いつか、霧を超えさせて

佐倉遼

いつか、霧を越えさせて

 夜は道理を知らない子供のように、先が見えない霧を引き連れてロンドンの街に降り立っていた。ランタンの光は霧の肌をほんのりと照らすだけで、その奥先を見透かすことは叶わなかった。


 ヘレナは、舞踏会の煌めきと喧騒を背に、重いドレスの裾を引きながらヴィクトリア馬車に乗り込んだ。車高が低いそれは、華美な衣装に身を包んだ彼女でも容易に乗り降りできるよう、専属の御者であるクリントが選んだ馬車だった。彼が手綱を握る音が、何度も耳にしてきたはずなのに、今夜は心の中に深く染み込んでくるようだった。


 二十歳の彼女の心に重くのしかかるのは、明るく無害で行く末が完全に決められた未来への果てしない絶望だった。階級によって決められた婚約者との結婚。それは、ヘレナの心に鋭く刺さり、音を立てずに胸の内に広がっていた。


 馬車が静かに動き出す。ロンドンの街並みを揺れながら進む中、ヘレナの目は外の景色を追っていたが、やがて無意識に馬を操るクリントの背中を見つめた。背の高く細身な男だ。顔立ちは整っており着飾れば貴族に見えないこともない。彼は、長い間、無口で忠実にその役割を果たし続けてきた。無表情で冷淡、ただの従者のはずだった。だが、今夜、彼女の目には、その横顔に宿る冷たい表情が妙に鮮やかに映り込み、彼女の胸の奥に不安とともに潜んでいた何かを揺さぶった。


「……あなた、この仕事が好き?」


 ヘレナの声は、まるで自分自身に問いかけるように、薄い吐息と共に夜の静けさの中に溶けた。クリントは一瞬だけ反応したものの、すぐに無言で顔を伏せ、何もなかったかのように馬を操り続ける。


「お嬢様をお守りするのが、私の務めでございます」


 冷ややかなその言葉は、まるで感情のない人形のようだった。しかし、それがかえってヘレナの心にくすぶる不安を刺激し、彼女の微笑みは薄く苦々しいものへと変わっていく。彼女は再び視線を闇に戻し、静かに続けた。


「そう……。こんな私のためにね」


 その言葉に反応するように、クリントは振り返り一瞬だけ何か言いたげな目を向けたが、御者としての立場を思い出したのか、再び口をつぐんだ。


「誰も私を見ていない。まるで年代物のボルドーワインのラベルを見てありがたがるのと同じ。味なんて気にしていないの」


 彼女の言葉は彼の沈黙に吸い込まれ、夜の静けさが二人の間に満ちていた。彼は何も言わず、その無言が彼女を拒絶することも、慰めることもなく、ただ静かに受け止めていた。そして、その沈黙の中で、ヘレナの胸に潜んでいた感情がじわりと姿を現してくるのが感じられた。


「あなたは私が恵まれているって思う?」


 冷たく鋭い声が闇夜を切り裂いた。抑えきれなかった感情が彼女の中で暴れ出し、理性の鎧が音を立てて崩れていくのを感じた。目を閉じ、震える指先をぎゅっと握りしめ苛烈な炎に焼かれる心を飼い慣らしながらなんとか言葉を続ける。


「私は、そう思わない。私は見世物小屋の綺麗な孔雀よ。どこへも行けないまま羽をむしられていくの。少しでも長生きできるように、お金を稼げるように、いいものを食べさせてもらってる。それだけ」


 彼女の言葉は、今にも崩れ落ちそうな声で、夜の静寂に吸い込まれていく。いつの間にか涙が彼女の頬を濡らしていた。彼女はそれを隠すように顔を横に向け、目の前の街灯がかすかに滲んで揺れるのをじっと見つめた。馬車は何事もなかったかのように揺れ続け、クリントは無言でその手綱を引き続ける。


 彼は忠実ではなかった。その時だけは。


 馬車は唐突に、しかし静かに揺れを止めた。


「ヘレナ様、ひとつよろしいでしょうか」


 突然の呼びかけに、ヘレナは驚いてクリントの方を向いた。馬車は彼の意思で止められていた。頬を伝っていた涙を素早く拭い取り、かすれた声で「えぇ」とだけ答えた。


「わたしはあなたを乗せて、この街を行くのが好きです。古びたワインでも、見せ物の孔雀でもない、あなたを」


 その言葉と、振り返ったクリントの燃えるような瞳を見て、ヘレナは言葉を失った。冷たい目だと思っていたが、今は違う。その視線は、彼女の心を鋭く射抜いた。その瞳は傷口に他ならない痛々しさを湛えていた。彼の目には、今まで気づくことのなかった真実が宿っていた。


「できることなら……」


 彼は言葉を紡いだが、次の瞬間、「……いえ」と自ら打ち消した。差し出がましいことを言ったのだと悟り、礼儀正しく頭を下げる。しかし、その一瞬のためらいに彼の本音が垣間見えた。彼の影は霧の中で淡く浮かび上がり、まるで幻のように揺れていた。


 しばらくの沈黙の後、クリントは再び手綱を引き、馬が静かに歩を進め始めた。彼の肩越しに見えた夜空には、いつもより多くの星が瞬いているように感じた。


「クリント……」


 その名を呼ぶ声は、ヘレナ自身にもかすかで、まるで自分の口から出たものとは思えなかった。彼は一瞬、驚きに目を見開いたが、すぐに無表情に戻る。


「さっきの続きを、聞かせて」


 ヘレナの問いに、クリントは戸惑いの色を浮かべた。その顔を見ないと約束するかのように、ヘレナは言葉を続けた。


「お願い、私は景色を見ているわ。あなたのことは、見ないから」

 

 彼は困惑したようにぎこちなく笑みを浮かべた。それはヘレナが初めて見た、そして最後となった彼の笑顔だった。ヘレナはそれを了承の意と受け取って前方の景色を見る。そして彼は口を開いた。


「できることなら、私はあなたに堕ちていきたいんです」


 その言葉は、ヘレナに衝撃を与えた。まるで時が止まったかのような一瞬が永遠に感じられるほどだった。自分をこれほどまでに思っている者が、こんなに身近にいたとは考えもしなかった。ロンドンの街灯が滲み、涙で揺らぐ光が大きな水玉となって彼女の視界を包んだ。それは、今まで見たどんな景色よりも美しかった。


 クリントは、自分が決して叶えられない願いを口にしていた。彼の声は、望むことができない現実を理解しながらも、その思いをどうしても言わざるを得なかった切迫感に満ちていた。ヘレナはそれに答えるべき言葉を、滲む霧の都から探し出そうとした。


「いつかきっと……私を連れ出してくれない?」


 彼女の心の中で、常識や社会の枠組みが音を立てて崩れ去ろうとしていた。今夜、彼女は全てを投げ捨て、クリントと共にこの冷たい世界から逃れたいと願った。願うことはすべての人に許された唯一の救いだから。その願いが、自然に彼女の口から零れ落ちた。


 クリントは一瞬、何も答えなかった。霧と闇が彼の表情を覆い隠していたが、その沈黙の中に、その背中に、彼が抱く深い葛藤が確かに感じられた。


「それは約束でしょうか、それとも呪いでしょうか」


「そのどちらもでしょうね」


 ヘレナは微笑んだが、その微笑みには苦痛と幸福が混ざり合っていた。二人の間には再び静寂が広がる。馬の蹄鉄が石畳を叩く音だけが、霧の夜に低く響き続けていた。ガス灯のぼんやりした光が、レンガ壁をかすかに照らしていた。


 クリントは小さく息を吸い、再び口を開いた。


「わかりました。いつか、あなたが望めば」


 彼の声は穏やかで、それでいて重く、夜の静寂に深く染み込んでいった。




 数年後、ヘレナは定められた相手と結婚し、家庭を築いていた。華やかな日々の中で、彼女の心には少しずつ、かつての不満は薄らいでいき、日々の幸福が満ちていった。ただふと心の片隅に忘れられない記憶が蘇る時もある。それは、あの馬車の中で交わされた、果たされることのない約束のこと。


 クリントはいまだに変わることなく馬車を操っていた。ヘレナは、社交の場から帰る途中で、静かに外を眺め、かつてクリントと交わした約束を思い出していた。


「クリント……」


 彼女はかすかに声をかけたが、クリントは何も答えず、ただ静かに馬車を進めるだけだった。二人の間には、あの夜からずっと続く沈黙があった。それは、決して破られることのない、果たされることのない約束の象徴だった。


 ヘレナはクリントの横顔を見た。歳月は彼にも刻まれていたが、その瞳はあの夜と変わらぬまま、前だけを見つめていた。彼はいまだに決して来ることのない"いつか"を待っているのだろうか。


 彼女の心は再び揺れた。しかし、今はその感情に答えを出す必要はなかった。彼女には家族があり、愛する人々がいた。そして、それ以上の何かを求めることは、許されないのだった。


 馬車が自宅の前で静かに止まった。クリントが降りて馬車の扉を開け、ヘレナに手を差し出す。その手を取った瞬間、彼女は言葉にはできない感情が胸の奥で再び湧き上がるのを感じた。酩酊のようなそれは確実に体を蝕んでいたが、しかし、思いを口にすることはない。


「ありがとう、クリント」


 それだけを告げて、ヘレナは静かに馬車を降りた。クリントは何も言わず、ただ一礼し、再び馬車に戻る。果たされることのない約束と呪いが、手綱を握っていた。


 馬車は静かに夜の闇の中へと消えていき、ヘレナはその背中をじっと見送った。夜風が静かに彼女の髪を揺らした。あの夜に違う道を選んだら、どうなっていたのだろうかと考えてしまうほどに、深い霧がロンドンを包んでいた。


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