【Another Side】シャーロット、宿屋で働く①
マリアが王都で学園に通い始めた、その日。
辺境の港町タナトスの『宿ふくろう亭』の2階にある小さな部屋で
宿屋の看板娘のマリア――の中に入っているシャーロットが目を覚ました。
起き上がって周囲を見回して、公爵邸に戻っていないことに、ホッと胸を撫で下ろす。
そして、続いて襲ってきた強い罪悪感に、彼女は膝を抱えて目を潤ませた。
(戻っていないことに安堵するなんて、わたくし、最低だわ)
そして、手の甲で涙をぬぐうと、マリアの記憶を頼りに身支度を始めた。
ベッドの横に置いてあるポットの水をタライに注ぎ、タオルに浸して体を拭くと、質素なワンピースを着る。
そして、紺色の髪の毛を束ね、底が少し薄くなっている靴を履くと、不安で高鳴る胸を押さえながら、ゆっくりと息を吐いた
(全部わたくしが引き起こしてしまったことなのよ、がんばらなければ)
*
体が入れ替わる数日前から、シャーロットはもう限界だった。
日中は、学園の勉強と生徒会の活動に加え、ダニエル王子から押し付けられた王宮の仕事で忙殺される日々。
疲れ切って帰ってきても、待っているのは粗末な食事と汚れた部屋。
義母は常に嫌味を言い、ダニエル王子は、婚約者のシャーロットをよそに、義妹イリーナに夢中。
父と兄は滅多に帰ってこず、父に至っては義母の嘘を全面的に信じ、目を合わせようともしてくれない。
使用人たちからの嫌がらせも酷く、味方であるララも遠ざけられ、彼女は本当に独りぼっちだった。
(疲れたわ……、こんな毎日、いつまで続くのかしら)
だから、義母と義妹から「ダニエル殿下から」だという、明らかに何か異物が入っている菓子を無理矢理食べさせられて倒れた時、彼女は絶望した。
もう生きている意味などない、死にたいと。
黄泉の国には、母がいる。
誰よりも厳しく、シャーロットを王妃にすることに執念を燃やしていた母のことだ。
きっと、生きていた頃よくされていたように、叱咤されて鞭で打たれるだろうが、死を望まれる今よりはマシに違いない。
そして、黄泉の川で、マリアという女性と揉み合いになり、
気が付くと、知らない小さな部屋のベッドで寝ていた。
「マリア! あんた、気が付いたんだね!」
「マリア、本当に良かった!」
「おねえちゃん! おねえちゃん!」
涙で顔がぐちゃぐちゃになった見知らぬ3人に縋りつかれ、彼女は混乱した。
そして、鏡で自分の姿を見て、それがあの黄泉の川で会ったマリアという女性で、自分たちが入れ替わったことが分かり、
泣きながら喜ぶ彼らに対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんなさい、わたくしはマリアさんじゃないのです」
とても信じられない話だろうに、彼らはショックを受けながらも、シャーロットの言葉を信じてくれた。
彼女を気遣い、まずはゆっくり休めと、甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
優しい表情と言葉に、美味しくて心のこもった料理。
ときどき「これおみまい、はやくよくなってね!」と愛らしい小さな花を持ってきてくれる小さくて可愛らしいコレット。
(ああ、なんて優しくて温かいところなのかしら)
優しい彼らに感謝しつつ、自分がこの環境にいることに罪悪感を覚える。
マリアという女性は、今ごろ自分の体に入って、辛い思いをしているに違いない。
義母はずる賢いから、倒れてからすぐに何かするようなことはないだろうし、さすがに父親も動くとは思うが、大変なことには変わりない。
早く元に戻らなければ。
(……どうやって戻るか考えなければ)
そして、何か手掛かりはないかと、マリアの記憶を探り、シャーロットは大変なことを知ってしまった。
(この宿は、マリアさんがいないと回らないのだわ)
これから宿泊客が増える時期で、主人のディックは料理の仕込みや買い出しで大忙しだし、おかみさんのサラは足を痛めているし、コレットも5歳とまだ小さい。
中心で働くマリアがいない今、この宿は窮地に陥っているに違いなかった。
(わたくしが何とかしなければ)
宿屋の仕事などしたことがないが、そんなことを言っている場合ではない。
何としてでも働かなければ。
という訳で、マリアの記憶を徹底的に探って、何をしているかを把握し、
いつもマリアが起きている時間に起きて、身支度を済ませた、という次第だ。
(さあ、がんばりましょう)
シャーロットは、意を決して部屋から出た。
緊張しながら、薄暗い階段をゆっくりと下に降りていく。
そして、1階にあるシンと静まり返った食堂を通り抜けると、明るい光が漏れ出ている厨房に入った。
厨房では、ランプの光の下、後ろ向きの宿屋の主人ディックが、包丁で何かを切っている。
シャーロットは軽く深呼吸すると、なるべく明るい声で挨拶した。
「おはようございます。ディックさん」
「おう、おはよう。ずいぶん早いな」
まだ疲れているんじゃないか、と心配そうに言うディックに、シャーロットは笑顔を向けた。
「ありがとうございます。でも、もう十分休ませて頂いたので、お手伝いさせて頂ければと」
「おう、ありがとうな。ただ、お手伝いと言ってもな……」
嬉しそうな、でも困った顔をするディックに、シャーロットが微笑んだ。
「大丈夫ですわ。マリアさんの記憶がありますから、多分大抵のことは出来ると思います」
「……じゃあ、このジャガイモを剥いてもらえるか」
ディックが包丁で差した先にあるのは、籠に入った茶色いジャガイモ。
シャーロットは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
(これが生のじゃがいもなのね)
絵で見たことがあるし、食べたこともあるが、触るのは初めてだ。
果たして自分にできるか不安になるが、思い切って、体が動くままに任せると、
そばにあったナイフを右手に持って、左手に持ったじゃがいもを器用に剥き始めた。
(すごいわ、マリアさん)
ディックが、感心したような声を出した。
「ほう、すごいな。確かに、その手付きはマリアのものだ」
「ええ、大丈夫そうです。これが終わった後はどうしますか?」
「そうだな……。疲れていないようなら、そこのニンジンも頼めるか」
「はい」
そして、じゃがいもとニンジンの皮をむいて、小さく切って
玉ねぎと一緒に炒めて煮ることしばし、寸胴鍋にいっぱいのスープが出来上がった。
美味しそうな香りに、シャーロットは幸せな気分になった。
ディック曰く、今朝の朝食は、このスープとパンらしい。
シャーロットが、使い終わったまな板を洗っていると、
サラが厨房に入ってきて、目を丸くした。
「あら、あんた、大丈夫なのかい」
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