第37話「白昼夢の蜘蛛百合園」
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幕間/回想・サカサヒガン
——頭から血を流して、動かなくなってしまった白咲彼岸を、幼い俺は引き摺っている。
抱き抱える筋力などまだないために、どうにか引き摺って、霧に包まれた山——そこからの出口を探している。
最早活路などなく、希望も見つからず、だが幼い俺にとって、世界は未だ未知に溢れかえっており——結果としてそんな絶望すら知らず——だからこそ俺は、白咲彼岸をまだ助けられると、助けられるのだろうと——そう思って歩いていた。
そんな時。
「——おい、人間。お前たち、迷子か?」
女の人の声がして、その声の方を見ると、濃霧から垣間見える巨大な穴——トンネルが静かに、そして厳かに聳えていた。
トンネルに聳えているという表現が適切かは議論の余地があるだろうが、いずれにせよ、そのトンネルの巨大さはどちらかといえば天然の巨大洞窟のそれであったため、今でもあれは聳えているという表現で良いのではないかと、そう思えてならない。
「——おい、そこの小僧。お前に聞いておるのだ。アタシの言っていること、わからんか?」
俺は何が何やらさっぱりだったが、とりあえず会話ができる存在と出会ったことだけは間違いなかったので、首を縦に振った。
「うん、それなら良い。……しかし普通この山には来れんはずなんだが、アタシへの封印が弱まったらしいな。経年劣化様々——と言いたいところだが、相変わらずアタシはこの【芸都トンネル】からは出られん。がしかし、お前らから入ってくることは可能だ。
——そこで、だ。一つ取引をしよう。
お前たちが山から出るために、アタシを解放してくれんか?」
——今思えばこれは、サカサヒガンが封印を踏み倒す為の作戦だったわけだが、当時の純真無垢な俺にそのような策が読み取れるはずもなく、そしてこれで白咲の傷も癒えるであろうと信じきっており、つまりまだ彼女が死んでしまったと理解しておらず、
——結果的に、これがサカサヒガンにとっても想定外であった。
幕間、おわり。
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——ゲンスケさんがエリカさん、否、シュテン=ハーゲンと戦っている最中。
俺は——根源坂開登は、白咲邸へと足を踏み入れていた。
玄関の扉を開ける際、魔力を通して入らなければ呑まれる、そういった状況——そうだ、これは他でもなく、それ以外の何物でもなく、嘘偽りなく——白咲邸は、
——サカサヒガンの、ダンジョンであった。
それは【芸都トンネル】とは違う。あれはおそらく、サカサヒガンが万全であった場合の浸蝕結界であり、今の——最早術式しか残留していないに等しい状況で展開できる規模の結界ではない。サカサヒガンが滅びた今でさえ、崩落しつつも現存する巨大な洞窟型ダンジョン——あの規模の浸蝕結界ではもちろんない。
そのダンジョンは、白咲彼岸の日常を滞りなく廻す為の浸蝕結界。
「——あら根源坂くん。こんな夜分に何か用事? 私だから許すようなものなんだけれど、普通ノックもなしに夜遅く、しかももう寝ようとしている人のところに押しかけるものじゃないと思うの。一体どういうつもりなのかしら。私に一体何をしようと言うのかしら。果たして私はこれから何をされてしまうのかしら。ああ恐ろしい、恐ろしいわ、根源坂くんが私に対してどういう腹づもりでやってきたのか、そこが恐ろしいわ、恐怖だわ」
「いやそのなんだ、いつも通りでホッとしたよ」
——それは、白咲彼岸の現実への認識を平穏なものとして認識させる結界。
彼女が、そして結界に無防備で入った生命が感じる不穏を平穏に反転させる結界。
名を——
——【
彼女の肉体に刻まれたサカサヒガンの術式が、彼女を日常へ帰すために起動させた結界。
蘇生した彼女を、滞りなく生活させる為の術式及び結界。
普段は彼女の体内で眠り、そして白咲邸内部で結界として顕現する、サカサヒガンの残り火。
それが彼女の精神と記憶を守り、そして同時に、彼女に、隣家のシュテン=ハーゲンという危険を認知させない状況をも作っている。
彼女にはもう、あの霧の夜からずっと両親もいないと言うのに、その異変すら反転している。
いないのにそれが正常であるかのような認識へと反転している。
彼女が自立して自炊にしている今はともかく、中学時代までは、何かと理由をつけて月峰邸で食事を取ってもらっていたわけだが、俺やエリカさんでさえ、白咲邸で一夜を過ごすことは不可能であった。じわじわと、こちらの魔力防御を浸蝕してくるからである。
だがそのおかげで、彼女の——白咲彼岸の精神は守られていたとも言え、それもあって、この浸蝕結界を破壊することはできなかった。
だからこそ——
——サカサヒガン。俺は貴方に感謝している。彼女を——白咲を救ってくれた貴方に感謝している。
そして、その時の残存魔力全てを、俺の能力開花に使ってくれたこと、それにも感謝している。
だからこそ——ああ、だからこそ。
俺は白咲を、今もパジャマ姿で突っ立っている彼女を、俺はなんとしてでも守らないと——守りきらないといけない。
この感情に答えなど出ておらず、恋慕か使命感かすらおぼつかず、それでもなお、俺は彼女をこれからも守り続けたいと願っている。だから、ああ、だからこそ——
「ふぇ——根源坂、くん……!?」
俺は彼女の手を取って、真剣な眼差しで彼女を見つめる。
「——大事な話がある。ここでじゃなくて、もっと別の場所で話したい」
——俺は今、真面目な顔で、心にもないことを言っている。
そんな勇気も準備もないくせに、彼女の気を引くために、一刻も早く戦場から引き離すために、一歩間違えれば彼女を傷つけてしまう発言をしている。
それでも——仮に俺が嫌われるとしても、どうにかこの場を切り抜けるために、彼女をこの恐ろしく悍ましい戦闘区域から逃がすために。
そのためならいくらでもクズになろう。カスになろう。そう思って、思ってもいない口説き文句を口にしている。
「えっと、その……着替えても、良いかしら?」
やや上目遣いで、遠慮がちに彼女は言う。だがそのような余裕はもうない。今頃ゲンスケさんはもう、エリカさん——いや、シュテン=ハーゲンと戦っているだろう。戦わざるを得なくなっているだろう。だから、事態は一刻を争うのだ。
「——駄目だ。悪いが今すぐ行きたい。頼む白咲」
「——ぁ、うん。
じゃあせめて……上着ぐらい羽織らせて?」
「もちろんそれは良いよ。でも本当に、時間がないんだ」
「——うん、どういうつもりかわからないけれど、根源坂くんが真剣なことだけはわかったから」
少し顔を紅潮させて、彼女は上着を羽織り始める。
——とにかく作戦エリア外へ。最悪の場合の爆撃、その範囲外へ。
俺は任務用に配備されていたバイクに彼女を乗せて、夜の戯画町を走り去った。
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