第31話 それぞれの対策
藤ヶ谷と公式戦でぶつかるのは、これが三回目だ。
初顔合わせは中二のときの文部科学大臣杯予選。二回目は今年の全道大会予選リーグ。いずれも負けている。特定の相手に負けが混むと、苦手意識みたいなものが植えつけられることが多い。実際、僕は藤ヶ谷を苦手に思い始めている。
一回目は雁木を右四間飛車で攻め潰された。二回目は将棋の純文学と呼ばれる相矢倉でがっぷり四つに組み合い、綺麗に負けた。
相居飛車で、藤ヶ谷に勝てるイメージが湧かない。かと言って、僕に振り飛車はできないし、付け焼刃が通用する相手でもない。……なら。
先手を取った僕は、戦型を相掛かりへと誘導する。お互い飛車先の歩を交換した次の局面。
「へえ、横歩取りにはしないんだ」
僕は飛車を六段目に据えて引いた。横に取れた歩を取らずに。
「生憎、平和主義な棋風をしているので」
少しだけ不思議そうな顔をした藤ヶ谷と数手進めた後、僕は今回の作戦を明確に宣言する一手を指した。
「7五歩? まさか、飛車をひねるつもり?」
「……自分、居飛車しかできないもので。飛車を振るのは性に合わないんだ」
「……ちっ。そういえば、確かに高校棋戦でも何局かあなたひねり飛車採用していたわね」
今回僕が採用したのは、ひねり飛車と呼ばれる戦法。見た目はほとんど石田流と呼ばれる三間飛車に似ているのだけど、決定的な違いがひとつある。
それは相掛かりからスタートする兼ね合いで、先手が一歩持ち駒にして駒組みができる点。その一歩を利用して積極果敢に仕掛けられるんだ。
思惑通り僕は飛車を右辺から左辺に転回。僕の変化球とも言える戦型のチョイスに藤ヶ谷は若干ではあるが時間を使った。切れ負けの将棋は持ち時間も明確なダメージになる。こういう細かいところでポイントを稼がないと、僕の力じゃとてもじゃないけど太刀打ちできない。
そこからも駒組みを進める展開になった。本来であれば手持ちの歩を活かして積極策に出たかったけど、さすが藤ヶ谷、実践例が多いとは言えないひねり飛車の知識も持ち合わせており、僕の仕掛け筋を牽制しつつかっちりと手堅く囲い合う持久戦調の将棋へと誘導していった。
こうなると膠着状態気味になってしまう。僕の仕掛けたいポイントはきっちり藤ヶ谷がマークしており、無理に仕掛けると反撃を喰らってしまう。
……まあ、幸いにして持ち時間は五分程度僕のほうが残っている。「手待ち」の将棋になれば優位なのは時間が残っている僕だ。強引に攻める必要はどこにもない。
ここは一旦、自玉をさらに手堅くさせる一手を……。そう考えつつ僕は攻撃に使う予定だった三段目に位置していた銀を引き、金銀銀三枚の美濃囲いを完成させた。
「いかにも、麦田らしい指し回しね。久美とは正反対」
出来上がった囲いを見下ろしては、頬に手を当て思考する藤ヶ谷は淡々と僕に話しかける。
「……北海道屈指の女子高生棋士にお褒めに預かり光栄です」
「久美が勝ち切る将棋なら、麦田は負けない将棋。ほんと、中学のときから変わんない。あなたの言い分はこう。『互いに仕掛けにくい。仕掛けたほうが悪くなる将棋だ。僕のほうが持ち時間が残っているから、手待ちを続けて私を時間攻めしよう』ってことでしょ」
「……想像にお任せするよ」
「別に、勝ちかたは人の数だけある。特に、泥臭く勝ちを拾おうとするタイプのあなたは、ときにその手段を選ばない。いいんじゃない? そういうの、私は嫌いじゃない。でも──」
持ち時間の差が五分から八分に広がった頃合い。
「──あなたは、私の攻めを受けきれない。過去二回の将棋が、それを証明している。だから。今回も攻め潰す」
藤ヶ谷は僕にそう宣言してから、お互いの王様があるほうの端歩を突き捨てた。
「……ここで、端攻め?」
いや、さすがに無理攻めだ。困ったときの端攻めっていう格言はあるけど、いくらなんでも無理なものは無理だ。こんな攻め、繋がるわけが……。
一抹の不安を抱きつつも、僕はすぐにその歩を取り返す。次の瞬間、藤ヶ谷はノータイムで僕の桂香の焦点に唯一の持ち駒である歩を打ち込んだ。
「……っ」
あの日、あのときと全く同じ、口端だけ緩めて表情を崩す、不敵な笑みとともに。
何か僕に見えていない手があるのか? そんな手が? でも、藤ヶ谷のことだ。初めて当たったときも、僕が見えなかった手で攻めを繋いで僕を負かしたんだ。何か、何かあるに違いない。
じゃあ、もし僕がこの対応を誤ったら、とんでもないことになるかもしれない、のか……?
過去の苦い思い出が、藤ヶ谷への苦手意識と、ある種の「信用」が僕の指し手を鈍らせる。
せっかく積み上げた持ち時間のリードは、一気に元の五分に戻ってしまった。これで僕はあと二五分、藤ヶ谷は二〇分。じわり、額に汗が浮かぶのを自覚する。
……逃げ切れ、大丈夫、逃げ切れる。僕はやれる、やれるんだ──
〇
ほんとだ。麦田さんの言う通りに雁木に組んだら吉原さん、急戦調の将棋を志向してきた。
大会直前の期間、麦田さんに吉原さん対策として仕込んでもらったのは、金銀四枚でバランスを取る雁木と呼ばれる戦法。
「……何日か、将棋センターに通って吉原さんの将棋を見て、あと、ネット将棋のアカウントもちょっとした伝手を使って調べて、100局程度並べて彼女の癖とか傾向を掴んできた」
「……癖、ですか?」
「そう。駒落ちで吉原さんと指したことはあっても、平手ではどういう将棋を指すか高井さん、全く知らないでしょ?」
「は、はい」
「相手の得意戦法、苦手とする戦法、指し手の癖、棋風。基本的に知っておいて損はない」
吉原さんは居飛車党で、激しい将棋を好む。実際、採用する戦法は相横歩取りだったり、急戦矢倉だったり、あまり自玉を固めない傾向が強い、らしい。……私とは、真逆だ。
「ぶっちゃけ、激しい将棋になって吉原さんのペースに持ち込まれたら、きついでしょ?」
「だ、だと思います」
「雁木のいいところはね? 相手の戦法に関わらず絶対に雁木にできるってことなんだ。そして、ね? 恐らくだけど、吉原さんは対雁木の経験局数が全くない、もしくは極端に少ないんだ」
前傾姿勢を崩さないまま盤面を見下ろす吉原さんは、チラッと残り時間を確認してから、素早い動きで攻撃の銀を進軍させてきた。速攻を仕掛けるつもりだ。
普段の私だったらこれから訪れるであろう攻撃に怯えるかもしれないけど、今日は怖くない。
「多分だけど、高井さんが雁木に組み上げたら、高い確率で吉原さんは、棒銀・早繰り銀・右四間飛車のいずれかで積極的に攻撃を仕掛ける。……ましてや、高井さんが相手なら、今度は攻撃を刺し切るつもりで、絶対に踏み込んでくるに違いない」
「だ、大丈夫なんですか? 吉原さんの攻めをモロに受けたら、私はひとたまりもないんじゃ」
「大丈夫。どれで来ても、雁木側にはカウンターの策がある。吉原さんと、勝負できる」
だって、麦田さんに教えてもらったから。わざわざ自分の時間を使って、吉原さんのことを研究してくれて、私が勝てるように策を授けてくれた。……勝つんだ。今度こそ、勝つんだ。
「……練習対局会のときからどれだけ強くなっているかと思ったら、今日も全敗じゃないの。いい加減、恥ずかしくないの? いつまで経っても勝てないのにメンバー入りして」
吉原さんの言葉に、私は何も言い返さない。……事実は事実だ。今日も全敗。この間の練習対局会も全敗。全道大会も、春の支部大会も、全敗。
……何回か通った将棋センターでは勝ったことはあっても、未だに「練習対局会」「公式戦」では私は全敗だ。……不戦勝、あんなのは勝ったうちに入れられない。
そんな私が、今もこうして団体戦の席に座っているのだから、メンバー入りを目指す吉原さんからすれば腹が立つのも無理はない。
「この間と違って、今は学校の名前を背負っているの。前みたいにみっともない将棋にはさせない。アピールを続けないといけない私にとって、あなたとの将棋を落とすわけにはいかない」
吉原さんはそう言うと、私の角頭めがけて攻撃をしかける。頭が丸い(=前に動けない)角や桂馬を攻めるのは常套手段だ。でも。
「……させない」
私は、ターゲットとなった角をひとつ引いた。これは、ただ単に相手の攻撃を空ぶらせる狙いだけの手じゃない。
次の瞬間、ひとつ引いた角をさらに中盤の好所に転回。角の二段活用の銃口は、
「私だって、札幌豊園の名前を背負っているんだ。今日は、吉原さんに勝つ、絶対に」
初期位置で鎮座したまま機を窺っている吉原さんの飛車に向いていた。
「……飛車取りが、受けにくい……の?」
これが、麦田さんから教えてもらったカウンターのひとつ。
もし銀を進出させて角をいじめようとしてきたら、目標となった角を転回して逆に相手の飛車に狙いをつけよう。
対応が難しいから、いくら吉原さんと言えど正しく指すのは簡単じゃない、って。
この飛車取りに対して、飛車が縦に逃げると角で香車を取られる上に、私は馬を作れる。
歩を打って角道を遮断するのは、打った歩に対して私が歩を合わせて反撃が続く。
飛車を横に逃がすとすぐの追撃手は無いけど、飛車が端っこに追いやられて攻めに利かなくなるから、吉原さんの棋風とはそぐわない。
選択肢は、たくさんある。たくさんあるけど、どれもネックとなる要素がある。
「……答えて。どうするの? 吉原さん」
持ち時間がじわり、じわり減っていくなか、吉原さんは応手に苦慮する。
……よし、ペースを掴んだ。これで優勢、勝てるなんて言えるほど私は強くない。ないけど、この将棋。いけるかもしれない。
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