5.マリア、引っ越しをする

 

 晩餐会の翌日。

 木々の若葉が太陽の光を浴びてキラキラと輝いている、春らしい午後。


 公爵邸の玄関前に、1台の二頭立ての立派な馬車が停まっていた。


 馬車の前には、マリアとララが立っており、

 それを見送るように笑顔の兄クリストファー、

 その後ろに、20人ほどの真っ青な顔をした使用人たちが並んでいる。


 クリストファーがにこやかに口を開いた。



「じゃあ、気を付けて。何かあったら私にすぐに言うように。大変なようだったら、いつ帰ってきてもいいからね」

「……ありがとうございます。お兄様」



 マリアは、張り付けたような笑みを浮かべてお辞儀をすると、馬車に乗り込んだ。

 続いてララが乗り込み、御者がドアを閉める。


 ヒヒーンという馬の嘶きと共に馬車が動き出し、

 彼女は大きなため息をついた。



(はー、疲れた)



 そして、遠ざかる兄と公爵邸を、キッと睨みつけると、

 心の中で思い切り、あっかんべーをした。



(誰があんたなんかに! ここにはもう絶対に来ない!)



 脳裏に浮かぶのは、昨晩から今朝にかけての出来事だ。




 *




 父親と、真っ青な顔をした義母とイリーナが部屋を出て行った後。

 兄クリストファーが、家中の使用人たち約20人を呼び出した。


 そして、シャーロットに嫌がらせをしていなかった、ララともう1人――台所見習いの娘を除く全員を廊下に並ばせると、怯える彼らに向かって、にっこりと微笑んだ



「さて、残念だけど、君たちが結託してシャーロットに酷い仕打ちをしたことは父上にバレてしまった。頼りの義母上も今呼び出されているし、イリーナも1カ月謹慎を言い渡されている。――さて、君たちはどうなるだろうね?」



 メイド服を着た中年の女性が、必死の形相で叫んだ。



「ま、待ってください! 私共は奥様の命令に従っただけです!」

「そ、その通りです! お嬢様が嫌がることをせよとの命令を受けて、仕方なく……」

「シャーロット様! 申し訳ありません!」

「わ、私も、決して望んでやった訳では……」



 必死にすり寄る使用人たちに、

 マリアは、心の底から呆れかえった。

 あんなに楽しそうに嫌がらせしていたクセに、今更何を言っているのか。



「……全員地獄に落ちろだわ」



 思わず地が出たマリアの言葉を聞いて、兄が楽しそうに笑い出した。



「ははっ、さすがのシャーロットもお怒りだね」



 そして、一転。

 彼は顔から笑みを消して、すっと目を細めると、冷めた目で従業員たちを見据えた。



「でだ。冗談はこれくらいにして、今後のことを話そうか。――君たちがこれからどうすればいいか、分かるよね?」



 その後、彼は夜を徹して使用人たちを働かせ、

 翌朝には引っ越しの準備を全て済ませてしまった。


 朝食を兄と2人で食べながら、引っ越し先の掃除まで終わっていると聞き、マリアは驚いた。

 使用人たちは寝ていないんじゃないかと問うと、彼はケロリとして言った。



「私は寝てしまったから分からないが、そうかもしれないね。うちの使用人たちは働き者で助かるよ」



 爽やかに笑う兄を見て、この人ちょっと怖いと思い始めるマリア。


 そんなことを思われているとは露知らず、

 その後も、従業員たちへの罰や、義母とイリーナに対する罰について、にこやかに話をするクリストファー。


 そして、兄が話し終わると、マリアは気になっていたことを尋ねた。



「……お兄様は、もしかして私が不当な扱いを受けていることに、気が付いていたのではありませんか?」



 昨日の夜からの目端の利く言動を見て、

 どうしても気が付かないほど鈍い男性に思えない、と思ったが故の質問だ。


 彼はその質問に、あっさりうなずいた。



「ああ、もちろんだよ。気が付かないハズがないじゃないか」

「……ではなぜ……」

「ああ、なぜ今まで何も言わなかったかってことかい?」



 コクリとうなずくマリアに、クリストファーが涼しい顔で言った。



「これくらいで潰れるようじゃ、これからやっていけないだろう? それに、君を助けるメリットがないじゃないか」



 マリアは呆気にとられた。

 妹が困っているのを助けるのに、メリットがない、などと言い出す彼が全く理解できない。

 ちなみに、今回助けたのは、面白そうだと思ったかららしい。



「あとは、恩を売る価値があると思ったからかな。やられっぱなしの妹に価値はないけど、あれだけ言えれば、何かの役に立ちそうだ」

「……このろくでなしが」

「え? 今何か言った?」

「い、いいえ、何でもありませんわ、お兄様。おほほほ」



 思わず漏れた本音を、笑って誤魔化すマリア。

 心の中は罵詈雑言でいっぱいだ。


 これだけでも十分腹が立ったのだが、もっと頭にきたのが父親の態度だ。

 どう考えても、今回のいじめを引き起こした大きな原因は「父親の無関心」だ。

 それなのに、その被害者である娘に一言も声を掛けずに、いつの間にか屋敷からいなくなっていたのだ。


 マリアは憤った。

 普通は「すまなかった」の一言くらいあるだろうと。



(最低、ホントありえない。酷い人ばっかりじゃない!)



 記憶を見ていて分かったのだが、シャーロットはとても優しい娘だ。

 自分の気持ちよりも、相手の気持ちを優先させてしまう。

 きっと、この優しい性格を、この家族に付け入られてしまったのだろう。



(シャーロットもきっと辛かったでしょうね……)



 あんな酷い人たちと離れて、別邸に移ることができて本当に良かった、と胸を撫でおろす。






 そして、馬車で走ること、しばし。


 マリアは、貴族街の端の方にある、レンガ造りの2階建ての館の前に降り立った。

 窓枠は白で、屋根は茶色。絵本に出てきそうな可愛らしい家だ。



(へえ、いい感じね)



 他の館に比べると小さめだが、その分庭が広いようで、敷地の片側が林のようになっている。

 その林を挟んで隣は、広い敷地を有する大きな館で、高い木がたくさん生えて森のようになっているのが見える。



(庭に、林とか森があるなんて、よく分からない世界だわ)



 家の中に入ると、そこは、そこそこ広いエントランス。

 廊下も広すぎず長すぎず、階段も大きすぎず、良い感じだ。



(良かった、公爵邸は広すぎて、落ち着かなかったのよね)



 2階の自室に案内されると、白壁の丁度良い大きさの部屋で、シンプルで上品な家具が備え付けられている。

 クローゼットの中には、取り返したと思われるドレスが入っており、引っ越しはもう済ませてあるようだった。


 ちなみに、この館の使用人については、屋敷から連れて来たララともう1名に加えて、エイベル公爵家の別館から何人かと、元からいた門番に加え、護衛が何人か来る予定らしい。



(1人暮らしに使用人が10人近く付くなんて、本当に別世界だわ)



 窓の外に広がる林をながめながら、マリアは思案に暮れた。



(とりあえずは引っ越せたけど、これからどうするかよね)



「シャーロットを守る」という目標は、この引っ越しによって、ある程度達成できたように思う。

 ここで暮らしていければ、義母と義妹に悩まされることもなく、穏やかに暮らしていけるだろう。



(となると、今後の目標は、バレないようにシャーロットのフリをしながら、戻る方法を探ることね。それと、元に戻った時にシャーロットが困ったことにならないように気を付けないと)



 昨晩の時点で、もうすでに色々やらかした感はあるが、

 ここからは、シャーロットらしく、穏やかに暮らしていこう。


 マリアがそんなことを考えていた、そのとき。



 コンコンコン。



 ノックの音がして、ララが「失礼します」と扉を開けて入ってきた。



「お嬢様、クリストファー様からお手紙です」

「……ありがとう」



 今朝会ったばかりなのに何だろう、と思いながら、手紙とペーパーナイフを受け取り、封を開ける。

 そして、中に入っている美しい字の手紙を読んで、マリアは思わず目を見開いた。



「あの、どうされました?」

「……来週から学園に行くように、と書いてあるわ」



 機械的にそう答えると、ララが「そうですね」とうなずいた。



「もう4日も休まれていますものね」



 マリアは無言になった。

 薄々思ってはいた。シャーロットは日中一体何をしているのだろうかと。

 まさか、それが学校だったとは!



(ど、どうしよう。私、学校なんて10年振りなんだけど)



 ララは大きな本棚に近づくと、真ん中の段を指差した。



「教科書はこちらにしまってあります」

「教科書」

「はい!」

「……ありがとう」



 そのうち1冊を手にとってパラパラとめくり、マリアは顔を引きつらせた。

 それは、知っている教科書とは全く違う、見たことない図や細かい文字がびっしり書いてある難解なものだった。



(こ、これは、大変なことになったわ……)



 とりあえず状況確認をしなければと、マリアは何とか笑顔を作った。



「……ララ、少し本を読みたいから、1人にしてくれるかしら」

「はい、分かりました! お昼の時間になりましたら、また来ますね!」




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