第二十七話 別離

 伊予いよ(愛媛)へ行く準備は慌ただしく行われた。

 月姫つきひめは宮中梨壺なしつぼからひとまず左大臣邸に戻り、そこから皆で出立する。


 ――月姫は噂の恐ろしさを身に沁みて感じていた。

 建春門けんしゅんもんが焼失したのを契機に、左大臣家を貶める噂が広まった。

 その噂はあたかも真実であるかのように広まり、皆が噂の虜となった。そしてその噂は宮中で問題視され、橘大納言とそれにくみする者たちにより左大臣充真みつざねは糾弾され、流罪が決まったのである。



「一番問題になったのは、呪術の人形ひとがただよ。父上が帝の御命を狙った、ということになっている」

 孝真こうまは言った。

「でも、あれは橘大納言たちばなのだいなごんの手の者によるということだったじゃないの」

「だけど、憶測に過ぎなかったから……。はっきりした証拠も証言もなかったんだ。……あそこでもっと踏み込んでいれば……!」

 孝真こうまは悔しそうに唇をかんだ。

「父上が呪術の人形を仕込んだ、というのは、憶測でもすらなく、ただの言いがかりじゃない!」

 月姫が怒って言うと、孝真こうまは眉間にしわを寄せながら言う。

「そうだ、言いがかりだ。しかし、宮中の噂話を皆が信じてしまっているのが問題なのだ。信じている部分もあるだろうし、左大臣家を潰したいという思惑もある。要するに、真実が何か、ということが問題なのではないんだ。皆が何を信じたいか、なのだ」


 皆が何を信じたいか、と聞いて、月姫の胸はずきんと痛んだ。

 皆が信じたいと思ったもの。

 あたしと蒼真そうま兄さまの恋? そんな!


「……あたし、蒼真そうま兄さまと恋仲じゃありません……!」

 月姫は目に涙をためて言う。

「そんなこと、俺たちは誰も疑っていないよ」

 孝真こうまは優しく月姫の頭を撫でた。

 月姫がどれだけ傷ついているか、優しい兄たちはちゃんと分かっていた。


「……帝はどう思っていらっしゃるのかしら」

 月姫が一番気にしているのは、帝の気持ちだった。

 桂城帝かつらぎていにはずっと会えていなかった。

 帝まで、あの噂を信じたら、どうしよう?

 蒼真そうまお兄さまと恋仲で、しかも子どもまでいる、だなんて……! ひどすぎる。

 月姫の目から、また涙がこぼれた。


「月姫、帝は分かっていらっしゃるから、心配しなくていいよ」

「――帝にお会いしたいです……」

「それは、折を見て。……今は、色々な処理に追われているんだ」

 建春門の再建に、噂話の対応、そして噂を流した人物の特定。

 やることは山のようにあった。

桂城帝かつらぎてい……」

 月姫は桂城帝かつらぎていの顔を思い浮かべた。

 そして、和歌の「ゆめうたがふな恋しき思ひを(どうか疑わないでください。私の気持ちを。恋しく思っています)」という帝の言葉を信じようと思うのだった。



 左大臣邸に戻ると、まず淑子としこが出迎えてくれた。

「月姫……! 心配していましたよ」

「お母さま!」

 月姫は淑子の顔を見ると、安心して涙が次々にこぼれた。

「月姫、つらかったでしょう?」

「はい」

「きっと、しばらくの辛抱だと思うわ。必ず戻って来られますよ」

「……本当かしら?」

「ええ。殿は、こんなことくらいで終わってしまう方ではありません。きっと何とかしてくれますとも」

「お母さま」

 すると左大臣充真と三人の兄たちが来た。


「お父さま、お兄さまたち」

「月姫。このようなことに巻き込んでしまって、すまない」

 充真みつざねが言った。

「お父さま」

「でも、必ず戻れるようにする。心配するな」

「……はい!」

「都には淑子も残るし、何より慶真けいま孝真こうまがいる。連絡を取り合って、きっと何とかするから。協力してくれる人たちもいる。……しばらくの間だ」

「はい、お父さま」


 月姫は家族に囲まれ、涙を流しながらも温かい気持ちで満たされていた。

 お父さまもお母さまも、お兄さまたちも、みんな大好き。

 きっと、それぞれ心配なことがあるはずなのに、こうしてあたしを慰め励ましてくれる。……あたしも、泣いているばかりじゃなくて、頑張らなくちゃ!

 月姫は、家族に支えられ、前向きにな気持ちになっていた。


「月姫さま、あたしもいますよ」

 朝扉あさとが言い、月姫は笑顔を返した。

朝扉あさと、ごめんなさい。遠いところまで連れて行ってしまうことになるわ」

「大丈夫ですよ! 淑子さまもおっしゃっていたでしょう? きっとすぐに戻れます」

「伊吹と離れ離れになってしまうわ」

「……それはさみしいですけれど。でも、大丈夫です。お別れもすませましたし、文のやりとりをする約束もしましたし」

朝扉あさと……! ありがとう」


 月姫は、これまでどれだけ朝扉あさとに助けられたかを思い返していた。

 朝扉あさと朝扉あさとがいなかったら、あんなに楽しい宮中生活は送れなかったわ。

 そう思うと、また涙が出てしまう。

 すると、孝真こうまが会話に入ってきた。


「大丈夫だ、朝扉あさと。必ず戻れるようにするから」

 孝真こうまは笑顔を見せた。

「お兄さま」

「月姫も、そんなに心配しなくていい。――そうだ、月姫」

 孝真こうまは改まったように、月姫の名を呼んだ。

「はい」

 月姫は背筋を伸ばして返事をした。何か、大事なことを告げられると思ったのだ。


「今宵、密かにいらっしゃる」

 孝真こうまは、誰が、とは言わなかった。

 しかし月姫にはそれが誰かよく分かった。

「……はい……!」

「月が空高く上ったころだ」

「――分かりました」



 月の光が懐かしい左大臣邸の庭にこぼれるのを、月姫は見ていた。

 月白つきしろとの交信はしない。

 月白とは後で話したい。

 ――帝にお会いしてから。

 影がよぎった。


「月姫」

桂城帝かつらぎてい……お会いしたかったです……」

 月を背にした桂城帝かつらぎていの顔は暗く陰り、その表情はよく見えなかった。しかし、ふわりと帝のこうが立ち込め、月姫は懐かしさと愛しさでいっぱいになった。


「来るのが遅くなってすまない。……それより、このようなことになって、本当に申し訳ない」

 桂城帝かつらぎていが月姫の手をとった。

 月姫は帝の手のぬくもりを感じた瞬間、全て赦せるような気がした。

 あらゆることを。

「……大丈夫です。来てくださったんですもの。それに、信じています、あなたを」

「月姫」

 桂城帝かつらぎていは月姫を引き寄せて、その胸に抱いた。

 月姫は、こんなにも好きだったんだと改めて思った――




 かぎりなき思ひのままに船出してぬばたまの夜逢ひに行くべし


(尽きることのないあなたを恋しいという思いのままに、船出をしよう。真っ暗な夜、必ずあなたに会いに行きます。信じて待っていてください。きっと迎えに行きますから。)




 ぬばたまの夜に恋する君を見む かたき誓ひを忘れやはする


(暗い夜でも恋しいあなたに会えたらどんなにか嬉しいことでしょう。固い誓いを決して忘れません。信じてお待ちしております。帝、あなたが迎えに来てくださるのを。)


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