第1章 宿屋の看板娘、公爵令嬢と入れかわる
1.宿屋の娘マリア、クッキーを喉に詰まらせて、黄泉の川で目を覚ます
「……え、ここどこ?」
ふと気が付くと、マリアは見知らぬ場所に立っていた。
真っ白な空に、黒い太陽。
目の前には、灰色の広い川が流れており、対岸には黒い森が見える。
周囲はシンと静まり返っており、ただ川がサラサラと流れる音がするのみ。
「……な、何ここ?」
見たことのない白黒の世界を前に、彼女は混乱した。
ここがどこだか分からないし、なぜいるかも、どうやって来たかも分からない。
不安で「わー!」と叫び出したくなるのをグッと堪えて、彼女は深呼吸した。
「こ、こういう時こそ落ち着きが大事よ。と、とりあえず落ち着いて、どうしてここにいるか思い出そう」
スーハ―スーハ―と呼吸を整えながら、自分のことや、ここに来るまでのことを思い出し始める。
「ええっと、わたしの名前はマリアで、年齢は22歳。
『宿ふくろう亭』の養女で、家族はディック父さん、サラ母さん、コレット5歳の3人。
住んでいる場所は、港町タナトスの『宿ふくろう亭』の2階で、
特技は、酔っ払いの喧嘩の仲裁と料理で、ええっと、あとは…………」
そして、その日のことを思い出そうとして、マリアはビクリと肩を震わせた。
「……そうだ、わたし、クッキーを喉に詰まらせて倒れたんだ」
*
その日の朝、宿泊していた身なりの良い客が、王都で流行っているという、可愛らしい箱に入ったクッキーを置いていった。
取引先からもらったが、旅の邪魔になってしまうので、お世話になった宿のみんなに食べて欲しい、とのことだった。
マリアはとても喜んだ。
彼女の住んでいる港町タナトスは、王都から遠く離れているため、流行りものなど、なかなか手に入らない。
そして、午後の休憩時間にサラとコレットと3人で、いつも通り楽しく会話をしながら、お茶を飲んでクッキーを食べていたのだが、
「〇※△×∑■!!!」
なぜかクッキーが喉につまり、マリアは倒れてしまった。
「どうしたんだい! マリア!」
「いやー! マリアおねえちゃん!」
小さな宿屋に、2人の悲鳴がこだまする。
「な、なんだ! マリアがどうした!?」
厨房で仕込みをしていたディックが、すごい勢いで2階に駆け上がってくる。
慌てふためく3人に、何とかクッキーが喉に詰まったことを伝えようとするものの、どんどん目の前が暗くなり――、
ふと気が付いたらこの場所にいた、という次第だ。
(そうだわ、わたし、宿屋にいたんだ。それで、息ができなくなって……)
ここまで思い出し、マリアは改めて周囲を見回した。
目に入ってくるのは、非現実的な白黒の世界に、眼前を流れる灰色の川。
(…………)
彼女は、ごくりと生唾を飲み込みながら、思った。
この世のものとは思えない光景と、自分が倒れたという事実から推測するに、
もしかして、ここはあの有名な
「生死の境をさまよっている人間が辿り着く」
という『黄泉の川』なんじゃないだろうか、と。
(……うそっ!)
状況を把握し、彼女は青くなった。
ここにいるということは、自分は生きるか死ぬかの瀬戸際にいるということじゃないか!
(まずい、まずいわ! ここで死ぬわけにはいかない!)
脳裏に浮かぶのは、優しい義家族のこと。
5歳で両親を亡くした自分を、まるで実の娘のように育ててくれた恩を返せていないし、2人より先に死ぬなんて、最高の親不孝者だ。
彼女はガバッと立ち上がると、灰色の川に沿って早足で歩き始めた。
(何か、何か脱出する方法は……)
よく聞くのは、「誰かに呼ばれて目が覚めた」という話だが、いつ呼んでもらえるか分からないし、本当に呼ばれるかも分からない。
(な、何かないの、自力でなんとかできる方法!)
マリアが、河原をウロウロしながら、必死に頭を働かせていた、そのとき。
ザバザバザバッ
突然背後から、大きな水音が聞こえてきた。
(何? 何の音?)
驚いて振り返ると、一体いつ現れたのか、そこには見知らぬ少女がいた。
スカートが水浸しになるのも構わず、バシャバシャと対岸に向かって歩いている。
「え!」
マリアは目を見開いた。
黄泉の川の対岸は、死んだ人の国だと言われている。
対岸に渡ってしまったら、きっと戻ってこられなくなる!
彼女は、迷うことなくバシャンと川に入ると、水音を立てながら少女に走り寄って、その細い腕を掴んだ。
「ちょっと! あんた、そっちに行くと死んじゃうわよ!」
少女が、ビクリと肩を震わせてマリアを見る。
その顔を見て、マリアは思わず目を見開いた。
(……っ! なんて綺麗な子なのかしら)
それは、淡い空色の髪と瞳をした美しい少女だった。
年齢は十五、六歳で、冷たい印象を受けるほど、顔が整っている。
彼女はマリアを見て一瞬驚いたような顔をするものの、すぐに対岸の方に向き直って進み始めた。
マリアは、慌てて両手で少女の腕を掴んで引っ張った。
「待ちなさいって! あんた死んじゃうわよ!」
「放っておいてください! 家族に見捨てられ、婚約者には裏切られ、邪魔になったら毒を盛られる、そんな人生など生きている意味がないのです!」
少女は絞り出すように叫ぶと、細い体から考えられないような力で進み始める。
マリアは、渾身の力で少女を引っ張りながら叫んだ。
「生きている意味は絶対にあるって!」
「そんなものありませんわ! ありませんのよ! お母様のところに行かせて!」
静かに流れる黄泉の川の上で、揉み合う二人。
お互い一歩も譲らない攻防が続く。
そして、「もういい加減に諦めなさいよ!」「あなたこそ諦めてください!」というよく分からない会話をしながら、引きずったり、引きずられたりを繰り返していた、そのとき。
【シャーロット様!】
マリアの後方の空から、女性の声が聞こえてきた。
続いて前方の空から、
【マリア! マリア!】
【マリアおねえちゃん!】
という聞き慣れた声が聞こえてくる。
少女を引っ張りながら、マリアは胸を撫でおろした。
どうやら、みんなが名前を呼んでくれているらしい。
(良かった……、これで帰れる)
彼女は、何とか対岸に進もうとする少女の手を引っ張りながら叫んだ。
「シャーロットってあんたでしょ。心配して呼んでるじゃない、帰りましょう!」
そして、自分を呼ぶ声の方向に顔を向けて、「こっちよ!」と叫び返そうとした、そのとき。
(……え?)
マリアの体がふわりと浮かび上がった。
一緒にいた少女も同様で、目を白黒させながら、川の上に、ぷかりと浮いている。
そして次の瞬間。
何か見えない手のようなものが、マリアの襟首を掴んで、グイッと後方――【シャーロット様!】という声がする方向に引っ張った。
「ぐえっ」
マリアの体が、ものすごい勢いで後方に吹っ飛ぶ。
シャーロットも同様で、オロオロしながら【マリア!】と呼ばれている方角に、後ろ向きに吹っ飛ばされている。
「え!!!!!」
すごい勢いで上空に飛ばされながら、マリアは焦って手足をバタバタさせた。
「ちょ、ちょっと! 私はマリアよ! シャーロットじゃないわ!」
叫びながら必死にともがくものの、不思議な力に逆らえるはずもなく、
後ろ向きのまま、【シャーロット様!】と声のする空に、凄いスピードで吸い込まれていく。
――そして、次の瞬間。
「……ロット様! シャーロット様!」
マリアが重い瞼を開けると、
見たことのない若い女性が、泣きそうな顔で彼女の顔をのぞき込んでいた。
次の瞬間、プンと消毒薬の匂いが漂ってくる。
若い女性は、マリアが目を開けたのを見て、心から安堵した表情を浮かべた。
「先生! お嬢様が気付かれました!」
「……! そうか! それは良かった!」
頭上から、ホッとしたような年配の男性の声が降ってくる。
マリアが、ここはどこですかと尋ねようとするが、口が動かない。
起き上がろうとするものの、体に全く力が入らない。
若い女性が喜ぶ様子をボーっとながめながら、マリアはボンヤリと思った。
もしかして、これは夢なんじゃないだろうか、と。
そう考えている間に、瞼がどんどん重くなっていく。
彼女は目をつぶりながら思った。
寝て起きたら、何事もなかったように、いつもの小さな自分の部屋で目が覚めるに違いない。
もしかすると、この夢自体忘れてしまっているかもしれない。
(とりあえず、寝よう……)
ボンヤリとそんなことを考えながら、彼女は深い眠りに落ちていった。
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