第34話 たったひとつ、欲しかったもの

「っっっ、ほんっっっと、あなたってしっっつこい!」

 持ち時間がないので、考える暇もなく私は入玉のための手を尽くしていく。麦田さんが米野さん相手にやっていたように。


 やるべきことは単純。王様をとにかく敵陣へと走らせる。

 私の狙いを悟った吉原さんはすぐに攻めのスイッチを切り替え、私の入玉を阻止する方向に切り替えた。直接私の王様を攻めるのではなく、じわりじわりと逃げ場所を塞いでいくように。


「っっ……!」

「無駄よっ! そんな勝ちかた許すわけない! 絶対に、捕まえる! 逃がしなんて、しない!」


 そう叫んだ吉原さんは、自玉の守り駒を一路横にずらした。……守備を放棄しての、攻撃参加。入玉が絡む将棋では、しばしば出てくる筋だ。だけど。

 確かに、私の王様に対する包囲網は狭まった。狭まったけど、それって、つまり。

 ……自玉を、危険に晒したってこと、だよね……?

 残り一分を切った持ち時間。貴重な数十秒を使って、私は必死に読みを入れる。そして。


「……この瞬間、待ってた」


 私は、吉原さんの王様を守っている唯一の銀に狙いを定め、銀の頭に香車を叩きつけた。


「これでっ……どうっ!」

 それは、私の王様を捕まえることに夢中になった吉原さんが見せた一瞬の隙だった。入玉を阻止するため、王様を寄せるため。そのためだけに、吉原さんは足りない攻め駒を補うために、守備駒に攻撃参加させた。

 自玉を一気に死地へと追いやる諸刃の剣とも気づかずに……!


「……嘘。だって、なんで。いつの間にあなたの持ち駒、そんな豊富になっているの」

 取るしかない香車を、吉原さんは恐る恐る払う。真っすぐ誘われた銀の背後のスペースめがけて、私は金を打ち込む。寄せの基本中の基本の頭金だ。


 吉原さんの王様を最下段に落とし、詰ませるまであとちょっと。あと、ちょっとなのだけど。


「っっっ! あなたなんかにっ!」

 突然の竜切りだった。予想外の手に、私は心臓が跳ねる。


 ……え? もしかして、私の王様、捕まるの? だって、こんな決め手みたいなのって。


 2六の地点、吉原陣まであと一歩まで来た私の王様は、しかし最後の吉原さんの抵抗でその最後の一歩を踏み出せずにいる、宙ぶらりんの状態。で、でもっ、いくらなんでもここで捕まるなんてこと……。次の瞬間。そんな私の思考を焼き切る一手が飛び出す。


「負けたくない、負けられないのはっ、私だってっ!」

 ▲3六銀。それは、私の王様のお腹に打った銀。この銀で、私の王様は文字通り「どこにも動けなく」なってしまった。


「……え? こ、この詰めろ、受かるの……?」

 狙いは簡単な一手詰め。それなのに、有効な受けが見当たらない。かと言って、吉原さんの王様の詰みを、残り四五秒で読み切れなんて……無理だ。


 どうしよう、何か、何か指さないと。でないと、ここまで頑張って来たのに、ここまで繋いできたのにっ。何か、何か何か何か。だって、


「……負けたくない、負けたくない……負け、られないんだ……!」

 刹那。あのときと同じように。持ち駒の銀と、ある地点がキラリと光り輝きだした。

 十秒ほどの思考で、私は気づいた。


「これでっっっ!」


 △3八銀。

 吉原さんの2七に香車を打って私の王様に対する一手詰めを受ける手。……だけじゃない。


「……この銀、タダ、だけど。…………。……あ」

 同時に、吉原さんの王様を迎撃する一手にもなった。

 この銀を取ったら、吉原さんの最後の逃走経路が自分の金で塞がれ、簡単な三手詰み。……取らなくても、簡単な三手詰み。つまり、この△3八銀は──


「詰めろ逃れの詰めろ、って言いたいの……? いや」

「……受け、なしだから。詰めろ逃れの、必至。だよ」


 ──起死回生の、逆転の一手になった。


「……あ、あ、あ……な、なんで……どこで……どうしてっ……」

 ピッ、ピッ、ピッ──

 無慈悲な電子音が、指し手を失って顔面蒼白になった吉原さんに襲い掛かる。

 そして、最後の短音が鳴り、ディスプレイに「End」の文字が表示され。


「……ま、け、まし、た……」

 目の前に座っていた対戦相手が、そう言って頭を下げた。


「……あ、ありがとうございました」

 春の石狩支部女子個人戦、六敗。全道大会、四敗。高校竜王戦北海道予選、六敗。練習対局会、不戦勝を除いて三〇敗。今日も、ここまで四敗。


 高校通算、五〇敗。五〇敗、一勝。


 周りから見たら、笑っちゃうような数字だと思う。それでも。そうだとしても。

「……やっ……たんだ……私……」

 この一勝は、私が欲しくて欲しくて仕方なかった一勝だ。


 席を立って、後ろで見守ってくれていた皆さんの列に入ると、嬉しいはずなのに、不思議と涙がこみ上げてきた。


「……よくやったよ、歩夢ちゃん。大手柄だよ」

 戻った私の肩を抱き、ポンポンと優しく背中を叩いて喜んでくれる彩夏さん。けど、喜んでいるのも束の間、目線は最後の一局となった麦田さんと藤ヶ谷さんの対局へと飛ぶ。チラッと周りを見ると、米野さんは瞳に大粒の涙を浮かべながら両手を組んで祈りながら麦田さんの将棋を食い入るように見ている。洸汰くんも、真剣な面持ちだ。


「あとは、麦田くん……だ」

「……あ、あの。状況は」

「……攻め立てているのは藤ヶ谷さん。でも、麦田くんも必死に粘っている」


 時計を見ると、お互い残り三分を切っている。……けど、麦田さんの王様は追い回されていて、藤ヶ谷さんの王様は傷ひとつついていない。入玉だって、できそうな雰囲気じゃない。……これで、勝てるんだろうか。

 私の不安が抱いている肩越しに伝ったのだろうか、彩夏さんは安心させるように私に言う。


「……大丈夫。麦田くんは、いつだってそうだから。十人が見たら十人が負けるだろうなって状況でも、諦めないで勝利を追う、強い子だから。それに、ね」

「……それに、何ですか?」


「歩夢ちゃんは麦田くんの将棋をちゃんと生で見るのは初めてだよね?」

「……全道大会で、横で見てたのを除けば」


「こういうときの麦田くんの王様はね。翼が生えたように自由に飛び回ってね? 八一マスを翔けるんだ」

「……翔ける、んですか」


「うん。とにかく、麦田くんは歩夢ちゃんのことを信じてくれたんでしょ? なら、私たちも、麦田くんのことを信じて待たないと」

「……は、はい」


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