第32話 絶体絶命

 〇


 藤ヶ谷の攻めは、細いはずだった。切らせるはずだった。のに。

「……どこで、間違ったんだよ、僕は……!」

 盤面に描き出されているのは、無残にも突破され焼け野原となった僕の右サイドと、命からがら右辺の囲いを放棄して中央へ逃げ出した僕の王様だった。


「だから、言ったでしょ? あなたは、私の攻めを受けきれないって」

 恐怖に顔を歪める僕に、追い打ちとばかりに藤ヶ谷はノータイムで突破した僕の右サイドのスペースに、急所に利く角を打った。


「……くっ」

 持ち時間は、もう逆転していた。藤ヶ谷が残り一七分。僕は、残り一二分。

 ……まだ、中盤の入口をようやく抜け出したくらいの進行で、この消費時間はまずい。まずいのだけど、ここでミスをしたら将棋が終わってしまう。


 これ以上、形勢を損ねたら……! けど、悠長に考えている時間もない……!

 そのときだった。みっつ隣の大将席で、時計が止まる音がする。

「……負けました」

 チラっと横目で見ると、悔しそうに唇を噛みしめた長谷川君が頭を下げている姿が目に入る。これで一本取られた。勝負の鍵を握るポイントで一本取られた。二勝一敗を収めないといけない長谷川君・彩夏さん・僕で、長谷川君が負けてしまった。つまり、それが意味するのは。


「……やる、しかない」

 腹を括り、ひとつの決断を下す。

 ……僕が負けたら、勝負がついてしまう恐れがあるってことだ。負けられない。負けられないんだ。それなら、僕がすべきことは──

 持ち駒の銀を手にした僕は、そのまま自陣に残っている守りの銀と連結するように打った。


「……開き直ったわね」

「粘りなら、指先が感覚で覚えているからね」

「でも、あなたは──」

「──藤ヶ谷。……ひとつ勘違いしているかもしれないから言っておく。確かに僕は藤ヶ谷の攻めを受けきれない。けど。……受けと、粘りは、別物だ」


「……詭弁を」

「詭弁かどうかは、決着がついてから判断するのでも遅くはないんじゃない?」

 ──負けたくないと、必死にもがき続けること。転がり込んでくるチャンスを、見逃さないこと。それだけだ。


 報われないかもしれない。無意味かもしれない。みっともないかもしれない。けど。

 横に座っている仲間は、僕が負けるなんて微塵も思っていない。それならば。

「ありがとうございました」

 ほどなくして副将席も対局が終了した。先に頭を下げていたのは、札教大札幌の選手だった。


 よし、彩夏さんは勝ってくれた。オーダー通りだ。あとは、僕がみんなの期待に応えるだけ。

「三度目の正直だよ、藤ヶ谷」

「……くっ、チームメイトが勝って、指し手がますます伸びてくるようになってきた」

 さらに僕はセオリー度外視で自陣飛車を打ち、藤ヶ谷の攻め駒を攻め立てる。


「そんな手、ありなの……?」

 僕が狙った藤ヶ谷の攻めの角はあっさりお役御免とばかりに、僕の守りの銀と交換になった。単純に言えば、角銀交換で駒得だ。でも、ことはそう単純には運ばない。


「……なら、反対にその自陣飛車を攻めるだけの話っ」

 目標にしていた角が盤上から消えた僕の飛車は、当然藤ヶ谷にとっては絶好のカモだ。飛車のコビンに金を打ち飛車を追い回す。もちろん、自陣の一部を焼け野原にされている僕は、この飛車をノーリスクで取られたらひとたまりもない。

 当てられた飛車を、スッと静かにひとつ引いて逃がす僕。


「まだまだっ」

 その追っ手に援軍を寄越すかのごとく、藤ヶ谷はさらに歩を垂らしてと金作りを目論む。

「スペースが空きまくったあなたの陣地に、飛車が入れば王様が捕まるのも時間の問題。さあ、ここからどう粘るっていうの」


 藤ヶ谷の問いに直接答えることはせず僕は幾許かの思考を挟んで、持ち駒の香車を掴み上げ、狙われた飛車を閉じ込める、最下段の位置に香車を打ち込んだ。藤ヶ谷の、金に当たるように。


「……え、何。これ……。自分の飛車を自分で閉じ込めて……っっっ」

 数秒考えたのち、藤ヶ谷は僕が打った香車を二度見する。

「これっ……飛車を取りに行ったら、金が遊び駒になるって言いたいの」


 もしここで藤ヶ谷が僕の飛車を捕まえるために、最後の持ち駒の銀を打って飛車を詰ませたとする。すると、僕は飛車でその銀を取り、藤ヶ谷は金で飛車を取り返す。このとき、金の位置がとても悪い位置になり、二度と活用するのは難しくなる。これではいくら飛車を取ったとしても攻め駒が不足して寄せるのは厳しい。


 さらに金がずれることによって、今僕が打った香車が中盤に鎮座する藤ヶ谷の角に直射する。

 この香車は、藤ヶ谷の金と角を串刺しにした手なんだ。

 ……粘れてる。やれてる。藤ヶ谷相手でも戦えている。負けない、負けたくない。今日は、絶対に勝たないといけないんだ……!


 僕が勢いに乗り始めたそのとき。ふたつ隣の三将席の対局時計が、持ち時間ラスト一〇秒のカウントダウンを始めていた。久美、もう岡本を倒したのか。さすがに早いな。でも、これで二勝一敗、文句なしにリーチがかかる。あとは、僕が……!


 ピーーッ──


「……ま、け、ました……」

 刹那。僕の予想に反して、聞きなれた声が僕の耳を衝いた。

「……えっ?」

 慌てて横を振り向き、三将席の様子を窺う。すると。


「……う、嘘だろ……?」

 投了していたのは、久美のほうだった。顔面蒼白になった久美は、ぷるぷると手と唇を震わせ項垂れており、前を向くことができていなかった。勝ったのは、岡本だった。


 い、一体何が起きたんだ。いくら札教大札幌二番手の岡本が相手と言えど、久美がこんなに時間に差をつけられて負けるなんてあり得ない。何か、何かあったのか?

 いや、過ぎたことを考察しても仕方ない。そんなことよりも。


 ……久美が負けたことによって、三局終了して一勝二敗になった。残ったのは、僕と高井さん。……当然、豊園に後は残っていない。僕らが勝つためには、僕だけではなく高井さんも勝たないといけなくなってしまったんだ。そして、僕は明らかに高井さんが動揺したのを感じ取った。ぱっと見、ここまでは作戦通りに局面を進めているけど、まだどうなるかはわからない。


 絶体絶命、だった。


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