八章 建春門焼失と噂話、そして――

第二十五話 火事――建春門焼け落ちる

「大変です! 火事です‼ 月姫つきひめさま、お逃げください!」

 月姫は夜中に朝扉あさとの叫び声で目覚めた。


「朝扉? 火事って?」

建春門けんしゅんもんが燃えているんです!」

 建春門は月姫の住まう梨壺なしつぼに近い門で、内裏の門の一つだった。

 月姫が梨壺の簀子すのこ縁側えんがわ)から外を見てみると、確かに建春門の辺りが赤く明るくなっていた。そして、人々の悲鳴や騒ぎ声が聞こえた。


「月姫さま、こちらは危ないですから、帝のいらっしゃる清涼殿せいりょうでんに行きましょう。きっと帝とも心配なさっているはずです」

「他の皆はどうしているかしら」

「順々に逃げております。まずは月姫さまを無事に清涼殿までお連れするのがわたしどもの使命です」

 建春門の火は大きくなり内側の宣陽門へのその火の手を伸ばしているように見えた。

 夜なのに、火事のせいで明るく、そして人々のざわめきが月姫を取り巻いていた。


「……どうしてこのような恐ろしいことが……」

「分かりません。とりあえず、火から遠いところへ逃げなくては」

 月姫が朝扉あさとに手を引かれ渡殿わたりどの(渡り廊下)を行くと、向こうから来た人にぶつかった。

「すみません」

 それは男性で、月姫よりも年上に見えたが帝よりは少し若いように見えた。

 柔和な顔つきながらも目つきは鋭く、月姫はなぜだが怖くなり震えが足元から上がってきた。


「もしかして、月光る姫さま――月姫さまでいらっしゃいますか?」

「……どなた?」

 朝扉あさとが月姫とその男性の間に入って、月姫を隠すように言った。

「ああ、すみません。私、橘雅為たちばなのまさなりと申します。……何度か文を差し上げました」

「……あなたが……!」


 名前は何度か話題に出ていたし、文ももらっていた。しかし、月姫はこれまで雅為まさなりの顔を確認したことがなかったのだ。

 月姫は雅為まさなりをじっと見つめた。


 雅為まさなりは「月姫さまが心配で参りました。建春門近くの梨壺にいらっしゃったので」と言ったが、その顔はなぜか嫌な笑いを浮かべているように見えた。

「さ、こちらですよ。清涼殿に参るのでしょう? 男手がないと不安かと思い、馳せ参じました」

 言葉は丁寧であるし話し方も動作も上品だ。

 だけど、月姫はなぜだかその手を取る気になれなかった。

 騒ぎは大きく、火を消す者たちや逃げる者たちの声で夜とは思えない様子だった。暗い夜を赤い火が舐めるように広がり、炎はますます大きくなっているようだった。


「ささ、月姫さま、こちらに。足元にお気をつけてください」

 雅為まさなりが言う。

 人々のざわめき叫び声、炎の赤さ、夜の闇は騒然としている。

「月姫さま。雅為まさなりさまと、清涼殿まで急ぎ参りましょう」

 朝扉あさとは青ざめた顔で、月姫を見る。朝扉あさとには、夜の闇も火事も――このような異常事態全てが恐ろしかった。

「……分かったわ。急ぎましょう。雅為さま、ご案内をお願いします」

 月姫はそう答えた。

 案内など必要なかったが、この混乱の中、何が起こるとも知れなかった。朝扉あさとと二人では心もとないのも事実だった。魂胆が何か分からないが、ひとまず雅為まさなりといっしょに行くことにした。


 月姫は雅為まさなりの後をつけながら、迷っていた。

 彼に〔魅了チャーム〕をかけるべきであろうか。

 しかし、この状況ではかけにくいのも事実であった。朝扉あさとがすぐそばにいて、そして火事から逃げている。もう少し落ち着いた状況で、相手の目を見てかけねば。


 ――後に、月姫はこのときの判断を悔やむことになる。

 あのとき、雅為まさなりに〔魅了チャーム〕をかけておけば、あのようなことにならなかったと。


 しかし、建春門は燃えており火事から逃げているという状況下で、多くの人々が逃げまどい騒ぎ立てている落ち着かない中、しかも朝扉あさとがすぐそばにいるという状態で、〔魅了チャーム〕を雅為まさなりに使うことが、月姫にはやはり出来なかったのである。そこには、黒幕は橘大納言たちばなのだいなごんであるのではないだろうかという仮説と、雅為まさなりに関しては橘大納言たちばなのだいなごんに加担しているかどうか、まだ確認しきれていなかったという事情も介在していた。


 雅為まさなりさま……この方の真意はどこにあるのかしら?

 どうしてこの状況かで、あたしを迎えに来たの?

 いつもなら、孝真こうま兄さまが真っ先に駆けつける。

 だけど、一番に現れたのは、顔も知らなかったこの方だった。

 あたしを心配して、というのは本当だろうか?

 タイミングよく現れたことこそ、不審なのではないかしら。

 さまざまな考えが月姫の中を巡ったが、ともかくは清涼殿へと向かった。

 桂城帝かつらぎていがご無事であるかの確認もしたい、と月姫は考えていた。



 人をかきわけるようにして清涼殿に着くと、まず孝真こうまを見つけた。

孝真こうま兄さま!」

「月姫! ……よかった、無事だったか。伊吹を使いに出したのだが、行き違ったようだな」

「はい、この方に連れて来ていただいて」

「――そなたは、橘雅為たちばなのまさなりどの? なぜ?」


 なぜ。

 それは当然とも言える疑問だった。

 そう、なぜ、橘氏が?


「そう睨まないでください、孝真こうまどの。私は月姫さまに焦がれているのですよ。文も何度も送っております。……そうでございましょう? 月姫さま?」

 雅為まさなりはそう言うと、にたりとした視線を月姫へと向けた。

「はい、いただいております」

 そう答えながら、月姫は震えが止まらなかった。


「……ここまで連れて来てくれたことには礼を言う。後は俺が責任を持って、月姫を帝のところに連れてゆくから、そなたはもう下がるがいい」

「かしこまりました。……では、月姫さま。お会い出来て嬉しかったです。噂にたがわず、本当に、輝くばかりにお美しい!」

「……雅為まさなりさま、ありがとうございました」

「それではまたお会い出来る日を楽しみにしておりますよ」

 雅為まさなりはそう言うと、夜の闇に溶けるように去って行った。


「何がまたお会い出来る日が、だ! そんな日は来ない」

 孝真こうまがいまいましげに言う。

 基本的に高貴な女性は顔を出したりしない。

 しかし、このような非常事態だったので、たまたま顔を合わせただけだった。

 ……たまたま?

 もしかして、仕組まれていたことだったら?


 月姫が何事かを考え始めたとき、「月姫、帝のところに参ろう。帝が心配して待っているから」と孝真こうまが言った。

「火は? 建春門の火はどうなったかしら?」

 燃え広がって、内裏全部を焼いてしまったら大変だと月姫は思った。

「火はだいぶ鎮火しているとのことだ。幸い、小さい失火の段階で気づいたから。ただ――建春門は焼け落ちたらしいが。でも、門だけですんだのなら、まだよかった」


「月姫! こちらにいたのか。よかった、無事で」

 孝真こうまと話していると、桂城帝かつらぎていが顔を出した。

 すると「月姫さま! ご無事で何よりです!」という伊吹の声がして、「伊吹!」と朝扉あさとが伊吹の元へ駆けて行った。

「門の方はどうだ? けが人はいるか?」

 孝真こうまが伊吹に訊くと、伊吹は「火は鎮火しました。建春門は焼け落ちましたが。火消しをしている中で火傷を負ったものは数名おりますが、死者は出ておりません」と答えた。

 それを聞いて、孝真も帝も安堵したらしかった。


「帝、月姫をお願いします。俺は伊吹といっしょに、事後処理をしてきます」

「分かった。よろしく頼む」

 そうして、悪夢のような一夜は過ぎ去って行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る