第16話「確率換装領域」

 ——戦慄。ただただその重圧に怯え、竦み、ハンターとしてのポテンシャルを活かせないまま死んでいく————それほどまでの魔力を感じ取り、否、感じ取るまでもなく物理的にのしかかってきているため、俺は震える脚を奮い立たせて——震わす肩をどうにか抑えて、あげはの手を取り空き教室を脱出する——。


 どうする? どうしようもない。これほどの恐怖は初めてだ。ハンターになるより以前、例えばただの人間であった頃、そんな幼い日々の中での夜闇へ抱いた恐怖はこのようなものだっただろうか。

 ——もはや忘却の彼方、幼すぎて覚えていない、彼方の記憶。


 ……いや違う。これはむしろ——これは遺伝子レベルで刻み込まれた根源的恐怖なのかもしれない。


 生命体であれば、太古の昔より蓄積されてきた——死へと至るあらゆる要因、それへの恐怖。

 それが、その恐怖心があるがゆえに、生命は回避行動を取り生きながらえ、そして繁殖し、この星で生息圏を広げていった。


 そのレベルの恐怖が——回避不能で襲いかかってくる。

 その存在の——最強のアヤカシハンター、【終劇者エンドローラー鮮凪あざなぎアギトの放つ魔力が——


 ——ただそれだけで、


 会話をしている暇はない、勇気づける言葉をかける余裕すらない。

 そもそもの話——魔力が学校全域に放たれているため、


 絶体絶命——否、それ以前の話である。

 まず第一に、これはすでに袋小路であるのではないか? この時点で詰みなのではないか?

 嫌な予感が襲来する。終劇者とは即ち——

 ——走りながら、一杯一杯の脳内で弾き出された考察の結果がこれであった。いっそ笑えてくる。ここまで絶望的な試行結果も、思考結果も、そうそうあるものではないのだから。


 希望はないのか——? もはやこのままでは心がもたないだろう。俺だけでなく、あげはも、この圧倒的なまでの魔力圧によって、身体よりも先に精神が押し潰されてしまう。そう俺の戦闘直感が告げている。逃げたらどうということでもない、全域に魔力圧がのしかかっている以上、魔力のほころびからの脱出などという甘い算段は、質ではなく量によって打ち消されている。ほころびなど、幾重にも放たれた魔力圧によって重ねがけされて隠されている。

 ——なんとか魔力圧の構造解析まではできたものの、ただただどうにもならないという事実だけが浮き彫りになった。


「くそっ、これで浸蝕結界ですらないとかどうなってんだよ……!」


 もはやどうしようもない状況であるため、結果的に一周回って落ち着いた俺は、とにかく少しでも気を紛らわそうと悪態をつく。悪態をつくしかないという事実にも目を背けたかったが、そういうわけにもいかない。寒い中で眠らないように会話を続けるのと同じように————心が砕け散らないように、とにかく話し続けるしかない——俺は今、その一心でしかなかった。


「あげは——喋れるか? なんとか脱出できそうな隙間がないか探してんだけどよ、もし走るのがしんどいとかなら言ってくれよ? 俺そこまで一杯一杯じゃないからさ」


 嘘である。未だ外にいるであろう鮮凪アギトが、ただ呼吸するかのように放出した魔力だけでこのような状況に陥っているのだ。自分で言うのもなんだがそれなりに修羅場を潜り抜けた俺だからこそ余計に鮮明に克明に明瞭にこの状況の恐ろしさが見えている。これで一杯一杯になるなと言う方が無理な相談であると、そこまで断言してしまう程度に、この状況は俺の精神状態を滅茶苦茶にしていた。


 だからせめて、あげはの返答があれば、それならば少しは落ち着くかもしれない——いやきっと落ち着くはずだと、必死の思いでそう考えての発言だったのだが、それでもなお、あげはからの返答はない。


 ここまで思考して、俺があまりにも自分本位な考えにシフトしていることに気づく。

 ——本能的に、まず自分自身を守ることを選んでいる。それ以外の何物でもなかった。


 ——馬鹿野郎。俺があげはを守らなくて誰が彼女を守るんだ。その思いで奮起して、俺はあげはへと振り返り————


「——ぇ、あげは……?」


 そこには、虚ろな目で何かを囁く、黒紫あげはの姿があった。

 目の焦点は合っておらず、口からは涎が垂れており——俺は思わず走るのを止めた。


「あげは? おい、あげは——」

「——術式の構築に成功。器の意識を表層に戻します」


 ————何を言っている?

 今の、感情に乗っていない声は、紛れもなく黒紫あげはの声だったが——


 俺が思考を巡らせていると、あげはの表情に光が戻り、


「——ぁ、あれ? 先輩、今これ、あ、逃げてるんでしたっけ」

「あげは。お前今の一体——」


 俺の言葉が終わるより先に、


 


「これは——!?」


 一転する状況に適応するより先に、廊下や壁、天井の至る所の数字が0000000000000000000000000で埋めつくされ——ただ一箇所の廊下——体育館へと至る廊下——そこのみが、赤い字で100と記されている。100という数字が、半角英数字一文字分相当の空白を空けて、その廊下を埋めている。


      100_100_100

      100_100_100

      100_100_100

      100_100_100

      100_100_100


 ——。そう言わんばかりに、なんらかのパラメータが書き換えられ——その廊下のみ、鮮凪アギトの魔力圧が捌けている。


 なんらかの術式。罠なのか、それとも助け舟なのか。それすらわからない。それでもなお、否、もはやこれに乗る以外に勝ち筋も逃げ筋も生み出せない。

 ——ならば、答えは一つ!


「——あげは、走れるか?」

「は、はい——なんとか、まだ!」

「よし——一気に行くぞ」


 再び彼女の手を握り、全力で疾駆する。

 ただ前へ、廊下から外へ、走るのみ!


 この根源的恐怖から逃れるためにも、そして、この戦況を打開するためにも——今はただ、走れ、心は迷っていても——それでも!


 ◇


「——ハァ……ハァ……ァ……」


 息を切らせながらも、夜の空気が身体を冷まし、それが却って、俺の意識を覚ましていく。


 出られた。魔力圧のかかった校舎から、出られた。

 どうにか最悪の事態だけは突破して回避できた。息を整えながら、あげはの様子を窺う——彼女もまた、深呼吸して気分を落ち着かせていた。


 ——さっきのは一体? あれはあげはの術式なのか?


 流石に聞かなければならないだろう。彼女の申告に嘘はない、俺の知っている何種類かの吸血鬼タイプ——それに該当するアヤカシが放つ魔力パターンは、あげはのものと似通っている。それに、魔力探知に長けているエリカさんに照合を依頼しても、やはり結果は同じであった。


 だから彼女は、変質していようとも吸血鬼タイプのアヤカシなのだ。そこに嘘はない。加えて言うなら——いやむしろここからが肝心なのだが、彼女は明確に弱体化しており、当然、。せいぜい生命活動を維持するための魔力——そして、下級のアヤカシを倒すための戦闘用魔力、これぐらいのもので。人払いの結界も、実際のところはかなり俺が展開の補助をした。


 ゆえに——先刻の術式を発動することなど、彼女には不可能なのだ。


 何か——何か別の存在が近くに潜んでいる。

 あの場で鮮凪アギトに殺されるわけにはいかなかった何者かが——今この近くに潜んでいる。


 どう見積もっても、どう見繕っても、現状を打開するためには——鮮凪アギト——称号どころかその名さえも世界に刻み付けた最強のアヤカシハンター——から、生きて帰るには——それを問いただし、彼女の潔白を示さなければならない。


「——なぁ、あげは。……一ついいか?」


「——先輩? どうしたんですか、青い顔をして——もしかして、どこか痛いところでもあるんですか!?」


「いや、そうじゃない……そうじゃないんだ……あげは——」


 震える声、熱くなる目頭、それらをどうにか耐え切って——


「——お前が…………?」


 絶対に言いたくなかったその言葉を、他ならぬ俺が、口にした。

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