第二十七話 別離
――月姫は噂の恐ろしさを身に沁みて感じていた。
その噂はあたかも真実であるかのように広まり、皆が噂の虜となった。そしてその噂は宮中で問題視され、橘大納言とそれに
「一番問題になったのは、呪術の
「でも、あれは
「だけど、憶測に過ぎなかったから……。はっきりした証拠も証言もなかったんだ。……あそこでもっと踏み込んでいれば……!」
「父上が呪術の人形を仕込んだ、というのは、憶測でもすらなく、ただの言いがかりじゃない!」
月姫が怒って言うと、
「そうだ、言いがかりだ。しかし、宮中の噂話を皆が信じてしまっているのが問題なのだ。信じている部分もあるだろうし、左大臣家を潰したいという思惑もある。要するに、真実が何か、ということが問題なのではないんだ。皆が何を信じたいか、なのだ」
皆が何を信じたいか、と聞いて、月姫の胸はずきんと痛んだ。
皆が信じたいと思ったもの。
あたしと
「……あたし、
月姫は目に涙をためて言う。
「そんなこと、俺たちは誰も疑っていないよ」
月姫がどれだけ傷ついているか、優しい兄たちはちゃんと分かっていた。
「……帝はどう思っていらっしゃるのかしら」
月姫が一番気にしているのは、帝の気持ちだった。
帝まで、あの噂を信じたら、どうしよう?
月姫の目から、また涙がこぼれた。
「月姫、帝は分かっていらっしゃるから、心配しなくていいよ」
「――帝にお会いしたいです……」
「それは、折を見て。……今は、色々な処理に追われているんだ」
建春門の再建に、噂話の対応、そして噂を流した人物の特定。
やることは山のようにあった。
「
月姫は
そして、和歌の「ゆめうたがふな恋しき思ひを(どうか疑わないでください。私の気持ちを。恋しく思っています)」という帝の言葉を信じようと思うのだった。
左大臣邸に戻ると、まず
「月姫……! 心配していましたよ」
「お母さま!」
月姫は淑子の顔を見ると、安心して涙が次々にこぼれた。
「月姫、つらかったでしょう?」
「はい」
「きっと、しばらくの辛抱だと思うわ。必ず戻って来られますよ」
「……本当かしら?」
「ええ。殿は、こんなことくらいで終わってしまう方ではありません。きっと何とかしてくれますとも」
「お母さま」
すると左大臣充真と三人の兄たちが来た。
「お父さま、お兄さまたち」
「月姫。このようなことに巻き込んでしまって、すまない」
「お父さま」
「でも、必ず戻れるようにする。心配するな」
「……はい!」
「都には淑子も残るし、何より
「はい、お父さま」
月姫は家族に囲まれ、涙を流しながらも温かい気持ちで満たされていた。
お父さまもお母さまも、お兄さまたちも、みんな大好き。
きっと、それぞれ心配なことがあるはずなのに、こうしてあたしを慰め励ましてくれる。……あたしも、泣いているばかりじゃなくて、頑張らなくちゃ!
月姫は、家族に支えられ、前向きにな気持ちになっていた。
「月姫さま、あたしもいますよ」
「
「大丈夫ですよ! 淑子さまもおっしゃっていたでしょう? きっとすぐに戻れます」
「伊吹と離れ離れになってしまうわ」
「……それはさみしいですけれど。でも、大丈夫です。お別れもすませましたし、文のやりとりをする約束もしましたし」
「
月姫は、これまでどれだけ
そう思うと、また涙が出てしまう。
すると、
「大丈夫だ、
「お兄さま」
「月姫も、そんなに心配しなくていい。――そうだ、月姫」
「はい」
月姫は背筋を伸ばして返事をした。何か、大事なことを告げられると思ったのだ。
「今宵、密かにいらっしゃる」
しかし月姫にはそれが誰かよく分かった。
「……はい……!」
「月が空高く上ったころだ」
「――分かりました」
月の光が懐かしい左大臣邸の庭にこぼれるのを、月姫は見ていた。
月白とは後で話したい。
――帝にお会いしてから。
影が
「月姫」
「
月を背にした
「来るのが遅くなってすまない。……それより、このようなことになって、本当に申し訳ない」
月姫は帝の手のぬくもりを感じた瞬間、全て赦せるような気がした。
あらゆることを。
「……大丈夫です。来てくださったんですもの。それに、信じています、あなたを」
「月姫」
月姫は、こんなにも好きだったんだと改めて思った――
かぎりなき思ひのままに船出してぬばたまの夜逢ひに行くべし
(尽きることのないあなたを恋しいという思いのままに、船出をしよう。真っ暗な夜、必ずあなたに会いに行きます。信じて待っていてください。きっと迎えに行きますから。)
ぬばたまの夜に恋する君を見む かたき誓ひを忘れやはする
(暗い夜でも恋しいあなたに会えたらどんなにか嬉しいことでしょう。固い誓いを決して忘れません。信じてお待ちしております。帝、あなたが迎えに来てくださるのを。)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます