよ、悪意ある噂話は瞬く間に宮中に広がり、桂城帝かつらぎていには制御出来ず、かつ無視も出来ない巨大なものへと成長してしまった。


 月姫は、自分と蒼真そうまは恋仲であるという噂が私の耳に入り、私が信じてしまうことを心配していたようだが、そんな心配は全くする必要がない、と桂城帝は思っていた。しかし、それを直接言う機会を逸していて、とても気がかりだった。

 月姫が傷ついて泣いてしまわないかと。

 管弦の宴の折の月姫を思い起こす。

 まさに、月の光のように美しかった。そうの演奏も見事だった。

 求婚した。

 月姫は頬を赤くしながら小さく頷いて、「でも、お父さまやお母さま、お兄さまたちに相談して、きちんとお返事しますわ」と言った。


 その正式な答えを得る前に、このような騒動が起こってしまった。

 本当は今ごろ、月姫と結婚しているはずだったのに、と思い、桂城帝は思わず唇をかんだ。

 ……噂の種を蒔いたのは誰であろうか。

 


 左大臣家排除の圧力が働いた。

 その急先鋒が橘大納言治為たちばなのだいなごんはるなりだ。

 噂の種を蒔いたのは大納言?

 しかし桂城帝かつらぎていは、建春門焼失の際の橘雅為たちばなのまさなりの行動が気にかかっていた。あまりにも都合がよすぎる。しかも、梨壺近くにいたということは、火が出た建春門近くにいたということでもある。


 桂城帝かつらぎていは、建春門の火事も噂話も、いずれも雅為まさなりが仕組んだことではないかと考えていた。年若い、けれど恐ろしく頭が切れる。されど、彼の若さが人々の判断を狂わせ、皆雅為まさなりに油断している。

 左大臣家の面々を流罪にすると強く主張したのは、むろん橘大納言たちばなのだいなごんだ。

 しかし、そのそばにつきしたがって、恐ろしく黒い光を発していたのは雅為まさなりだった。


 左大臣充真みつざねを初めとする、左大臣家の面々の流罪はそのような中で決定された。

 ――月姫を配流するのは心苦しかった。

 しかし、いったん、都から遠ざけ、その間に都にいる反対勢力を何とかしたいと、桂城帝かつらぎていは考えたのだ。都から遠ざかっていた方が、危害も加えられないだろうという思惑もあった。


 だけど。

 さみしい、と桂城帝かつらぎていは思った。

 想像していた以上に、さみしい。

 月明かりの中、ようやく会えて、短い別れをした。

 寄り添って手を重ねて。視線を合わせて。和歌を詠み合って。

 そんな短い逢瀬。

 だけど、心が確かに通じ合ったひととき。

 だから。大丈夫だ、と思ったのだ。そのときは。

 離れていても、心が繫がっているしきっとまた会えるのだからと。

 ――嘘だった。

 少しも大丈夫ではなかった。

 さみしい。

 ぬくもりの感じられないところにいるあの人が、こんなにも恋しい。



 久しぶりに歓喜の声が、大納言家に響いていた。

「やった! やったぞ‼ ついに充真みつざねを追いやったぞ!」

 橘大納言たちばなのだいなごんは上機嫌で言い、酒を飲んだ。

「うまく行きました」

 落ち着いた声で雅為まさなりが言う。

「うむ」

 橘大納言たちばなのだいなごんは満足げに頷き、続けて「政治的駆け引きはこうやって行うんじゃよ」と言う。

「さようでございますね」

 と雅為まさなりは言いながら、心の中では、父上がいったい何をしたのだ? 裏工作は全部私がしたのだ、と思っていた。


 建春門に火を点けさせたのも噂の種を蒔き、更にその話を広げたのも、全て私がおこなった。……父上も知らぬことであるが。

 上機嫌で酒を飲む父大納言を、雅為まさなりは冷ややかに見つめた。

 父上では、駄目だ。

 私が何とかしなくては。

 雅為まさなりは暗くて冷たい決意を固めていた。



『月姫――いや、凛月りるよ。なぜ帰って来ない?』

『だけど、月白つきしろさま』

『もう帰還してもよいという結論に達しておる。そのまま第七階層にいる必要はない。それに、もう審判の裁きを下してもよい。……なんて愚かなのだ、第七階層の住人は。真実を見極める力もなく、また真実を見極めようともしない』

『でも、月白さま、もう少しお待ちください』

『なぜ待つ必要がある? 全く理知的ではないその処罰は何だ?』

『……配流に関しては確かに、根も葉もない噂話で処分されたようなものだし、ひどいと思うわ』

『お前はそのような境遇にいることはない。第一階層に戻って来ればいい』

『だけど、月白さま。もう少ししたらきっと風向きが変わると思うのです』

『待つ必要があるのか?』

『きっと、よい方向に行くと思うのです』

『……信じているのだな。〔魅了チャーム〕を使わずとも』

『はい。あたし、本当の気持ちは〔魅了チャーム〕より強いと思うのです』

『……そうか。ではもうしばらく待つとしよう』


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る