第二十六話 噂

 建春門けんしゅんもんは焼け落ちたものの、建物への被害は少なく、皆、もとの生活を取り戻しつつあった。


 そんな中、まことしやかに、ある噂が広がっていた。

 いわく、建春門を焼いたのは藤原蒼真ふじわらのそうまであると。

 いわく、蒼真そうま月姫つきひめは、実は左大臣邸にいるときから恋仲であり、引き裂かれた恨みで蒼真そうまは建春門を焼いたのだと。

 月姫は建春門から逃げて恋仲である蒼真そうまのところに行くはずだったが、それが成し得ず、腹を立てた蒼真そうまが門を焼いたのだという話になっていた。

 おまけに先の呪術の人形ひとがたに関しては、左大臣充真みつざねのしわざであるという噂まで付いていた。桂城帝かつらぎていを弑し奉り、桂城帝かつらぎていの妹の綾子あやこ内親王と自分の息子慶真を結婚させ、御しやすい女帝の後ろで権力をふるいたいのだ、と。


 さわさわさわと、噂は静かな音を立てて宮中全体に広がり、皆、顔を合わせるとその噂話で持ちきりだった。



 当然、月姫は腹を立てていた。

 何しろ、根も葉もない噂なのである。

 しかし、その、根も葉もない嘘の話を、あたかも真実であるかのように、皆が話しているのである。


「何なのよ、いったい! どうしてそんな嘘ばかりの話を皆信じちゃうの? ひどいわっ」

 泣く月姫を朝扉あさとは最初、「まあ人の噂もそのうち収まりますから」と慰めていた。

 しかし、噂はいっこうに収まらなかった。収まらないどころが、どんどん広がっていき話も大きくなっていった。

「噂、全然収まらないわ。それどころか、どんどんひどくなるわ!」

 月姫の言う通りだった。


 確か、最初は建春門の近くで藤原蒼真ふじわらのそうまを見かけた、という噂だけだったはずだ。

 その噂を月姫と朝扉あさとが聞いたとき、誰かと見間違えたのね、くらいに思い、まさか犯人にされるとは露ほども思っていなかった。

 しかしすぐに、その場に月姫さまもいたらしい、という噂が加わり、では、蒼真そうまと月姫さまは逢引きしていたのではないか、という話になった。


 どうしてそんな根も葉もない噂が? 嘘ならばしばらくしたら収まるだろうと思っていたら、甘かった。あっという間に、蒼真そうまと月姫は恋仲であるという噂となり、蒼真そうまが建春門を焼いたという話にまで膨れ上がったのだ。しかも、月姫たちがなかなか噂を消せずにいると、そこに充真みつざねが帝を呪詛するために呪術の人形ひとがたを仕込んだという噂まで加わり、噂はまるで生き物のように独り歩きを始めた。黒い霧を撒き散らすようにして。


 最近ではそこに、月姫は蒼真そうまの子を身ごもっているとか、或いは月姫の御寝所にあった呪術の人形ひとがたは宮中を出るための自作自演であったとか、そういう話まで付け加わっており、全く手の打ちようがなかった。


 月姫が一番心を痛めていたのは、自分が長兄である蒼真そうまと恋仲であるという噂だった。悔しいやら悲しいやらで、月姫は涙をほろほろと流した。

 その様を見ていた朝扉あさとは、この方は涙を流していても、なんと美しいのだろうと思う。

 涙が月の雫のよう。

 ……これは誰かの恨みとか妬みを買うのも仕方がないのかもしれない。

 朝扉あさとは、噂話が広まった一因には、月姫を恨んだり妬んだりする気持ちがあると、考えていた。


桂城帝かつらぎてい……」

 建春門が焼け落ちた後処理で、桂城帝かつらぎてい孝真こうまも忙しいらしく、月姫のもとに来ることが出来ないでいた。それも月姫が不安に思う理由の一つだった。


 もうずっと、まともに会えていない。

 その間に、噂はとどまるところを知らぬげに、蔓延していった。

 月姫はどうすることも出来ずにいた。

魅了チャーム〕をかければいい?

 でも、誰に?

 噂が広まり過ぎていて、異能力を使おうにも誰にどのように使ったらいいか、分からなかった。さりとて、あまりに多くの人に使うのは、危険だと思われた。第一階層での混乱を思い返すと、むやみに多くの人間に〔魅了チャーム〕を使うと、収拾がつかなくなると月姫は直観していたのである。


 そうして、月姫はいつになく落ち込み、涙にくれていたのである。

 管弦の宴のときの帝を、折に触れて思い出していた。……あんなに近くにいたのに。

 嘆き悲しむ月姫を見て、朝扉あさとが言った。

「和歌を詠んでお届けしたらどうですか? 桂城帝かつらぎていは月姫さまの和歌が好きだとおっしゃってくださったのでしょう?」

「……うん。そうしてみる」




 月姫が帝に送った歌。



 知る知らぬ夢の中にてひと目見む ただ一筋に恋わたるべし


(あなたはご存知でしょうか。それともご存知ないでしょうか。夢の中でいいから、ひと目お会いしたいのです。ただ、あなただけを一途にお慕い申し上げております。)




 帝からの返歌。



 夢にだに見ゆれば嬉し月の夜 ゆめうたがふな恋しき思ひを


(夢でさえ会えたら、私も嬉しいです。月の夜に、月姫、あなたに。どうか決して疑わないでください。信じていてください、私の気持ちを。恋しく思っています。)




 月姫が帝からの返歌を読み返し、胸に文を当てて涙を流していると、孝真こうまが訪れた。

 孝真こうまの顔は青く、月姫から視線を逸らした。

「お兄さま? どうかなさったのですか?」

 月姫が訊くと、孝真こうまは重い口を開いた。

「月姫、大変なことになった」

「大変なこと?」

「――流罪が決定した」

「え?」

「月姫、あなたの。それから父上と蒼真そうま兄上も。……伊予いよ(愛媛)への配流となった……!」

「どうして、そんな……‼」


 伊予いよ⁉ そんな遠くへ?

 あたしがいったい、何をしたと言うの?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る