第1話
太平洋の赤道近くにある、日本の九州ほどの面積を持つリークス島。リークス共和国に支配される貧困国家。共和国とは名ばかりで、一人の王が独裁を敷く国家。政情は不安定で各地で反乱が頻発している。
午前十時頃だろうか、そのリークス島の南部にあるマニ村に彼はいた。昨夜は夢現のうちにマニ村近くにたどり着いた。マニ村はずれの川の近くにぼうっと立つ獣頭人身の男。服は着ておらず、腰にボロ布が巻かれているだけ。
身長は百八十センチほどだろうか。顔はともかく、身体は鍛え上げられて腹筋も割れている。獣頭とは違い身体は完全に二十代前半の男性だ。
彼がふと川のほとりに目をやると地面にキラキラと光るものが落ちている。鏡だ。
彼は鏡を拾い上げると自分の顔を映してみる。
トラのような縞模様もヒョウのような斑点もライオンのようなたてがみも何も無い。ただネコ科とわかるだけの茶褐色の獣頭が映るだけ。
(まいったな、記憶がないだけでも困るのに)
自らの顔を見てそう思う男。昨日の夜までの記憶は一切ない。そのうえ到底普通の人間とは思えない面相である。普通に生きるにはハードルが高すぎる。にも関わらず軽く困ると考えるだけなのは性格なのだろう。
昨夜の返り血は丁寧に拭き取られていた。あの少女の仕業だろうか?
(そういや東洋には虎頭のプロレスラーがいたな……そう言う記憶はあるのか)
思考を巡らせる。黄色い肌からアジア系と察せられ、ネイティブはおそらく日本語。他に英語とスペイン語が理解できることがわかる。世界情勢については疎い。
ここがリークス島だということだけは理解している。一般教養程度の知識はあるようだが、それ以外にわかることは何もなかった。自分の名前すらわからない記憶喪失。
昨夜の出来事もまるで夢の中であったことのようにふわふわとしていて現実味がない。今日の朝起きてからやっと意識がはっきりしてくる。
(俺、人間の身体を食っちまったんだな……夢現の中だったとはいえ……)
男が目を伏せる。気を失うまでの少しの間とはいえ、人間の体を切り裂き、牙を立てて血を啜ってしまった。まるで獣が獲物をとらえるのが当たり前であるかのように。
獣頭人身とはいえ、心は人間のそれであるようだ。後悔の念とともに、しかし悪人を退治しただけという肯定感もある。あのとき、なぜだかはわからないが軍人二人を『狩っていい相手』だと認識した。理屈ではない本能がそう判断した。逆に少女に対しては手を出してはいけない存在だと感じた。
全ては理屈ではない。彼がただそう感じただけで正しい正しくないという理屈で割り切れることではない。獣頭人身であることも思考に影響を与えているのかもしれない。本当のところはわからないが。
男はゆっくりと左右に首をふると、小川に近づく。かがんで水をすくい上げるとバシャバシャと顔にかけて洗う。妙な匂いがした。どこかで嗅いだ覚えのある匂い。
すっと立ち上がると周囲を見渡す。岩や石が転がり、葦の生える川辺は見通しが悪い。少し上流方向へと歩いてみると少し開けた場所にニオイのもとがいた。
川辺で洗濯する昨日とはまた別の十歳ほどの少女と三、四歳くらいの裸の男児が一人。男児は川に向かって放尿していた。そりゃあ変な匂いがするわけだと納得する。
「ぐるるおう……」
おはよう、そう言ったつもりだった。しかし漏れたのは低い唸り声。人間とは声帯が違うのか、それとも別の理由か、人語を話すことができない。
唸り声で男に気がついた少女がハッとして男児を捕まえ、その場にうずくまる。まるで土下座だ。
「マオル・クォ様!」
少女が震えながら男のことをそう呼んだ。
「なにか粗相をしましたか、申し訳ありません……」
少女は相変わらず震えながら額を地面に擦り付けんばかりに頭を下げる。発した言葉は英語、どうやらこのあたりは英語圏のようだ。
(えぇ……俺喋ることもできないのかよ。こりゃ不便だな……)
マオル・クォと呼ばれた男は困り果てながら笑顔を作ろうと努力してみる。しかしそれは逆効果だったようだ。獣の口角が上がるということは牙がむき出しになるということ。まるで威嚇しているような顔になってしまう。
それを見て男児が泣き出してしまった。あたふたする男と、男児をぎゅっと抱きしめながら震える少女。この状況はどう打破すればいいのだろう。敵意がないことを理解してもらうにはどうすれば?
男は覚悟を決めて少女と男児の近くへと寄っていくと、男児を抱きしめる少女の腕に優しく手を置く。少女は戸惑いながらも男児を抱きしめる手を緩める。好機と見た男はさっと男児を抱えあげて肩車する。
唖然とする少女と男児。男児は泣いていたのもつかの間、いつもとは違う高所から見下ろす風景にあっけにとられる。男はその間に少女を立ち上がらせると頭をゆっくりと撫でてみせた。
(とりあえず怖がるのはやめてくれよ)
男は内心でそう祈った。数秒の間流れる沈黙。沈黙を破ったのは男児の笑い声だった。きゃっきゃと喜びながら男の頭をペチペチと叩く。さっきまで泣いていたのが嘘のようだ。それを見て安心したのか、少女も立ち上がった。かたわらには洗濯物の山。すでに洗濯自体はあらかた終わっているようだ。
男が洗濯物を片手に持ち、少女の手を取る。怯えられていたのがまるで嘘のように笑みを浮かべて手を握り返す少女。少女にはもう怯えはない。むしろ親近感を持って接しているように感じる。
男はそのまま、少女と男児を連れて村へと戻っていく。
(何者か知らないがマオル・クォとやらを名乗るのも悪くないか)
男は軽々しくもそう考えていた。
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