第30話:彼女の不幸せな結婚

   ◇


 今から10年ほど前だ。当時五歳くらいだった俺は朝から晩までプノシス領の野山を駆け回っていた。仕事漬けだった前世からの解放感から童心に帰って、虫取りや秘密基地作りに熱中していたのはいい思い出だ。


 さて、そんなある日。俺は森の中を歩いていると座り込んで泣きそうになっている一人の女の子と出会った。


 プノシス領に俺と同年代の子供は居ない。着ている服も凝ったデザインのドレスだったから、すぐに外から来た子供だとわかった。


 俺が声をかけると、彼女は涙を必死にこらえて自分を行商人の娘だと名乗った。今にして思い出せば、行商人の娘にしては上等なドレスを着ていたし、言葉遣いも子供とは思えないほど大人びていた。


 事情を聴くとどうやら彼女が家族と乗っていた馬車が故障し立往生してしまったらしい。大人たちが修理をしている間、暇を持て余して森の中を探索している内に迷子になってしまったそうだ。


 その時の俺は何を思ったのか、ちょうど完成したばかりの秘密基地へ彼女を案内することにした。同年代の子供なんて居なかったから、とにかく誰かに自慢したかったのだ。


「これあなたがつくったの?」


「ああ! 俺一人で作ったんだ。どうだ、すごいだろ?」


「ええ、すごくりっぱな犬ごやだわ」


「秘密基地だよっ!」


 それから俺たちは陽が暮れるまで他愛のない話をした。実家がド田舎貧乏貴族だと俺が愚痴を漏らせば、毎日が習い事ばかりでつまらないと彼女も言う。互いに実家の文句を言って怒ったり、笑ったり。今でも思い出に残っているくらい大切な時間だった。


 夜になってから女の子を連れて屋敷に戻り、秘密基地で遊んでいた事は内緒にして、父上に事情を説明した。すぐに父上が森へ行って女の子の家族を連れて戻って来て、女の子は家族と馬車が修理できるまで屋敷に滞在する事になった。


 だいたい三日ほどだったか。俺は彼女と朝から晩まで一緒だった。川で泳いだり、彼女が持っていた本を読んだり、昼寝をしたり。


 別れ際の彼女は、やっぱり泣くのを必死に我慢していた。


「わたしのこと、わすれないでね? いつかまたあえたら、あなたをわたしのおむこさんにしてあげる!」


 彼女の告白に、俺は何と答えたんだったかな……。


   ◇


 俺を見つけたリリィは驚いたように目を見開く。


「まさか貴方、あの後ずっとここで私の帰りを待っていたの?」


「そんなわけないだろ。夕日が見たくなって座ってたんだよ」


「夕日なら貴方の真後ろよ」


 リリィは呆れ顔で指摘して溜息を吐く。それから少し逡巡し俺の隣へと腰掛けた。


「……レクティとルーグはどうしたの」


「二人なら女子寮のエントランスでお前の帰りを待ってるよ。二人とも心配してたぞ?」


「そう……。貴方もここに座っていたということは、私のことを心配してくれていたと考えていいのよね?」


「……まあな。ぶたれた頬は大丈夫か?」


「あれくらいどうってことないわよ。心配しなくても暴力は振るわれていないわ。ただ単に昼食に付き合わされただけ。食べ過ぎで気持ち悪い以外はすこぶる健康よ」


 リリィは胸に手を当てて微笑んで見せる。確かに〈忍者〉スキルでも彼女に異変は感じられない。


 だけど……。


「褒めなさい、ヒュー。私はまだあの男に一度も体を許していないわ。好色家で変態と名高いレチェリー公爵によ? 信じられないなら直接確かめてみる? 貴方になら特別に私の――…………冗談よ、お願いだからそんな怖い顔しないで」


 短い付き合いでもわかる。


 平常な彼女なら決してこんな冗談は言わない。


「リリィ。お前は自分が今どんな顔をしているか自覚してるのか?」


「もちろんよ。いつもと変わらない完璧な淑女。才媛と名高いリリィ・ピュリディの顔をしているわ」


「…………俺は、子供の頃に森で出会った女の子を思い出したよ」


「……っ!」


 リリィはビクッと体を硬直させる。


 俺はそれに気づかなかった振りをして話を進めた。


「その子は森の中で迷子になってたんだ。不安げで、今にも泣き出しそうな顔をしてた。だけど俺が声をかけると、必死に表情を取り繕うんだよ。何でもないって無理に笑おうとして、面白くもない冗談を口にするんだ」


「…………面白くないは余計よ」


 リリィは唇を尖らせてボソッと呟く。


 ……やっぱりそうなんだな。


 入学試験の時は気づかなかった。十年も経てば記憶は随分と曖昧になるし、何より俺の記憶の中の女の子に比べてリリィはとても大人びて美しくなっていた。それこそ一目ではわからないほどに。


 打ちのめされたリリィを見て、泣くのを必死に我慢するような痛々しい表情を見て、俺はようやく森の中の女の子をリリィと結びつけることができたのだ。


「リリィ。レチェリー公爵との婚姻は、スレイ殿下の差し金か?」


「……っ! 滅多なことを言うものじゃないわ! どこに人の目や耳があるかわからないのよ!?」


「少なくとも今この場は大丈夫だ。俺たち以外の気配はない」


「だとしても……っ、貴方は王位継承権争いに関わるべきじゃない。プノシス領なんて誰も見向きしないんだから、貴方は無関係で居られるのよ……? どうしてわざわざ首を突っ込むの……っ!」


「仕方がないだろ、ルーグの正体を知っちまったんだから」


「……っ! そう、だったのね……」


 ルーグがルクレティア王女殿下だと知ってしまった。だからもう見て見ぬふりは出来ない。


 ルーカス王子に何かあればルーグにまで危険が及ぶのだ。俺はルーグとの約束を果たすためにも、この王位継承権争いにルーカス王子を勝たせなくてはならない。


 だからリリィのこの婚姻は俺にとっても無関係ではない。


「……安心してちょうだい。ルーグの正体を誰かに話すつもりはないわ。これでも幼い頃は互いの家を行き来するくらいの仲だったのよ? もしルーグに危機が迫るなら私は私に出来る限りの協力を惜しまない」


「だからこれ以上踏み込むなって?」


「ええ、そうよ。これはピュリディ家の問題でもあるわ。無関係の貴方にこれ以上踏み込む権利はないのよ」


「プノシス家はピュリディ家の遠縁なんじゃなかったか? じゃあ身内みたいなもんだろ」


「そんなの嘘に決まってるでしょ」


「だよな」


 リリィはあの日からずっと、俺の事を憶えてくれていたのだ。それこそ俺が着ていた外套の家紋を見てすぐに、秘密基地で俺が語った『ド田舎貧乏貴族』だという自虐を思い出すほどに。


 だけど俺が憶えていなかったから、リリィも無かった事にしたんだろう。遠縁だのと言ったのはそのための嘘だったわけだ。


「仕方がないだろ。もとはと言えばお前が商人の娘だって嘘をつくから、貴族のリリィとあの時の女の子が結びつかなかったんだぞ。どこかで見覚えがある懐かしい顔だと思ってはいたんだ」


「本当かしら? 私には本気で憶えていない顔に見えたけれど? 責任転嫁はやめてくれる?」


「そっちこそ、そうやって強がるのをやめろよ。嫌なんだろ、レチェリー公爵に嫁ぐの」


「そんなわけないでしょう? レチェリー公爵はこの国の大貴族。王家に嫁ぐよりも何一つ不自由のない贅沢な暮らしが出来るわ。一生を遊んで暮らせるのよ? スレイ殿下もレチェリー家の後ろ盾を得られれば確実に次の王になれる。そうすればピュリディ家も安泰だわ。良い事ばかりだとは思わない?」


「……その勘定、お前の幸せが入ってないだろ」


「じゃあ、貴方が私を幸せにしてくれるの!?」


 リリィは声を荒らげ、それが自分でも驚きだったのだろう。


 目を見開き、口元を手で押さえる。


「……ごめんなさい」


 リリィは謝るとベンチから立ち上がって、早足で女子寮の方へと去って行った。


 その背中に何と声をかければいいかわからず、俺はただ見送る事しか出来ない。


 ……俺にリリィを幸せに出来るのか、か。


 周囲が暗くなるまで考えてみたけれど、答えは出なかった。

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