大樹の花
K
第一章
冷ややかな冬の光が窓辺に置かれた彫刻にかすかに反射している。白く無機質な大理石の表面は手を触れれば氷のような感触を返すだろう。美樹(みき)は、その彫刻に視線を落とし息を殺して眺め続けた。その眼差しには、鋭さとともにどこか虚ろな色が浮かんでいた。
「……これではない。」
静かに呟くと、美樹は手に持っていた彫刻刀を机に置いた。その動作は緩慢でありながらも儀式のような厳かさを帯びていた。彼にとって、この行為は単なる作業ではなく自らに課した試練の一部だった。作品に対する愛着ではなく、むしろ自己との対話が彼の中に存在していた。
その時、アトリエのドアが静かに開かれた。入ってきたのは恋人である真理子(まりこ)だった。彼女はベージュのコートに身を包み少し冷えた手を擦りながら、彼女は美樹の元へと歩み寄った。
「またその作品を見つめているのね。」
彼女の声は穏やかで、どこか寂しさを含んでいた。
美樹は答えずただ彫刻をじっと見つめ続けた。真理子はその様子を見つめ、しばらくの沈黙の後静かに問いかけた。
「美樹、いつまでその理想に縛られるつもりなの? 結果がどうであれ、あなたがここまでやってきたことひとつひとつに意味があると思うわ。」
美樹はその言葉に反応を示さなかった。彼の中では、真理子の言葉は理解できても、受け入れがたいものだった。
「結果に意味はない。意味があるのは、この瞬間だ。」
彼は彫刻に視線を戻しながら冷淡に答えた。
真理子はその答えにわずかに眉をひそめた。彼の言葉が自分の心を納得させないことは、静かに言葉を続けた。
「でもあなたがそこまで自分を追い詰めて、何が得られるの? 完璧を求めすぎて、自分自身を失ってしまうんじゃないかって、私は心配なの。」
彼女の声には、心からの不安と愛情が込められていた。美樹はその言葉に一瞬だけ動揺したが、すぐに冷静さを取り戻した。
「僕は、完璧を求めているわけじゃない。むしろ、完璧を避けているんだ。完成という言葉が、僕にとっては侮辱に等しいものなんだ。」
真理子は彼の言葉を受け止め、静かに彼の目を見つめた。その眼差しには、彼を理解しようとする必死さが滲んでいた。
「美樹、あなたが言う完成への過程、未完の美しさは、確かに素晴らしいわ。でももしその追求があなた自身を壊してしまったら、何の意味があるの? あなたの理想を理解したいけど、あなたがこのままでは壊れてしまうんじゃないかと、私は怖いの。」
美樹はその言葉に一瞬だけ口を閉ざし、やがて静かに言った。
「壊れることに意味がないわけじゃない。むしろ壊れることでしか見えないものがあるかもしれないんだ。言っただろう、僕が求めているのはその過程における一瞬の瞬間なんだよ。」
真理子は彼の言葉に、深い悲しみを覚えた。彼女は美樹を理解し、支えたいと思っていたが、彼の理想があまりにも深く彼女の手が届かないところにあることを痛感していた。
「美樹、私はあなたを愛している。でも、その愛が時に無力であることが、こんなに辛いなんて……」
彼女の声は震えていた。
美樹は彼女の言葉を聞き、彼女に向き直った。その表情は無感情でありながらも、どこか疲れたように見えた。
「真理子、君には分からないだろう。美というものは、常に消えゆくものであり、その儚さこそが真の価値だ。もしもこの作品が完成し、完全な形を得た瞬間、それは単なる『結果』として死んでしまう。だからこそ、未完であり続けることが最も美しいんだよ。」
真理子はその言葉に、何も言えずにただ彼を見つめることしかできなかった。彼女が感じる温かさや愛情は、彼の中では既に捨て去られたものだったのかもしれない。それでも、彼女は彼を見放すことはできなかった。
「……もう少し、ここにいてもいいかしら。」
真理子は静かに椅子に腰掛け、彼の創作を見守るようにして時間を過ごした。しかし、その時間は彼女にとって、決して穏やかなものではなかった。彼女が目にするのは、美樹の心が次第に閉ざされ、孤立していく過程そのものだったからだ。
時間はゆっくりと流れていた。部屋を満たすのはただ静寂と、時折、真理子が無意識に吐き出すため息の音だけだった。美樹は再び彫刻刀を手に取り、大理石の冷たさを指先で確かめるように軽く撫でた。その手つきは、まるで生きた肌に触れるかのように繊細だった。
「美樹、こんなふうにずっと一人で作品に向き合っていて、寂しくはないの?」
真理子の問いかけは、彼にとってありふれたものだった。しかし、その問いの中には、彼女自身が抱く孤独感が滲んでいた。美樹は、彫刻に集中したまま答えた。
「寂しいかどうかは問題じゃない。感情は邪魔になる。芸術が真に到達すべき場所に、僕の感情など必要ないんだ。」
その冷徹な言葉に、真理子は僅かに眉を寄せた。彼が感情を切り捨てるようになったのは、いつからだろうか。かつて、彼が情熱に燃えながら作品を語っていた頃が確かにあった。だが今、その情熱は冷え固まり、氷のように冷たい「美」へと変質してしまったのだ。
「でも、それではあなたは一人よ。感情がなくては他人とのつながりを感じられない。あなた自身の温かさも残らない。作品だけを残して、あなた自身はどこへ行ってしまうの?」
彼女の声にはかすかな悲しみが滲んでいた。彼の美学が彼自身を崩壊させるのではないかという恐れが常に彼女の心の中にあった。しかし、美樹にとってその問いは意味を持たなかった。彼の目的は「自分を残す」ことではなく、「瞬間の美」を形にすることでありそれに殉じることこそが彼の望みだったのだ。
「真理子、君には分からないだろう。美というものは、常に消えゆくものであり、その儚さこそが真の価値だ。もしもこの作品が完成し、完全な形を得た瞬間、それは単なる『結果』として死んでしまう。だからこそ、未完であり続けることが最も美しいのだよ。」
彼の言葉には鋭さがあり、まるで真理子の感情を切り裂くようだった。彼女は何も言えず、ただ彼を見つめることしかできなかった。彼女がかつて感じた温かさや愛情は、彼の中では既に捨て去られたものだったのかもしれない。それでも、彼女は彼を見放すことはできなかった。彼の理想を理解しようとすることで、彼女自身が彼に寄り添い続ける術を見出そうとしていたのだ。
その時、美樹はふと手を止め、彫刻から目を離した。彼は真理子の方へ振り返り、まるで今初めて彼女がそこにいることに気づいたかのような目をしていた。
「ところで、君がまだここにいる理由はなんだい?」
「……ただ、あなたを見ていたいのよ。」
彼女はそう答えるしかなかった。彼女の中で揺れ動く感情の全てを、その一言に込めることしかできなかったのだ。
美樹はその答えを受け取ったが、何の感慨も見せず、再び作品に向き直った。彼にとって重要なのは、目の前の大理石に秘められた形そのものであり、それを如何にして引き出すかという問題だけだった。彼は、人間の感情や繋がりが、その「美」に対して無意味であると確信していた。むしろ、感情こそが純粋な形を汚し、作品を「不純」なものに堕とすものだと考えていた。
二人の間には再び沈黙が訪れた。真理子は、美樹が一心不乱に彫刻を削り続ける姿を見守りながら、次第に自分がこの場にいること自体が無意味なのではないかという感覚に囚われていった。それでも、彼女はその場を離れることができない。彼の中に潜む何か――冷たくも、同時に燃えさかる炎のような執念に、彼女は引き寄せられていたのだ。
アトリエを去ろうとする真理子は、一度足を止め、美樹に振り返った。彼女の目には涙が浮かんでおり、その瞳の奥に深い悲しみと未練が滲んでいた。
「あなたがここまで自分を追い詰めている姿を見るのは、本当に辛いの。でも、私はあなたを愛しているから……」
真理子の声は震えており、彼女が心の奥底で抱えている苦しみが痛々しく伝わってきた。彼女の手は僅かに震え、その手が美樹に伸びる瞬間、彼女は自分を抑えるようにぎゅっと握りしめた。
「だけどあなたがその一瞬から離れずに私を見てくれないのなら……私はこれ以上、どうすればいいのか分からない。私の愛が、あなたにとって何の意味も持たないのだとしたら、私はいったい何のためにここにいるの?」
彼女の言葉は、まるで切実な叫びのようであり、胸の奥から絞り出される苦しみそのものだった。しかし、美樹は答えられなかった。ただ、冷たい沈黙が二人の間に漂っていた。
真理子はその沈黙を受け入れるように目を閉じ、そしてゆっくりと扉を閉めた。その音が静かに響き、彼女の心の扉も同時に閉ざされていくようだった。
その夜、真理子が去った後も、美樹は彫刻の前に座り続けていた。彼はその形をじっと見つめ、未だに満足できない部分を探りながら、何度も手を動かした。しかし、彼の心の中には、どこか満たされない空虚さが渦巻いていた。理想を追い求めるがゆえに、その理想は永遠に手の届かない場所にあり続ける。美樹にとって、その「未完」であることこそが最高の美学であり、同時に最大の呪縛でもあった。
外の街灯が窓を通して薄ぼんやりと差し込む中、美樹はふと彫刻刀を置いた。彼は立ち上がり、彫刻から距離を取り、その全体像を改めて眺めた。その姿勢には、まるで狩人が獲物を狙うかのような緊張感があった。彼にとって、この作品は単なる彫刻ではない。それは彼の生命そのものであり、そのすべてを賭けて創り上げるべき瞬間の美の具現化であった。
だが、その美は未だ彼の手に収まりきらない。何度も手を加えながらも、どこかに不完全さが残る。それこそが彼を狂わせる要因でもあった。完璧を求める彼の眼差しは、逆説的に完璧そのものを拒絶し、常に「未完」であり続けることを要求する。美樹はその矛盾に囚われていることを理解していたが、それでもその矛盾こそが自分の存在理由であると確信していた。
彼はその夜、眠ることなく作品に向き合い続けた。夜が更け、やがて東の空が微かに明るみ始める頃、彼はようやく疲労に押し流されるようにして椅子に身を預けた。瞼が重くなる中、彼の頭の中には、また別の形がぼんやりと浮かび上がっていた。それは彼が今まで求めていたものとは異なる、新たな美の概念だった。
「もし……これが全て、無駄な行為だとしたら?」
ふと、そんな考えが脳裏をよぎった。しかし、その考えはすぐに霧散した。無駄かどうか、それもまた問題ではない。彼にとって大切なのはその無駄な行為にすら美が宿るという信念だった。たとえそれが誰にも理解されなくとも、たとえ自分の心身を破壊することになろうとも、彼にとってはそれこそが唯一の価値だったのだ。
彼が自らの美学に殉じるその姿はどこか儚くも哀れに見えた。
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