第35話 止まるな、止まるな
〇
状況はあまりいいとは思えなかった。美濃囲いを放棄して、流れで作った左美濃に逃げ込んだまでは良かった。けど、やはり藤ヶ谷の追撃は止まらなかった。
互いに残り三分を切っている。もう、迷っている時間はない。
高井さんは繋いでくれたんだ。僕にバトンを、必死に繋いでくれたんだ。
それを、落とすわけにはいかない。高井さんの勝利を、空砲になんてさせない。彩夏さんの高校最後の団体戦を、黒星なんかにさせたくない。長谷川君に、苦い思いをさせたくない。
久美を、戦犯にさせるわけにはいかない。
いつだって職人のように勝ち星を積み上げて、チームを支えてくれていた久美を、ここで戦犯になんかさせてやるか……!
藤ヶ谷は飛車に紐づいたと金を一路寄せ、僕の守りの金に当てる。さすがにここの交換を許容するわけにはいかないので、僕は当てられた金をひとつ横に逃がす。金銀の連携が崩れたタイミングで、藤ヶ谷は続けて飛車を一段奥に進めて竜に成った。これで再び金取りだ。で、
「……金取りが受けにくいってわけなんですね、これが」
逃げるのは金が斜めに誘われて守備力が激減する上に、王様が狭くなるからしたくない。かと言って桂か香を打って竜の利きを止めると、逆に藤ヶ谷の攻めを促進する結果になる。
それに、もう双方の残り時間的に入玉する暇が「物理的」にない。となると、時間が切れるか相手玉を詰ますかでしか決着がつかないことになるから……。
「……たた受ける手じゃ、勝ち目は薄い」
その発想に転換すると、自然と指し手はひとつに絞られた。
「攻防に利かすしか、ないよね」
▲9七角。これで、7九にいる金に紐がついた。それに、この角は遠く藤ヶ谷の王様の頭上に射線が通っている。……この自陣角を足掛かりに藤ヶ谷の無傷の王様を寄せていかないと。
……僕の王様にはもう火の手が回っている。藤ヶ谷の王様はまだ安全。……差は歴然だけど、まだ悲観する差でもない。藤ヶ谷は攻撃に戦力を注いだせいで、もう持ち駒が香一枚と歩二枚しか残っていない。つまり、何かあったときに受ける駒が残っていないんだ。その、何かさえ起こせれば……。勝機は、残っている。
「……そんな受けが。でも、もう引き下がれないっ、あなたを、潰すっ、絶対にっ」
僕の自陣角を見て目を丸くさせた藤ヶ谷は、しかし攻撃の手を緩めることなく、最後の持ち駒と言ってもいい香車を垂らした。
手数はかかるが、確実な攻めだ。香車を成る、金を取る、銀を取るの三手で一気に僕の王様は寄ってしまう。……どうする、持ち時間も、僕の王様に対する余裕も、何もかもない。
踏み込んで攻め合いを挑むか? でも、不確定要素があまりにも多すぎる。僕の攻めが間に合う保証も、攻めきれる自信も、そして何より僕の王様が捕まらない確証も、何もない。ハイリスクすぎる。それに一度目は、攻め合いを挑んで負けたんだ。二度も同じ負けかたをしたら、今度こそ僕は折れてしまうかもしれない。
……じゃあ、粘りにかかるか? 持ち時間は少ないけど、これなら負けない将棋にはできるはず。……ただ、そうなると時間の勝負になりそう。
くそ、どうする。どうすればいい、この状況。チームは二勝二敗。全ては僕と藤ヶ谷の勝負にかかっている。負けられない、負けたくない、勝たないといけない、勝ちたい。
攻め合いか? 守りに入って粘りにかかるか? いずれにせよ、もう決断しないといけない。持ち時間は、あと二分を切った。瞬間。
──むぎくんの『負けない力』は一筋縄じゃいかないの、わたしが一番理解してるっ。だって、今まで数え切れないほどむぎくんと将棋指してきたけど、楽に勝った将棋なんてひとつだってないっ。むぎくんは強いんだよっ。
──なら、踏み込んできてよ……!
「……ふっ」
「……何か、おかしかった?」
不意に、時間がないのに僕は笑い声を零してしまった。それを聞いた藤ヶ谷が、不審そうにチラッと僕の顔を一瞥する。
「失礼しました。ただ、攻め合いの借りは、攻め合いでしか返せないよなって、思っただけ」
そう漏らすと、僕は持ち駒の桂馬を掴んでは、4六の控えた位置にそれを着手した。
▲4六桂。この手自体は、歩にしか当たっていない。でも、次の5四か3四の位置に跳躍できたなら、その桂馬は、藤ヶ谷の王様に大きなプレッシャーを与えることになる。
まさに、真正面から藤ヶ谷と殴り合う、そんな意思表示だ。
「まさか、あなたがまた私に攻め合いを挑んでくるなんて、ね? あのとき、攻める心を木端微塵に吹き飛ばしたと思っていたのだけど」
「……知ってるだろ? 僕は、諦めの悪い奴だってこと」
「……っ。面白いっ、どのみち私はもう攻め合うしかないっ。必ず、先にあなたを討つ!」
持ち駒が貧弱で、受け駒がない藤ヶ谷は、僕の誘いに真っ向から乗ってくる。鋭い手つきで彼女は垂らした香車を成りこんだ。僕ももう後には引けないので、自陣角の利きを遮っていた飛車をずらし、角道を通す。これで反撃の準備は完了だ。
藤ヶ谷は成香で僕の守りの金を剥がす。これでいつでも僕の王様に銃弾が命中してもおかしくない局面になった。猶予は、残されていない。寄るかどうかわからない。わからないけど、
「ここで攻め勝たないと、僕も前に進めないんだよ……!」
行くしかない。やるしかない。勝つために、後ろで僕を信じてくれている仲間のために。
今度こそ、藤ヶ谷に攻め勝つ……!
僕は力強い手つきで自陣に据えた角をぶった切り藤ヶ谷の王様に襲い掛かる。速度を重視した一気の寄せだ。駒を渡すぶん僕の王様も危うくなるけど、そんなこと言ってられない。殺るか、殺られるかの局面なんだ。切り込んだ馬を王様で取った藤ヶ谷。ノータイムで僕は控えて打った桂馬を3四に跳躍させる。これで、手広に思われた藤ヶ谷玉を一気に狭くすることができる。
「絶対、捕まりなんかしないっ……! あなたのような、久美の劣化版でしかない人の寄せになんて、屈しないっ……!」
「僕の幼馴染を高く評価して頂いてありがとうございます。……でも、今の相手は僕なんで」
「あなたに、あなたなんかにっ……! 団体戦を途中で放り投げるような人に、団体戦で負けるわけにはいかないのよ……! ウチはっ……札教大札幌は、いつだって頂点にいないといけない学校っ、北海道予選六連覇なんか、何の勲章にもならないっ、欲しいのは、学校初の全国優勝。だからっ、特に同じ北海道のあなたたちには、どんな勝負でだって負けちゃいけないのよっ!」
「……確かに、団体戦の重みは、藤ヶ谷のほうが理解しているかもしれない。一度逃げ出した僕よりも、ずっと。でも」
逃げる藤ヶ谷の王様を必死に追いすがる僕。互いに残り時間一分に差し掛かっており、ほぼほぼ反射で指しているに等しい。
「……前と違って、僕らはチームになったっ。もう、僕はひとりで戦ってなんかいないっ……!」
かけ続ける連続王手。この王手が止んだら、最後、僕は藤ヶ谷に心臓を射抜かれる。
止まるな、止まるな、欲しいものは、進んだ先にしかない。
右往左往する藤ヶ谷の王様を追い立てる僕。僕の必死の猛攻を凌ぎ続ける藤ヶ谷。まさに死闘と言える大追撃は、しかし、なんとか端へと逃げ込んだ藤ヶ谷が逃走を成功させた。
「……詰ま、ないっ……のかよっ……!」
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