第26話 最後の夏を、もう一度

 結論から言う。やっぱり久美は僕の数段上を行っていた。

 間に合わないと踏んでいた久美の攻撃は、僕の予想だにしない手によって一気に加速し、ノーガードで真正面から殴り合う格好になった。互いに囲いの金銀はポロポロと剥がれ、どちらの竜も馬も王様に肉薄している。油断していると、一瞬で詰まされてしまう、そんな局面だ。


 ただ、どうしたって攻めの技量は久美のほうが上で、もう速度で久美を上回ることができない状況まで来てしまった。


「……やっぱり、正面からの真っ向勝負じゃ敵わない、か。……でも」

 迫る秒読みに追われながらも、僕は落ち着いて、自分の王様を一段上へ非常梯子を登らせた。


「……ここから、でしょ?」

「っっ、そうこなくっちゃ、むぎくん」

 それは、久美が僕の玉頭から攻め込んだことによって生まれた脱出ルート。攻撃を受けて空いた屋根の穴から命からがら逃げだす、まさに敗走だ。


「なんか、この感じ、懐かしいね。お姉ちゃん」

「ほんと、翔ちゃんが本気出して粘ると長いから。さて、二杯目のアイスコーヒー用意しますか」


 しかし敵陣には最強の味方である竜と馬がエリアを確保してくれている。久美の囲いのプレッシャーが効いている中盤さえ走り抜けられたら入玉は確定だ。入玉さえできればっ……!


「負けない、今日は、絶対に負けない……!」

 そんな言葉が口を衝いていた。普段はそんなこと言わないのだけど、空気に当てられたのだろうか、自然と漏れていた。


 対局開始から二時間半が経過し、もうお互いに持ち時間を使い切り、とっくのとうに三〇秒将棋になっていた。


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ──

 僕の王様は、敵陣まであと一歩というところで久美の竜と仲間たちに捕まり、逆に自陣方向へと追いやられていた。

 ……きっついなあ、やっぱり。やっぱり、そんないきなり勝てる相手じゃないよなあ……。


 僕は自分の王様の近くに、最後の抵抗とばかりに持ち駒の金を静かに打ちつける。

 数瞬の確認の後、久美は迷うことなくその抵抗をきっちり無効化していく。

 わかっている。即詰みだ。研修会八連敗の面影は、もうどこにも残っていなかった。


「……負けました」

 最後の一手を指されたのを見て、僕は駒台に手を置いて頭を下げた。

「ここ最近で、一番悔しいよ」

「……今日も、勝ち切るのに苦労したよ。ほんとにっ」

 対局が終わると、互いにどうするでもなく、勝手に表情が綻ぶ。悔しいはずなのに、僕も笑みが零れてしまう。


「はい、アイスコーヒーと久美ブレンドのおかわり。……もう九時回りそうっていう事実に私は震えているよ。持ち時間の設定ミスったかなあ……」

 いつの間に「CLOSE」の札がかかった「にゅうぎょく」。苦笑いしながらもリラックスした様子の春来さんもカウンターから出て僕らの輪に入って自分で用意したコーヒーを口に含む。


「それで? 結局少年漫画みたいな展開になっているけど、どうするのこれから」

「……ここまでされて、団体戦を断わる度胸はないです、僕」

「まー、実質翔ちゃんだけ持ち時間一五分近く空費させられてるからね。翔ちゃんにもし時間が残ってたら、どうなってたかわからない節はあるし、久美相手にどうなるかわからない勝負できる時点で、実力は保証されてるようなものだよね」


「むー、春ねえ、まるでわたしが時間攻めでむぎくんに勝ったみたいな言いかたするー」

「……いや、一五分のハンデは大きいでしょ。普通に考えて。ましてや長考派の翔ちゃんだからね? 久美みたいに、反射神経で生きてるんじゃないんだからね?」

「……勝ちは勝ちだもん」

「まあ、そこはさて置いて」

 さて置くんだ。置いちゃうんだ。


「……翔ちゃんが団体戦復帰するなら、ちょうどいい時期にちょうどいい団体戦の大会があるんだけど。出てみない?」

 カラン、とコーヒーの入ったグラスをテーブルに置いた春来さんは、普段使いしているタブレットをポチポチと操作しては、あるホームページを僕らに見せる。


「八月下旬、夏休み最後の土曜日に、オール学生将棋団体戦が東京で開かれるの。同一の学校で五人揃えば、小学生から大学生、大学院生まで全ての学生が参加できる大会なんだ。予選とかはないから、都合さえつけば出られる」

「……え、五人、ですか?」


「うん。あなたたち、五人いるじゃない。久美、翔ちゃん、歩夢、長谷川くん、それに彩夏も」

「えっ、私も出るの? お姉ちゃん。私、受験生なんだけど?」

「どうせ彩夏、指定校推薦で札幌学園大学入るつもりなんでしょ? ならちょっとくらい遊んだって罰当たらないって」


「……お姉ちゃん、それ他の受験生が聞いたら後ろから刺されるよ」

「とにかく。翔ちゃんが団体戦に出る気になったのはいいけど、結局苦手意識があるのは事実でしょ? 歩夢だって、全道大会の悔しさを晴らしたいだろうし。団体戦の負けは、団体戦でしか返せないんだよ。それで、どうせ秋の支部大会はみんな個人戦で出るでしょ? 新人戦、団体は全国ないし。ってことは結局次の団体戦の真剣勝負って、最後の全道大会でしょ? その前に、ちゃんとした大会を経験するのは大事だと思うよ」


 春来さんの提案を、息を呑んで聞く僕ら三人。が、話が話なのでなかなか返事をすることができないでいると、

「……うん、わかるよ。東京開催だからね? はいじゃあ出ますってすぐに決められないのもわかる。久美と翔ちゃんはともかくとして、一年生ふたりに関しては親御さんの許可も必要になるだろうし。もちろん、顧問の先生には私から話通すから。豊園高校OGとしてね。それに宿泊先のホテルについては、私に当てがあるから任せて」

 僕らの懸念事項をほとんど吹き飛ばしてしまう春来さんの力強い言葉が飛んできた。


「……あ、当てと言いますと?」

「私が総文祭出たときの団体戦のメンバー、女の子のほうね。その子、今都内のホテルの従業員やってるんだ。私もちょくちょく東京で対局あるときに社割効かせて使わせてもらっているし、今回も頼んでみる。後輩のためだったら、きっと協力してくれるはず」

 ……それはまあ、なんと強力な当てなことで。


「交通費は……。ねえ、翔ちゃん。今年の部費の使い道ってもう決めてる?」

「え? いえ。まだ何も。一円も使ってないんで、綺麗に残ってますけど……あ」

「よし。綺麗に残ってるなら、千歳羽田往復の航空券の足しにはなるでしょ」

「そ、それは、そうですね」


「それでも足りない分は、一応豊園高校将棋部のOB会連絡網みたいなのがあるから、ちょっとそこに相談してみる。だから、お金のことは心配しなくていい。出る価値は、ある大会だと思うよ。なんせ、全国から学校が集まるからね。大学生チームから、総文祭常連の強豪校も。中学生だって、小学生だって集まる」

「……わたし、出たい。その大会、出たい」

 久美の返答は、すぐだった。ある意味、予想通りだけど。


「春ねえの言った理由もあるし、それに。わたしはまだ夏ねえと最後の大会出てない」

 確かに、久美は今年の全道大会を欠場して、彩夏さんと最後の大会に出ることはできなかった。僕と同じくらい長い間一緒に将棋をやってきた彩夏さんと最後に団体戦に出たいって気持ちはわかる。


「後輩にそんなこと言われたら、私も出ないわけにいかなくなっちゃうよ、もー。いいよ、私も出る。出るし自分の分のお金は自分で出す。お年玉とお店の手伝いのバイト代で貯金あるし」

「……夏ねえ!」

 まあ、そんな後輩の期待を裏切らないのも彩夏さんだ。本間姉妹は、共通して気のいい後輩思いの人だから。


「……僕もここのバイト代でなんとかできるんで大丈夫だと思います。なので、あとは高井さんと長谷川君ですけど……」

「もう善は急げだよっ。今あゆちーに電話してわたし聞いちゃうよっ!」

 今この場にいる三人の参加の意思が揃ったところで、久美は勢いよくスマホを手に取り、高井さんに電話をかける。


「は、はい。高井です」

「もしもしあゆちー。八月にむぎくんと東京行くんだけど、あゆちーも来ない?」

「……へ? と、とうきょう?」

 おい、なんだその誤解しか招かない誘いかたは、色々と情報が足りてないって。


「あ、あれ? 今麦田さんと米野さんって……あれ? で、でもふたりで東京行くってことはうまいこと仲直りしたってこと? そ、そんなタイミングで東京? ……東京? …………。…………。……い、行きます。わっ、わ、私も行きますっ!」

 あれ。……なんか、秒でゴーサイン出たし。


「わーい! 話が早くて助かるよーあゆちー。じゃあ、そういうことだから、あゆちーのほうからこーたんも誘っておいてくれないかなー」

「……? え? 洸汰くんも? ですか? ……?」

 うん、伝わってないよ話。一から十まで伝わってない。やっぱ駄目だ、このまま話進むととんでもないことになる。


「久美ちょっと電話かわって」

「ああっ、むぎくんー」

 久美からスマホをひったくり、僕は場を落ち着けようと試みる。


「もしもし麦田です。高井さん、久美は東京で開催される団体戦の大会に誘ってるんだ。五人制で僕と久美と彩夏さんは出るって決めたから、あと高井さんと長谷川君の意思を確認したくて」

「むっ、麦田さん? あ、そ、そういうことだったんですね。な、なるほどです。てっきり、私、麦田さんと米野さんがふたりで──あっ」「……あっ?」


 しばしの沈黙の後、久美のスマホから聞こえてきたのは、

「っっっっっ! なっ、な、なんでもないですっ! わっ、忘れてくださいっ!」

 もう店中に響くくらい大きな高井さんの悲鳴だった。

 ……なんだろう、落ち着けるはずが逆効果になってしまったんだけど。


「と、とりあえず詳細をラインで送るから、一読して考えてくれると嬉しいかなー。それじゃあ、夜遅くにごめんねー、おやすみなさーい」

「あっ、は、はいっ。おやすみなさいですっ」

 ピロン、とSEが鳴り響くと通話が終了し、僕は無言でスマホを久美に返した。のだけど。


「……なんていうか、翔ちゃんって」「……麦田くん、罪作りな男の子だよねえ」

「え? 僕が怒られるんですか?」


 春来さんと彩夏さんのふたりから、憐れむような目で僕は見られていた。

 一体どうして、オチがこんな形で落ち着くんだ。

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