第21話 「負けたくない」の理由

 花火大会当日。七月最後の金曜日に毎年開催される豊平川花火大会は札幌市民にとっての夏の風物詩だ。

 残念ながら、僕は久美のせいで花火を見られた試しがないのだけど。

 この日の僕は夕方まで用事があったため、高井さんとは現地で待ち合わせをすることにした。


 打ち上げ二十分前の一九時二〇分、白石区菊水きくすいと中央区大通東を、豊平川を跨いで繋ぐ水穂みずほ大橋で僕は高井さんのことを待っていた。

 打ち上げ地点から遠い水穂大橋上でも、花火の見物客で賑わっていて、チラホラと中学時代の同級生の顔が近くを通ったりもする。


「……す、すみませんっ。待たせてしまって……!」

 スマホをポチポチと操作していると、デニムパンツにバックプリントの入った白のカットソーを軽く合わせた格好の高井さんが息を切らせて僕のもとにやって来た。


「ううん。僕もさっき用事が終わって来たところだから。全然」

「……きょ、今日はお誘いいただき、ありがとうございます」

「こちらこそ。来てくれてありがとう。どうする? 別にここからでも花火は見えると思うけど、土手に降りて一条大橋のほうまで歩いちゃう? 少しでも打ち上げ地点に近づきたいなら、それでもいいと思うけど」


「……で、でしたらお散歩ついでに、近づくほうで、お願いします」

「おっけ。そういうことなら」

 高井さんの同意も得たところで、僕らは橋の上よりもさらに人でごった返している土手に降りる。豊平川の川淵はサイクリングロードとして整備されており、舗装された道の上を僕らは並んでゆっくりと歩いていく。


「あとちょっとで打ち上げ開始みたい。座れる場所、見つけたほうがいいよね」

「えっ、あ、べ、別に私は立ったままでもっ」

「と言っても、ベンチは大体埋まってるもんなあ……。一応、ビニールシート持ってきているから、高井さんが良ければ堤防のアスファルトの上とかに敷いちゃうけど」

「はっ、はい。大丈夫ですっ。問題ないですっ」

「……なんか高井さん今日やけに恐縮してない? どうかした?」


 ビニールシートを適当な場所に敷き、ふたり並んで座って札幌の夏の夜空を僕らは見上げる。

「あっ、いやっ、ぜん、全然普通ですっ、いつも通りですっ」

「……そう?」

 まあ、高井さんがそう言うなら別にいいんだけど。


 すると蒼黒に染まったキャンパスに大輪の花が、お腹に響いてくる破裂音とともに開花した。

「あ、始まった」

 周囲から漏れる歓声と、花火が打ちあがる音と散っていく音が混ざり合う。スマホのシャッター音もそこらしこから聞こえるなか、僕と高井さんはただただぼんやりと花開いては散っていく夏空模様を眺めていた。


「……あの。ありがとうございます」

「え? 何が?」

 ふと、そんな音に掻き消されてしまいそうなくらい、小さな声で高井さんがボソッと呟いたのを僕は聞き逃さなかった。


「……えっと、その。……将棋部に、いさせてくれたことです」

「いさせてくれた、って?」

「彩夏さんの夏を終わらせて、頭が真っ白になって、申し訳ない気持ちでいっぱいになって。それでも、皆さんは私のことを責めないでくれて。将棋部、続けさせてくれて。……家にも、クラスにも、どこにも居場所が無かった私を、受け入れてくれて」


「……高井さんを責めるわけないじゃん。あの日、二敗目をつけたのは僕だ。彩夏さんの夏を終わらせたのは、僕だよ」

「それはっ、ちがっ」

「……違くなんて、ないよ」

 四千発上がるという花火は、一瞬の幕間を挟んで第二部がスタートする。


「……麦田さんは、どうしても団体戦は、辞めるんですか?」

「辞めるよ。そのつもりで、僕は高井さんに将棋を教えてるから」

「私が、嫌だって言ったら。引き留めようとしても、ダメですか」

「……高井さんまで、そんなこと言うの」

 それと同時に始まったのは、僕への慰留だった。


「……すごく我儘なことを言うのなら。麦田さんに団体戦を辞められると、来年豊園高校でチームを組めなくなるかもしれないから、そうなると、せっかく作っていただいた私の居場所がなくなってしまう。……それは、嫌なんです」

 花火を見上げながら眼鏡の位置を直す高井さん。レンズの奥の表情は、曇っていた。


「嫌、なんです」

「……気持ちは変わらない。引き留めてくれる高井さんには悪いけど、僕はもう」

「どうしても、ですか」

「……どうしても、だよ」

 僕の固い返事に、シュンと高井さんは肩をすぼませる。


「何度も言ってるけど、高井さんの棋力は一切関係ない。これは、僕の問題だから」

「じゃっ、じゃあっ、私に何か手伝えることはありませんかっ?」

 予想もしてなかった高井さんの台詞に、僕は言葉を失った。花火にも目をくれず、じっと僕の顔を見つめる高井さん。


「……な、ないんじゃないかなあ──」

 僕がそう答えようとした瞬間。

「あれ? 誰かと思ったら高井じゃん。ひっさしぶりー」

 およそ好意的とは思えない声音で複数人の同年代女子の集団から、突然高井さんは話し掛けられていた。……知り合い、なのか?


「……な、なんでっ、ここにっ」

「なんでってひどいなー。ウチら同中じゃん、花火見ようと思ったらここら辺で見るの当然でしょー? で? 何? 一緒にいるの彼氏? いーなー、彼氏と花火大会―。ウチら直前に別れたりなんだりで、女三人で花火大会だよー、羨ましいなー高井」


 一歩、二歩、三歩。僕からじりじり離されていく高井さん。そうこうしている間も花火は打ちあがっていて、僕は心配になって腰を浮かしてしまう。


「……そういえば、長谷川は? 幼馴染なんじゃないの? 可哀そうー、中学のとき、表立っては行動しなかったけど、最後まで中立貫いて同じ高校進学したのに、他の男に取られるなんて。同情しちゃうー」

「ちっ、ちがっ、かっ、彼氏なんかじゃっ」

「それで? 長谷川と同じ要領で可愛らしく泣いて落としたの? ほんと昔から変わんないね」

「だっ、だからっ──ひゃっ!」

 瞬間、高井さんから悲鳴が上がったと思えば、ペットボトルの中身が地面にぶちまけられる音が聞こえた。


「あ、ごっめーん、手が滑ってかかっちゃったー。いいじゃん、どうせこの後ベッドの上で脱ぐんでしょ? 好都合じゃん。……やっぱり血は争えないよねー。ビッチの子はビッチってわけだよ。地味ぶって清純アピールしてるのも変わらないんだね、ほんとムカつく」

「……やめてください、やめて、やめてください……はぁ、はぁ……はぁ……はぁ……」

 ボトムスめがけてかけられたのは、よりにもよって炭酸だった。……やることが陰湿過ぎてちょっとさすがに看過できない。


「ええ? 何? 聞こえない。お得意の泣きじゃくりでちゃんと言って欲しいなあ」

「やだ……やだ……怖い、怖い……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 まずい、しかも高井さん、顔色真っ青になってこれ過呼吸起こしかけてるんじゃ。


「高井さん、行こう。もう相手しなくていいよ──」

「いいよねえ、そんなふうに困ってみせれば、優しい男が助けてくれて。そうやって長谷川のこともいいように利用したんでしょ」

「──ちが、そうじゃ、はぁっ、はあっ、はあっ、うううっ!」


 そして、最後の花火が札幌の夜空に花開いたとき。これまでなんとかその場に立っていた高井さんがその場で崩れ落ち、過剰なまでに息を吸い始めた。


「いけない、高井さんっ!」

 ……何か、彼女に事情があるんじゃないかとは思っていた。恐ろしいまでの「負けたくない」っていう高井さんの気持ちの強さ、それは。……こんなところから、始まっていたんだね。


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