第三章
次の日、美樹は旧友の久我(くが)からの誘いを受け彼が経営するレストランへと足を運んだ。久我は、美樹がどれほど変わらずにいるかを見極めようとしつつ、自らの成功を誇示する場としてこの場所を選んだようであった。
「美樹、元気そうじゃないか。」
久我は笑みを浮かべながら、美樹に高級なワインを勧めた。その目には、彼が成功した世界で手に入れた物質的な豊かさへの満足感が滲んでいた。しかし、その奥にはかつての友への微かな嫉妬と疑念も垣間見えた。
「前も言っただろう。元気かどうかは、重要じゃない。」
美樹は短く答え、グラスの中で揺れるワインを無表情で見つめた。彼にとって、その赤い液体は、単なる色彩であり、それ以上の意味を持たなかった。彼が求める美は、結果としての豊かさではなく、過程に宿る瞬間の輝きだった。
「相変わらずだな。」
久我は皮肉めいた笑いを浮かべたが、その背後にはどこか嫉妬のような感情が隠れていた。彼は現実世界での成功を手に入れたが、その代償として、かつて抱いていた純粋な理想を捨て去ったことを自覚していた。そして、その理想を今なお追い続ける美樹の姿は、彼にとって痛烈な自己批判の原因でもあった。
「君の言う結果なんて、ただの死骸に過ぎない。生きたものは常に動き続け、完成を拒絶するんだ。だからこそ、その過程に価値がある。」
美樹の言葉には狂気と呼ぶべき固執が込められていた。彼にとって、完成とは死であり、過程こそが生であった。それは今も昔も変わらない。久我はその言葉を聞きながらどこか複雑な感情に囚われた。
久我は物質的な成功を手に入れたが、それと引き換えに失ったものがあることをいつもどこかで感していた。
(美樹、お前は今でも結果を求めずに美しさを追って生きているのか。)
彼は美樹に対して、捨て去った理想を今も追い続けるその生き様に、どこか自己否定的な思いを抱いていた。
(俺は……お前みたいに純粋に生きられなかった。成功を求めた結果、俺は自分自身を裏切ったような気がしてならないんだ。)
久我は美樹に対して表面上は強がっているが、心の中では過去の自分を見つめ直し、その後悔が胸を締め付けていたのだ。彼は自分が成し遂げたものが、どれだけ虚ろなものかを美樹の存在を通じて改めて感じていた。
「俺はもう戻らない。大人になった。社会に出た。つながりもある。家族もいる。今更、理想だけを追い求めることなんてできない。」
久我のその言葉は、彼自身への言い訳であり、同時に美樹への言い訳でもあった。彼は、自分が選んだ道が間違っていないことを、美樹の前で確認したかったのだ。
レストランを出た後、美樹は街の喧騒の中に身を置いた。夜の闇は深く、街灯の光が濡れた舗道に滲むように反射している。彼の心は静まり返り、その中で無限の空白が広がっていた。久我との対話を経て、彼は一層自らの信念を確かにしたが、同時に、何か言い知れぬ虚無感が彼を蝕んでいた。
「やはり…結果に意味はない。」
と幾度も自分に言い聞かせながらも、その言葉の背後に潜む孤独の影が、彼に密かに囁きかける。美樹はそれを振り払おうと、歩みを早めた。
彼が向かった先は、かつて通い詰めた古いカフェだった。そこで彼は、一人の女性に出会うことになる。その女性、沙織(さおり)は、彼の新たな作品のモデルとなる予定の人物だった。
カフェの中は古い木製の家具に囲まれ、時間が止まったかのような静けさが漂っていた。美樹が席につくと、数刻遅れて、約束した席に彼女はやってきた。柔らかな瞳が彼を見つめる。その瞳には、どこか憂いを帯びた影があり、彼女の存在そのものが一種の芸術作品のように思えた。美樹も彼女に視線を返す。幾許かの沈黙ののち沙織が口を開く。
「あなた、何を見ているの?」
静かに問いかけたその声は、まるで囁くように耳に届いた。彼女には言葉では表し難い魅力があった。それは、はかなくも美しいものが持つ特有の輝きであり、美樹の目にはそれがどこか懐かしいものとして映った。
「君の中にあるもの――それを見ている。」
美樹の答えは曖昧でありながら、彼女にはそれが単なる言葉遊びではないと感じられた。彼の瞳に映るのは彼女の内面に潜む何か、形にできない微細な感情の波だった。
二人の間には、言葉ではない何かが流れ始めた。その空間を満たす静けさの中で、彼らは互いの存在を見つめ合いながら、言葉以上の理解を共有していた。沙織の存在は、美樹にとって「消えゆく瞬間の美」の象徴であり、彼の創作において不可欠な要素だった。
彼女は、純粋でありながらも、その中に深い悲しみを宿していた。それは、人生の無常を悟りながらも、それに抗えずにいる者が持つ特有の輝きであり、彼にとって究極の美の形であった。彼女をモデルとすることで、彼は自らの美学をさらに具現化することができると確信した。
「改めていうが、僕の作品のモデルになってくれないか?」
「いいわ。あなたの目に映るものが何かを知りたい。」
彼は彼女をモデルとした作品づくりを通して自らの理想にさらに近づくことができると感じていた。同時に、その理想に近づけば近づくほど、彼自身がより深い孤独に沈んでいくことも予感していた。
週末、美樹と沙織の共同作業が始まった。彼女は、静寂に包まれたアトリエに定期的に訪れ、彼の指示に従いながらポーズを取った。その静けさの中、二人の間には言葉以上のものが流れていた。美樹は彼女の内に秘められた儚さを彫刻に封じ込めようとするが、それは決して容易ではなかった。沙織の存在そのものが、彼の理想と現実の狭間で微妙なバランスを保ちながら揺れ動いていた。
日々の作業を重ねる中で、沙織の存在は美樹にとって特別なものになりつつあった。彼女の内面に宿る美しさと脆さが、彼の中に眠っていた感情を目覚めさせていく。それは、彼がずっと恐れていたものであり、創作に対する集中を乱す危険なものであった。しかし、彼女への想いは抑えがたく、次第に彼を侵食していった。
ある日のこと、美樹は彫刻を中断し、ふと沙織に問いかけた。
「沙織、どうして僕の作品のモデルになろうと思ったんだ?」
彼の声には、普段の冷静さとは違う響きがあった。まるで感情が溢れ出すのを防ぎきれないかのようだった。その問いには、彼自身が抱える戸惑いがにじみ出ていた。
沙織は一瞬考え込み、やがて微笑みながら答えた。
「最初は、ただあなたの目に映るものがどんなものなのか、知りたかっただけ。でも、今は……あなたが私を見つめると、まるで私の奥まで見透かされている気がして。どんなに隠そうとしても、あなたには見えてしまう……それが少し怖いけど、同時にその先に何かがあるような気がするの。」
彼女の声は静かで、だがどこかで心の奥底から溢れ出る不安を感じさせるものだった。その言葉は、美樹の心に深く響いた。彼が探し求めていた「未完の美」と、沙織の持つ儚さが重なり合っていることに気づいた。
「僕はただ、形を求めているだけなんだ。君の内面に踏み込むつもりはない。むしろそれを排除しようとしている。」
美樹は防御するかのように言葉を返した。彼は感情が創作に入り込むことを拒絶していた。しかし、自分が本当に沙織の存在を排除しようとしているのか、彼自身も確信が持てなかった。
沙織は優しい笑みを浮かべながら、静かに答えた。
「それでも、あなたは私を見つめ続けている。私がどんなに完璧に見せようとしても、あなたにはその奥にある欠けた部分が見えてしまうんでしょう?」
その瞬間、彼女の言葉は美樹の心に鋭く突き刺さった。形の中に完璧を求めながらも、その完璧さが彼の理想にそぐわないことを理解していた。完璧とは、すなわち死を意味する。彼が求めるのは、生命を宿した形、すなわち「未完の美」だった。
その夜、美樹は創作に対する信念がどこか揺らいでいることを感じ取った。沙織の存在が彼にとって、これまでにないほど強烈な影響を及ぼしていることを認めざるを得なかった。しかし、それが何を意味するのか、まだ自分自身でも理解できなかった。
美樹は再び彫刻に向き合い、沙織の姿を形にしようと彫刻刀を握った。しかし、彼の手は微かに震え、刃先が滑ることが何度もあった。その動きは、彼の心が迷っていることを如実に表していた。
(沙織……君は、僕の理想を壊そうとしているのかもしれない。)
作業を進める中で彼女に対する感情が彼の中で次第に膨れ上がり、それをどうすることもできない自分に苛立ちを覚えていた。
その後の日々、彼と沙織の関係はますます複雑なものへと変わっていった。美樹は彼女に惹かれながらも、同時に彼女から逃れたいという衝動に駆られるようになった。彼女が彼にとって、創作における最大のインスピレーションであると同時に、最大の脅威でもあることを理解していたからだ。
ある夜、耐え切れなくなった美樹は、ついに感情を爆発させた。
「沙織、君は僕を壊そうとしているのか? それとも、僕を救おうとしているのか?」
彼の声は震え、これまでにないほどの激しい感情がこもっていた。彼は自らの弱さを認めたくないがために、彼女に問いかけるしかなかったのだ。
沙織は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに静かに答えた。
「美樹さん、私はあなたを壊したいわけじゃない。でも、あなたが自分自身を壊しているのを見るのは辛いの……だから、どうにかしてあなたを救いたいのよ。」
彼女の言葉には、深い愛情と切なさが溢れていた。彼女は美樹を救いたいと心から願いながらも、彼の美学に対する理解と尊重を持ち続けていた。それが、彼女が美樹のそばに留まる理由だった。
美樹は彼女の言葉に何も答えられなかった。彼の心の中には、言葉にできない感情が渦巻いていたが、それをどう表現すべきか分からなかった。ただ、彼の目には熱い涙が滲んでいた。
美樹はアトリエに閉じこもり、再び彫刻に向き合った。沙織の存在が彼の創作に与えた影響を無視することはもはや不可能だった。彼女が持つ儚さと美しさが、彼にとって何よりも貴重なものになりつつあったのだ。
「この形が完成してしまったら、それはもはや「美しいもの」ではなくなる……」
美樹はそう独り言ち、彫刻を見つめた。その目には激しい葛藤が渦巻いていた。完成を拒絶するために、彼はあえて手を止めることさえ考えたが、それでは作品が「生まれかけている瞬間」を永遠に失ってしまうと感じていた。未完であり続けることと、形を与えること、その二つの狭間で揺れ動く彼の精神は、次第に消耗していった。
ある日、アトリエでの作業が一区切りついた後、沙織はふと美樹に向かって言った。
「私、最近夢を見るの。自分が彫刻の中に閉じ込められてしまう夢……。その中で、私は動けなくなって、ただ静かに朽ち果てていくの。」
彼女の言葉には淡い不安が漂っていた。その夢は、彼女が無意識に感じ取っている不安の反映であり、彼女自身がこの作品とどのように関わっているのかを象徴していた。
美樹は彼女の言葉を受け止め、静かに彼女を見つめた。彼女の存在を「作品の一部」として捉えながらも、彼女の抱く不安や儚さが作品に生命を与えていると感じていた。それ故に、彼は彼女の言葉を無視することができなかった。
「君の中にあるその不安が、この作品を支えているんだ。だからこそ、僕はこの形を完全にはしたくない。未完であることで、君の中に宿るその美しさを永遠に残したいんだ。」
沙織はその言葉を聞き、静かに頷いたが、その目には不安が色濃く残っていた。彼女は自らが彼の作品の一部となり、同時に彼を壊しつつあることを感じていた。しかし、彼女自身もまたその関係から逃れることができずにいた。
美樹の中で、次第に彼女の存在が彼の創作の中心に据えられるようになり、彼の理想と現実との矛盾がますます鮮明になっていった。彼は自らの美学を守りながらも、同時に彼女との関係がその美学を壊していくことを恐れていた。そしてその恐れが、彼の手をさらに震わせ、創作の行程を一層困難なものにしていった。
次第に、彼は自らの限界を感じるようになり、作品の完成を避けるために手を止めることが増えていった。しかし、彼が手を止めるたびに、彼女の姿が彫刻の中で固まりつつあるように感じられ、その感覚が彼を苛んだ。
(僕は何をしているんだ……?)
美樹は自問しながらも、その答えを見つけられないまま、ただ彷徨い続けるしかなかった。そして、その彷徨の中で、彼の心はますます追い詰められていった。
大樹の花 K @myalgo0920room
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