第25話 もう一度でいいから、隣に
これまで対局中、ひとことも言葉を発しなかった久美がとうとう口を開いたかと思えば、僕の指し手を制した。
「は、は?」
「……見えているんだよね? この緩手を咎める反撃手が。むぎくんに、見えないわけないもん。なら、踏み込んできてよ……!」
「……7五角のことを言ってるの? 見えてはいるよ、そりゃ。見えないわけない。……ただ、角を攻めに回して勝ち切れる自信がないってだけだよ。それ以上でも以下でもない」
僕が口にした符号を聞き、少しだけ嬉しそうに頬を緩める久美。が、しかし、切実な口調は変わらないまま、
「……あの日から。文部科学大臣杯の北海道予選の日から。むぎくんは自分から攻めようとしなくなったっ。チャンスなのに、むぎくんの実力なら十分攻めきれるはずなのに。最初から攻め勝つっていう選択肢を捨てて、受けに回るようになったっ」
「……久美が、言ったことだろ。僕に、攻め勝つ才能なんてない」
「っっっ。……そんな、そんなつもりで言ったんじゃなかった。ただ、むぎくんに責任を感じさせないようにってつもりで、わたしはっ」
僕の手が盤上に止まっているのも変わらないまま、久美は話を続ける。
「……むぎくんを貶すつもりで、言ったんじゃなかった、のにっ……!」
刻々と秒を刻んで減っていく僕の残り時間。久美の訴えに押され、「……失礼しました」と漏らし一度掴んだ竜を僕は元の位置に戻す。
「……逆に、むぎくんを追い詰める結果になった。なら、せめてっ、わたしは絶対に負けないようにっ、わたしが勝てば、むぎくんにかかる負担も減らせる。わたしが強くなれば、むぎくんはもっと楽になれるっ。そう思って、研修会に入ってっ……!」
「……は? へ、どういうこと……?」
あまりの発言に、僕は自分の手番だと言うのに呆けてしまう。それは、居合わせていた春来さんと彩夏さんも同じみたいで、あんぐりと口を半開きにさせていた。
「……女流棋士を目指すとか、そんなことは全然考えてなかった。ただただ、団体戦のために、強くなりたかった。……そうすれば、きっと今までと同じようにむぎくんはついてきてくれる、って信じてたっ……」
何を、言っているんだ久美は。女流棋士とか、関係なしに研修会に入った……? 女流棋士育成機関っていう側面がある、研修会に……?
「でも。もう、むぎくんはついてこなかった。……そのとき、気づいたよ。わたし、言っちゃいけないこと言ったんだって。取り返しのつかないこと、したんだって」
じゃあ、僕を置いていく猛スピードで強くなっていったのも、全部、団体戦のためで、もっと言えば、僕のためだったって言いたいのか、久美は。
「……謝ろうにも、そもそもむぎくんは謝って欲しいだなんて思ってないし。総文祭のチャンスもあと一回になって、後がなくなったのに、むぎくんは団体戦を辞めるって言いだすし。なんとか引き留めようとして、でも断られて。もう、気持ちなんてぐちゃぐちゃになって」
どこまで久美は、馬鹿なのか。純粋なのか。一体どうして、そこまで団体戦にこだわれるんだ。
「色々考えたよ。むぎくん抜きで団体戦挑むか、それともわたしも女子個人に回って総文祭狙うか、……女流棋士になるって道を、真剣に考えるべきなのか」
膝元にしまった僕の左手が、じわりと震えだす。凍りついていた指先が、今にも解けだそうとしている。
「……いっぱい考えた。考えたけど、足りないんだよ。足りない。……だって、わたしが将棋を続けてこれたのは、むぎくんのおかげだからっ。ここまで強くなれたのも、むぎくんが一緒に将棋をしてくれたからっ。むぎくんが付き合ってくれなかったら、きっとわたしはすぐに将棋に飽きてた。全く別の人生送ってたっ」
じわり、ズボンの膝部分が、何かで湿っぽくなる。汗なのか、それとも別のものなのか。
「だからっ! わたしは、むぎくんと一緒に総文祭に行きたいっ。ひとりじゃ、別々なんかじゃダメ、一緒じゃないと、意味が無いんだよっ! 虫が良いこと言っているのはわかってる。あんなこと言っておいて、隣に座って欲しいなんて都合がいいのもわかってる。でもっ」
ピッ。
残り時間五分を時計が知らせた瞬間。
「今まで一度だって一瞬だって、負けると思ってむぎくんの将棋を見たことはないっ!」
今日一番の久美の叫び声が、店に響いた。
「むぎくんの『負けない力』は一筋縄じゃいかないの、わたしが一番理解してるっ。だって、今まで数え切れないほどむぎくんと将棋指してきたけど、楽に勝った将棋なんてひとつだってないっ。むぎくんは強いんだよっ。わたしはむぎくんが強いこと知ってる。ただ、わたしが昔言った言葉のせいで、むぎくんが自分に限界決めてるだけなんだよっ!」
「限界、決めてるって……そんなの」
「子供たちに将棋を教える側のむぎくんが、自分で自分に限界決めるの、良くないよっ」
「限界がどうとかそんなの関係ない。僕は勝てない。勝てない奴をチームに置く理由なんて」
「もうっ! もう……むぎくんひとりにチームの勝敗背負わせたりなんかしないからっ! チームが勝ったら一緒に喜べるし、負けたときは一緒に悔しさ噛みしめるからっ。だからっ!」
残り、三分。
「……もう一度。もう一度でいいから、わたしの、隣に座ってください……」
ここまで感情むき出しで言葉を紡いできた久美が、最後の最後で丁寧な口調でそう訴えると、深々と頭を下げて見せた。
沈黙を貫いて久美の独白を見守っていた彩夏さんも側に近づいては、僕の肩をポンと叩き、
「……私もさ。麦田くんに謝らないといけなかったんだ。ほんとは。あの日、藤ヶ谷さん相手に必死になって勝とうとしている麦田くんの横で、ひとりみっともなく負けてさ。タイミングも最悪で、プレッシャーになったよね。なのに、私ったら頭真っ白になって自分のことでいっぱいいっぱいになっちゃって。……年上なのに、二敗目な分ダメージだって麦田くんのほうが大きかったはずなのに。何も、助けてあげられなくて。……ほんと、ごめんね」
久美に続き綺麗なお辞儀を僕にする。
「……だから、麦田くんと同じ思いをした歩夢ちゃんまで、私は潰したくなかったんだ。これ以上、過ちは繰り返せない。麦田くんなら、歩夢ちゃんを助けてくれる。そう思って、私は久美ちゃんに提案したんだよ。麦田くんに、歩夢ちゃんを任せないかって。何か、麦田くんにいい影響を与えてくれるんじゃないかって、期待も込めて」
持ち時間はあと一分を切った。
「気づいているでしょ、麦田くん。歩夢ちゃん、麦田くんにそっくりなんだよ。努力家なところも。それなのにあまり努力が報われないところも。負けたくないって気持ちは人一倍強いところも。だからこそ、団体戦での負けの責任も背負い込んじゃうところも。攻めより粘りのほうが強い手指すのも。将棋に関するところの何もかもが麦田くんに似ている」
「……僕を買い被りすぎじゃないですか」
「ううん。事実だよ。だから、断言できる。もしこのまま麦田くんが団体戦を辞めて、久美ちゃんと歩夢ちゃんと、仮に長谷川くんでチームを組んだとして。負けたとして。一番責任を感じるのは、歩夢ちゃんだよ。そうしたら、今度は間違いなく潰れちゃう。私と久美ちゃんふたりの最後の夏を終わらせたなんて思ったら、真面目な歩夢ちゃんは、自分で自分を責めるに決まっている。……そんなの、私は望んでない。麦田くんだって、望んでないでしょ?」
「……それは、まあ、そうですけど」
「君が必要なんだよ、豊園高校には。確かにエースは久美ちゃんかもしれない。歩夢ちゃんだって、優秀な三番手に成長するかもしれない。でもそれだけじゃ勝てないんだよ。麦田くんがいて、初めて、チームになれる。自分で言ったでしょ? 『負けたくないって指し回しは、時に団体戦においてチームメイトに勇気を与えることがある』って。麦田くんから勇気、貰ってたよ。私は」
「わたしだってそうだった。むぎくんが粘っているのを見るとやらなきゃって気持ちになった」
「……ここにいて、いいんだよ。麦田くんがそれを望むのなら、拒む人は将棋部にはいない。それだけの力を、麦田くんはもう持っているのだから。麦田くんが座っているだけで、きっと歩夢ちゃんはもっと力を発揮できる。そうに違いない」
ピピッ。とうとう持ち時間三〇分を使い切り、一手三〇秒の秒読みに入った。
ピッ。……何なんだよ、なんでみんなして。高井さんも長谷川君も、彩夏さんも春来さんも、久美もみんな、僕を引き留めようとするんだよ。
ピッ。せっかく全部諦めて、気持ちに整理をつけようとしたのに。どうして今になって、必死になって勝利を掴み取ろうとする高井さんの姿が脳裏に浮かぶんだよ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ──
なんて僕は、こんな単純な言葉に、絆されようとしているんだよっ。将棋盤の奥底に捨てたはずの感情が、沸々と蘇ってくる感覚が走る。……ああ、そうだ。昔の僕は、いつもこんな気持ちで将棋を指していたっけ。解かされた僕の左手の指先は、自陣深くに眠っていた角を掴み上げ、
「……どうなっても、知らないからね」
三年間選択肢から消し続けてきた攻め合いを、僕は選んだ。乾いた対局時計の打鍵音が鳴り、持ち時間のカウントダウンは久美へと移る。僕の手を見て、嬉しそうに表情を綻ばせた久美は、
「……今日も、絶対に勝つっ!」
これまでとは全く違う、自信に溢れた手つきで垂らした歩を成りこませた。
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