第33話 信じてくれる人が、今日は横にいる
〇
序盤でポイントを稼いだリードを活かし私はなんとか慎重に慎重に将棋を進めていった。せっかく良くした将棋を勿体ないミスで無駄にしないように。勝てるチャンスを逃さないように。
幸いにして、駒落ちとは言え麦田さんと何局も緊張感が走る中・終盤を指してきた。いくら粘ることが主戦場の麦田さんだけど、私なんかよりはずっと攻めの手は鋭いわけで。少しでも緩い手を指そうものなら、一瞬で掴んだリードをひっくり返されてしまう。
優勢の将棋を逃げるのは、麦田さんでたくさん経験させてもらった。
「……なんで、全然形勢詰まらないの。こんな、相手にっ」
終盤の入口に将棋が差し掛かった頃合い。形勢自体は僅かに私がいい、と思う。ただ、持ち時間は慎重に進めたせいで、吉原さんは一二分残っているのに対して、私はあと八分だ。
そろそろ、読みのペースを速めないと、時間が足りなくなってしまうかもしれない。
リスクは増えるけど、多少精度は落としてもスピード重視でいい手を考えないと……!
そう頭のなかで考えた矢先のことだった。
うんうんと唸りながら次の手を必死に探す吉原さんをよそに、私の左隣から、米野さんの信じられない声が飛んできた。
「……ま、け、ました……」
「え……?」
咄嗟に横の将棋盤に目線を移す。すると、そこには。完全に得意の攻めを切らされ、穴熊に籠ったまま姿焼きになった米野さんの王様が白旗を上げていた。
「……そ、んな」
項垂れる米野さんから、キラリと一条の雫が光る。
……待って。今、もしかして、チームの勝敗って……。洸汰くんは負けた、彩夏さんは勝った。……たった今、米野さんは負けた。つまり。一勝二敗。
豊園が勝つためには、私と麦田さんがどっちも勝たないといけないってことだ。
きっと、麦田さんも同じことを理解したんだ。ガタ、とパイプ椅子を引きさらに前傾姿勢を強め、制服のネクタイを緩めては盤面にのめり込む。チームの勝敗という重荷が、途端に私の背中にのしかかる。すると、今までのびのびとできていた指し手が途端に重くなった。
あれ……? なんて。さっきまで、普通に指せていたのに。どうして。
急に、次の一手を指すのが、こんなに怖くなっているの?
背中から感じる、皆さんの視線。
ど、どうしよう。わ、私が負けたら、チームが負けちゃう。しかも、今度は全道大会のときと違って、「負けを決定づける負け」になり得る状況だ。プレッシャーは、全道大会のとき以上だ。
……怖い、怖い、怖い。もし間違えたら、次指す手が悪手だったら。それが、敗着となってしまったら。そしたら、私は……。
麦田さんは、全道大会のときも、こんなプレッシャーを背に将棋を指していたんだ。
気がつくと私の持ち時間が一分減っていた。ま、まずい。これ以上の長考はできない。何か、何か指さないとっ……! 時間に追われ、放った焦りの末の敵陣への飛車打ち。それは。
「…………。……あっ」
五秒も考えればわかる、大悪手だった。
吉原さんは、小さなため息とともに、幾許かの考慮を挟んで、私の五秒の読み通りの手を指す。三手一組の手順で、王手飛車取りがかかる位置に私は飛車を打ってしまったんだ。
私の打った飛車を角で回収して、ホッと一息つき胸を撫で下ろす吉原さん。しかしその目はすぐに私の王様へ一点集中しており、ここから始まる反撃の予感に、私は震えあがる。
どっ、ど、どうしよう……! せっかく、せっかくここまで頑張って保ってきたリードが。
たった一手で吹き飛んでしまった。
見なくてもわかる。後ろで見守っている皆さんの、落胆の表情が。
やっぱり、勝てないんだ。私は。どれだけ頑張ったとしても。正しい努力を積んだとしても。勝ちたいと、負けたくないと希っていても。結果を、残せないんだ。
……ああ、そっか。そうだったんだ。私に居場所がないんじゃない。
私に何らかの居場所を得られる、価値がないだけの話だったんだ。
だから、お母さんにはいないものとして扱われ、お父さんには見捨てられ。
中学のクラスではいじめられ、高校のクラスではほぼ空気になって。
そして、みなさんが用意してくれた将棋部の居場所さえも、私は無駄にしようとしている。
……すみません、麦田さん。せっかく、色々と教えてくださったのに。貴重な時間を割いてもらって、この結果で。麦田さんも、こんな気持ちだったんですか……? だから、一度は団体戦を辞めるって、おっしゃっていたんですか……?
だとするなら、ようやく麦田さんの気持ちがわかった気がします。
……辞めたくなります。だって、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて怖くて怖くて仕方ない。
麦田さんだってそれは同じはずなのに。麦田さんは団体戦に復帰して、今も必死に戦っている。なのに。私のせいで、その頑張りさえも無駄になろうとしている。
持ち時間残り五分。完全に手が止まってしまった私は、投げ場を求めていた。
……いっそ、吉原さんにトドメを刺して欲しかった。
……もう、無理だよ。こんなの、もう──
つん、と鼻腔に苦い感覚が走り、視界が少し潤んだ瞬間。右隣から、パチン、と甲高い駒音が鳴り響いた。それは、隣に座っている麦田さんの指し手だった。……なんだろう。普段から音を立てない静かな着手がほとんどの麦田さんが、こんなに駒音を大きく立てるなんて。
横目で麦田さんの局面を覗き見ると、お世辞にも私が見ても麦田さんがいいと言える形勢ではなかった。美濃囲いが崩されて、麦田さんの王様は逃亡を開始している。対する藤ヶ谷さんの王様にはまだ手がついておらず、攻め合いに転ずることもできなさそう。
私と同じ、辛そうな将棋だ。持ち時間だって、麦田さんのほうが少ない。なのに。それなのに。
麦田さんは徹底抗戦の構えを崩さず、藤ヶ谷さんの攻めをあの手この手でかわし続けている。いや、もう半分くらいはかすっていて、王様は傷だらけなのかもしれない。
でも。それでも。麦田さんの王様の足は止まらない。
「……こ、これって」
今度は、麦田さんと対峙している藤ヶ谷さんの顔を見やる。良さそうな形勢に反して、表情はどこか険しそう。な、なんで。こんなに攻め立てて、王様も裸になって囲いも空中分解したのに。
……囲いも、空中分解した、のに? ……本当に?
いや、待って。麦田さんの王様の逃げている先。……麦田さんが攻撃に使うはずだった金と、今しがた手順に打った銀が、綺麗に繋がっている。
「……まさか」
麦田さん、右に作った美濃囲いを放棄して、左にもうひとつ美濃囲いを作って王様をそこに逃がそうとしているの……?
左辺はまだ、桂香がそのまま残っていて、本来攻撃に使うはずだった飛車さえも王様の護衛に加わっている。緑が綺麗に生い茂る逃亡先は、麦田さんにとっての楽園だ。そこに逃げ込んでしまえれば、藤ヶ谷さんの攻めは簡単には届かなくなる。
そんな粘り、ありなの……? なんで、そこまで粘れるんですか……? 苦しいのに、怖いのに、チームの命運を握っているのに。どうして──
──自分がもし劣勢で、苦しい状況のとき。隣に座っている仲間が、必死に粘って、粘って、泥のなかに落ちてる勝利っていう星を探していたら。諦めないで、どこかに残っている可能性を追いかけ続けていたら。それで、相手が明らかに焦っていたなら。間違いなく、自分へのエネルギーになる。それが、団体戦の面白いところだと、僕は思っている。
いていいんだよ。高井さんは、ここに。高井さんがそれを望むのなら、拒む人なんて将棋部にはいない。
「……最後まで僕は信じてる、から」
不意に、対局前にかけられた麦田さんの言葉を反芻する。
対局の最中で、仲間から直接アドバイスを貰うことは「助言」という行為になって禁止されている。だから。だから、麦田さんは言葉ではなく、指し手で、私の背中を押そうとしてくれているんだ。残り三分。我に返った私は、自分の局面に集中する。
……まだ、まだ。勝負は終わってない。何か、何か手はあるはずなんだ……!
「……やるしか、ないよね」
攻撃の核となるはずだった飛車を失った今、私ができることは、ただ抗うこと。抗って、抗って、吉原さんのミスを待つ。これしかないっ。
負けたくない、負けられない。これ以上、裏切れない。信じてくれる人が、今日は横にいる。
だから、今日、この瞬間、この将棋だけは、絶対に落とせないっ……。
諦めの悪さだけが取り柄の私が、勝負を諦めたら、一体、何が残るって言うの……!
「……絶対に、負けないっ……!」
導かれたように、無意識のうちに。私は自分の王様を一段上空に昇らせた。
「……何? それで早逃げのつもり? 持ち時間も少ないし、ここからどうしようって」
さらに、ノータイムで私は続けざまに王様をもう一段上空へと昇らせる。
「……もしかして。あなた」
……今まで、誰の将棋を並べて勉強してきたと思っている。
もう、入玉を成功させるための感覚は、指先が覚えている。
「こ、ここから入玉するつもりじゃないでしょうねっ!」
「……だったら、何?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます