第十六話 不穏な足音

 月姫つきひめはその文を見て、首を傾げた。


「どうしたのですか、姫さま」

「色々あって、あたしの元に届く恋文はほとんどないじゃない?」

「そうですわね」

「でも、これ、どう思う?」

 月姫はその文を朝扉に見せた。

「これは……橘大納言たちばなのだいなごんの末の息子の、橘雅為たちばなのまさなりさまの文?」

「そうなのよ。……どうしよう? 恋文に見えない?」

「見えます」




 知る知らぬ見もせぬ人の恋しきを雲隠れする月を見やりて


(あなたはご存知でしょうか。いや、ご存知ないでしょう。お会いしたこともないあなたを、これほど恋しく思っていることを。雲に隠れてしまう月を見て、姿を見せないあなたのことを思っております。)




「この文、どうしたらいいかしら」

 月姫が呟くと、「返事をした方がよいと思う」という声がして、振り向くと孝真こうまがいた。

「お兄さま」

橘大納言たちばなのだいなごんとうちは、敵対関係にある。橘大納言たちばなのだいなごんの父は高齢だが右大臣だ。うちの父上は左大臣。何かと競い合っているのだよ。今のところ、ほぼ同年代である、父上と橘大納言を比べると、父上の方が早く左大臣になったから、うちが優位なのだが……。でもどんなことで足をすくわれるか分からない。だから、雅為まさなりの真意は分からないが、返歌はして欲しい」

「分かりました、お兄さま」

 そう言って月姫は返歌をしたためた。




 をとにのみ聞くばかりにて遥かなる山におはする君は見えずも


(すばらしい方だというお噂を耳にしております。手の届かないところにいらっしゃるあなたですから、あたしは見ることが出来ません。)




 月の晩、月姫は月白つきしろと交信をした。

『月白さま』

『久しぶりだな。……第七階層はどうだ?』

『ええ。人々は自然に溶け込んで、そして豊かな文化を築いております』

『なるほど。記録しておこう』

『よろしくお願いします。……あの、月白さま、質問があるのです』

『どうした?』

『あのう、好きってどういうことでしょう?』

『……凛月りる? ……いや、月姫、どうしたのだ?』

『第一階層にいたときにはなかった感情が、あたしの中にあるのです』

『なるほど。……第一階層にいて、お前が〔魅了チャーム〕を使ったとき、パートナーをとられたと思った者たちが、お前に怒った気持ちが分かったかい?』

『たぶん。何となく』

『……ほう』

『月白さま、愛とはどのようなものでしょう? 好きとはどう違うのでしょうか』

『その答えは自分で見つけるとよいぞ。……好きという感情は分かったのかな?』

『たぶん』


『……〔魅了チャーム〕を使ったか?』

『必要に応じて使いましたが、ほとんど使っていません。今回、トラブル解決のためにも使いました。――そこで、新しい使い方を学びました』

『それはよかった。……では、月姫。お前が凛月りるとなって、第一階層に戻るのも、遠い日ではなさそうだな』

『――え?』

『三年、ということだったが、それはあくまでも目安で、贖罪が済み、お前が学ぶべきことを学んだのなら、それでいいのだよ』

『だけど』

『お前も、三年は長いと言っておっただろう? 早く第一階層に戻りたいんじゃないのかい? 一時期はトイレがどうのお風呂がどうのと言っておったではないか』

 それはそうだけど、でも。

『では、また次の報告を待つ』

 通信は途絶えた。

 そして月姫は、第一階層に戻りたいと自分が思っていないことに、驚いていたのである。

 あたし、帰りたくない。

 ……ここにいたい。



 月白との交信をした翌朝、目覚めると朝扉あさとが泣いていた。

朝扉あさと、どうしたの?」

「月姫さま! あたしあたし、結婚出来なくなったかもしれません」

「え? 伊吹いぶきと? どうして?」

「伊吹、他の女と文のやりとりをしていて、後朝きぬぎぬの歌(男女が夜を共にした翌朝送る歌)をその女に送ったみたいなんです! 三日みかもちいを食べていたら、どうしよう?」

 朝扉あさとは声を上げて泣いた。

朝扉あさと……」

 姉のような存在の朝扉あさとの嘆くさまを見て、月姫は、これはあたしがなんとかしないと、と思った。

朝扉あさと、あたしに任せて! 真実が何か、突き止めてみせるわ!」



 伊吹が後朝きぬぎぬの歌を送ったとされているのは、どうも雪音ゆきねという女官らしい。

 雪音は左大臣充真みつざねの北の方(妻)、つまり月姫たちの母親である淑子としこに仕える女官であった。桂城帝かつらぎていの使用人である伊吹は、左大臣家に行くことが多く、それで知り合ったとのことだった。


 いやいやちょっと待って。そもそも、伊吹が左大臣家に足繫く通っていたのは、本当は朝扉あさとに会うためよね。

 月姫はそう思い、目を閉じて考えを巡らせた。

 朝扉あさとが聞いたのは、噂よね。

 この第七階層第八エリアでの噂って怖いわ。あたかもそれが真実であるかのように出回るんだから。

 でも、嘘も含まれているわよね、噂。

 あたしのときみたいに。

 でも、上手に、真実に嘘を染み込ませるから、もっともらしく聞こえるのよ。

 今回の場合、伊吹が左大臣家に足繁く通っていた、それは女のためだった、という真実があって、その女は朝扉あさとなのだけど、その朝扉あさとの部分を雪音に変えたんじゃないのかしら? それを意図的に広めた人間がいるのよ。

 いずれにせよ、伊吹本人に話を聞くのが一番いいのだけど、朝扉あさとが泣いて泣いて仕方がないから、あたしが聞き出してみせるわ。


 月姫はそう思い、先日使った〔魅了チャーム〕の新しい使い方を思い出していた。

 第一階層にいるときは、自分のことを好きになってくれるようにしか、使わなかった。だけど、この能力には、自分の意図することを相手にさせる力もあるみたい。

「よし!」

 月姫は策略を練った。

 朝扉あさと、泣かないで。

 あたし、頑張るから。

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