第二章

美樹の生活は、ひたすら作品に向き合う孤独な時間で埋め尽くされていた。彼のアトリエはまるで時が止まったかのように静まり返り、その空間には美樹の内面が反映されたような冷たさが漂っていた。彼の中で、未完の美を追求することがすべてであり、それ以外のことは意味を持たなかった。


そんなある日、真理子が再びアトリエを訪れた。彼女は以前とは違う何かを秘めた表情をしていた。その目にはこれまでの迷いや不安が薄れ、決意に満ちた強い意志が宿っていた。美樹はその変化を感じ取りながらも、いつもと変わらぬ無関心な態度で彼女を迎え入れた。


「美樹、少し話があるの。」

「話とは?」


美樹は短く返答し、再び彫刻に視線を戻した。彼にとって、彼女の言葉よりも重要なのは目の前にある形だった。もちろん彼の理想からは遠いものであったのはいうまでもない。


「あなたが、どこまでこの生き方を続けるつもりなのか、私には分からないわ。だけど、このままだと、あなた自身が壊れてしまうんじゃないかと……私はそう感じるの。」


彼女の声は真剣でありながらも、どこか哀れさを帯びていた。彼が追い求める美が、彼自身を破壊していることを、彼女は理解していたのだ。美樹はその言葉に耳を傾けながらも、自分の信念が揺らぐことはなかった。


「僕が壊れることに何の意味がある? 大事なのは、形がどうあるか、それだけだ。」


美樹は冷たく答えた。彼の言葉には、彼自身が抱える矛盾や葛藤が巧みに隠されていた。彼が追い求める美は、常に未完であり、完成という概念を拒絶するものであった。しかし、その過程に殉じることが彼にとって最大の目的だった。だからこそ、彼自身が壊れようとも、それは些末な問題に過ぎなかった。


「でも、美樹、あなた自身がその形を創るための存在なのよ。あなたが壊れたら、その形も意味を失ってしまうんじゃないかしら。」


真理子は必死に言葉を繋ぎ、美樹を説得しようとした。彼女の心の中には、彼を救いたいという思いと、彼の理想を尊重したいという二つの感情が交錯していた。彼女の言葉には単なる愛情だけでなく、彼に対する深い共感も含まれていた。


美樹はしばらく無言のまま彼女の言葉を受け止め、その瞳には一瞬だけ感情の色が浮かんだ。しかしすぐに冷たく澄んだ光へと戻り、静かに答えた。


「僕にとって重要なのは、僕自身じゃない。形が生き続けるかどうか、それだけだ。それが僕の生き様だ。何度いえばわかる。」


アトリエの空気が凍てつくような静寂に包まれる中、真理子は美樹の背後にそっと立った。彼女の手が、無意識のうちに彼の肩に触れた瞬間、彼の身体がわずかに硬直したのを感じた。彼女はその反応に、自分の行動がどれほど無力であるかを痛感しながらも、その感触を離さなかった。


「美樹……お願い。もう少しだけ、私を見て。」


真理子の声はかすれ、感情の渦に飲み込まれそうになっていた。

美樹は彼女を振り返り、その冷たい瞳が彼女の心の奥底を見透かすように射抜いた。その目に映るのは、彼女ではなく、彼の理想であった。真理子はその瞳の奥虚無を見つけた。それが彼女の胸に疼く痛みとなって突き刺さった。


美樹は無言のまま、彼女の手を掴み、自らの胸に引き寄せた。その手の冷たさが、真理子の身体を震わせたが、彼女はその震えを抑え、彼の求めに応じるように、彼に身を委ねた。


二人は言葉を交わすことなく、ただ本能のままに互いの身体を貪りあった。美樹の動きはあまりにも冷徹で、まるで彼女の身体を彫り進めるかのように精緻で無慈悲だった。その手が彼女の肌をなぞるたび、真理子は彼の内に潜む破壊的な欲望を感じ取った。それでも彼女は、その冷たい抱擁の中で、彼の愛を信じようとしていた。彼の腕の中で感じる痛みと共にある限り、彼女は彼を感じていられる。


真理子は、美樹の冷たい唇が自分の唇に触れるたびにその痛みが心に染み込んでいくのを感じた。彼の舌が彼女の口内を探索するように動くたび、彼女の心は壊れていった。美樹にとって、これは愛ではなく、ただの行為だった。その行為が彼の心のどこかを埋めるための手段でしかないことを、彼女は痛いほど理解していた。


彼女の涙が頬を伝い、シーツに滲んでいく。だがその涙さえも、彼には見えない。彼が感じるのは、ただ冷たく、硬い「形」だけ。真理子の温もりや感情は、彼にとって無意味なノイズに過ぎなかった。


彼の手が彼女の身体を支配しようとするかのように、その動きは次第に激しさを増していく。真理子は彼の冷酷な愛撫に身を任せながらも、心の中で叫び続けた。「私を見て」と。しかし彼に届くことはない。彼女が感じるのは、彼が自らを破壊しながらもその美しさを信じている姿だった。


彼は最後の動きを終え、二人は静かに横たわった。その静寂の中で、真理子は自分が完全に空虚になったことを感じた。彼の腕の中で、彼女の心は完全に砕け散っていた。彼女はただ彼のそばにいることでしか、自分の存在を感じられないほどに、彼の影響下にあった。


美樹は何も言わずに真理子を抱きしめ、その冷たい感触が二人の間に広がった。彼にとって、彼女の存在はもはや作品の一部であり、それ以上の意味を持たなかった。


彼女は目を閉じ、その冷たい夜の中で、彼の胸に顔を埋めた。その感触が、まるで石像のように硬く冷たいことに気づきながらも。それが彼女が彼のそばにいるための唯一の「形」だったから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る