第3章

第19話 三〇〇冊以上の関係だって

 〇


 練習対局会の直後に、学校は夏休みに入った。打ち合わせしていたように、夏休み中の部活は僕の家ですることになっている。なっているのだけど、

「……高井さんのやる気、凄くない?」

 グループラインに投げた僕のつけた〇ほとんどに、高井さんは〇をつけていた。


 現に今日も午後から高井さんが家に来る。久美だったら約束しないでも勝手に押しかけるし、もう慣れてしまったというのもあって、大して気にしたりはしないのだけど、後輩の女の子が部屋に来るとなると部活と言えどもそわそわはしてしまう。

 結果、意味もないのに何度も部屋に掃除機をかけてしまう現象が発生。片手で数え切れない回数になった頃合い、家のインターホンが鳴り響いた。


「……はい、こちらが皆様ご所望のクーラーが効いた部屋でございます」

「お、お邪魔します……あっ、すごく涼しい……」

 トートバック片手、ジーパンに白のシャツワンピースの高井さんは、

「あ、これ。お菓子です。……クーラーとお部屋お貸しいただいているので、せめてもの」

 おずおずと僕に小分け包装されているチョコレートだったりクッキーを渡してくれた。


「ほんとに? 別にそんな気遣わなくてもよかったのに」

「いっ、いえっ。そ、そういうわけには」

「久美なんて、一度もお菓子持って来たことないけどね。あんなに家入り浸っているのに。はは」


 テーブルの上に並べて置いた将棋盤に向かい合って座ると、僕は予め用意しておいたペットボトルのお茶をコップに注ぎ、頂いたチョコレートを早速ひとつ食べさせてもらう。


「お菓子、ごちそうさまです」

「全然です、出がけの途中、スーパーで買っただけですし」

「……ちょっと、意外だった、っていうか」

「……意外、ですか?」

「うん。……正直、もっと落ち込んでるかと思っていたから」


 この間の練習対局会の様子からして、しばらくは駄目そうかななんて思っていた。実際、研修会でBがついた久美は未だに僕に接触してこようとしない。全道大会であれだけ泣きじゃくっていた高井さんが、こんなにあっさり復活するとは考えてなかった。


「……落ち込んでは、いるんです。あれだけ頑張ったけど、結局また勝てなかったことは、率直に悔しいですし、不甲斐ないです」

「練習対局会のときも言ったけどさ、高井さんのやっていることは、間違ってないよ」


「……はい。麦田さんがそう言ってくださるなら、それを信じます。でも、間違っていないなら、それはもう単純に私の努力不足ってことじゃないですか。だとするなら、私がすべきなのは、落ち込むことじゃなくて、もっと頑張ること、なので」

「……そっか。じゃあ、そろそろ今日の勉強を始めようか。この間の練習対局会の棋譜って、覚えてたりする? 僕、ほとんど見れてないから、どんな将棋だったのかなって」

 高井さんの気持ちの強さに目を丸くしつつ、僕は本題に入る。


「……す、すみません。棋譜は、覚えられなくて、取れなかったです」

「おっけ。まあ、そうだろうなとは思ってたから。聞いてみただけ。とりあえず。この間の練習対局会は基本的に相手が悪かったって思っていい。特に午前中の相手なんか、団体戦なら各校のエース級だから。気に病んでもしょうがない。とにかく、自分と近い棋力の相手にはしっかりと勝てるようになっていければ、それでいいから」


「は、はい」

「なら練習対局会の検討はひとまず置いておいて。とりあえず十五三〇の六枚で一局やろっか」

 僕は手持ちの対局時計を十五分三〇秒に設定し、自分の駒を六枚落とした。


「「よろしくお願いします」」

 六枚落ちで始まった今日の一局目は、高井さんの目覚ましい棋力の向上に驚く内容となった。

 僕と六枚落ちで指すようになったのはテスト前のことだ。それから僅か数週間のうちに、もう僕は高井さんの攻撃を抑えきれなくなっている。


「……神様に愛されてるのかってくらい、凄まじい伸びだよなあ……」

「え? な、何かありましたか? 麦田さん」

「ううん。なんでもないよ。強くなってるなあ、って思ってただけ」

「……あ、ありがとうございます……」

 結果、為す術もなく僕は高井さんに王様を捕まえられ、ゲームセット。結果も内容も申し分なく、同じ六枚でも吉原さんとのときとは別人の強さだった。


「……これはもう、六枚じゃ相手にならないや。次からは四枚落ちにしよう。凄いよ、高井さん。単純に級が六つくらい、棋力が上がっている計算になる」

「え、えへへ……。で、でも、まだまだなんで」

「次、とりあえず四枚落ちのときの考えかたを教えようと思うんだけど、どうする? 一局終わった後だし、ちょっと休んでからにする?」

「いえ。私はいつでも大丈夫です。麦田さんさえ良ければ、すぐにでも」


 僕に褒められて目が緩んだのも束の間、すぐに高井さんは表情を引き締めて盤面を見つめる。


「……そ、そう? それなら、始めちゃうか。えっと、四枚落ちからは、今までの八枚・六枚とはガラッと攻撃の考えかたが変わります。駒落ち戦で躓く人が多いのも四枚落ちっていう印象だね。どうしてか、わかる?」

「……け、桂馬ですか?」

「正解。上手に桂馬が入ることによって、守備力が格段に上がります。っていうのも」

 僕は四枚落ちの初形図から、上手の桂馬が利いている歩を立てていく。


「桂馬が守っている地点は、今まで八枚六枚のとき真っ先に攻め込んでいたところだからです。もっと突っ込んでいえば、角が成りこむ場所だよね」

「な、なるほど」


「これまでは金銀の二枚でしか守っていなかったのに、桂馬も加わって三枚になるわけだから、数の攻めをすると四枚必要になるんだよね。これがまあ大変。だから、躓いちゃう子が多いわけ」

「そ、そうなんですね……確かに、ぱっと見でも攻めるの難しそうです……」

「うん。難しいかも。とりあえず、有名な二枚落ちで使える定跡を今から教えるよ。二枚と四枚は考えかたが似ているから、定跡の応用も効きやすいし──」


 普段の放課後だと、内容が濃すぎて時間をかけて教えられない定跡も、夏休みなら丁寧に噛み砕いて説明ができる。高井さんは真剣な面持ちで、時折僕の説明をノートに取りながら理解を深めようとしていた。


「……ふう。とりあえず二枚と四枚はこんなふうにするといいと思うよ」

 かれこれ二時間くらい。授業二コマ程度の時間、僕は高井さんにレクチャーしていたことになる。……さすがに疲れた。


「ごめん、ちょっと休憩にしていい? トイレ行きたくて」

「全然全然っ、気にしないでくださいっ。むしろこんなにしっかり教えていただいてありがとうございます」

 少し痺れた足を運んでトイレで用を足し、キッチンから無くなりかけていたお菓子のおかわりを持ちだす。


「お菓子、持って来たけどまだ食べる──?」

「はわわっ!」

 部屋に戻ると、僕がいない間に本棚にしまっているノートをパラパラと立ち読みしていた高井さんが僕に驚き、持っていたノートを落としてしまった。


「すっ、すみませんっ、つ、つい気になってしまって」

「……久美との棋譜、ね」

 高井さんが読んでいたのは、僕が記録していた久美と指した将棋の棋譜、の一部だ。


「いいよ、別に。見られて困るもの、表に置いてないし」

 久美が部屋に突撃してくるのに、表に見られて恥ずかしいものを置くのは自殺行為だし。


「……この本棚のノート、もしかして全部米野さんとの将棋の棋譜、ですか?」

「うん。……かれこれ、二万局以上は、久美と将棋指したかな。棋譜を取れるようになってからは、全部記録を残すようにしてる」

 そのノートの数は、三〇〇冊を超えている。勝った将棋も、負けた将棋も。千日手や持将棋で引き分けになった将棋も全部、僕はノートに残した。


「物凄い、数、ですね……」

「暇さえあれば久美と将棋をやらされたからね。そりゃ、これだけの数に膨れ上がるって話だよね。通算だと、どうかな。六割五分くらいは久美が勝ったんじゃないかな」


「そ、そんなに米野さんとは差がついたんですか?」

「うん。今も、離されていく一方だよ。……きっと、いい勝負だったのがこれからは十回に三回しか勝てなくなって、そのうち一回になって。気がついたら、勝てば儲けものって思うくらい、久美は強くなるんだ」


「そ、そんなことっ。む、麦田さんだって全然っ」

「前に言ったよね。僕の強くなる原動力は、『久美に負けたくない』って気持ちだって。……最近ね。駄目なんだ、僕。久美に負けても、悔しいと思わなくなってきた」


 最新のノートを手に取っては、僕はパラパラと棋譜を眺める。負け、負け、負け。勝ち、負け、負け、勝ち。また負け、負け、負け。

 これだけ久美に対して負けが混んでいるのに、僕は何とも思っていない。仕方ないって、心のどこかで諦めてしまっている。


「久美に負けた悔しさを忘れないために、取り始めた記録だったはずなのにね。負けた棋譜を何度も何度も並べ返して、ああすればよかった、こうすれば勝てたって、自分で歯を食いしばりながら反省して」


 昔のノートのほうが、使い込まれてページがくたびれているのはそういうことだ。経年劣化っていうのもあるかもしれないけど、それ以上に、小学生、中学二年までのノートのほうが、明らかに汚れている。逆に、高校入ってからのノートは小奇麗なまま。


「……僕はもう、これ以上強くなれない。負けて悔しいって思わなくなった人間に、成長なんてない。それでも、さ。春来さんの教室で子供たちに将棋を教えるのは、結構好きでさ。今こうして高井さんに教えている時間も、僕は結構気に入っててさ。……どれだけ熱が冷めてしまったとしても、結局将棋からは離れられないんだなって。……僕から将棋を取ったら、何も残らないもの。だから、教えるって形で、しがみついているんだ」


「む、麦田さん……」

「久美に悪いことをしたって思っているよ。きっぱり僕が将棋から離れないから、中途半端に期待させて、その期待を僕は裏切って、今久美は大スランプに陥っているらしいって」


 もう時刻も夕方に差し掛かっている。いくらなんでも学校の補習も終わっている頃合いだろう。普段の久美だったら、補習が終わって家に帰るなり、家に突撃するか紙コップを鳴らすかして僕を将棋に誘うだろう。でも、今日もそれはない。


「……ノート三〇〇冊以上の関係もさ、壊れるのは一瞬だったってわけだよ。積み上げるのに十年以上かかったのにね。ほんと。……自分語りが過ぎたね。ごめん、余計なこと話した。それじゃ、ひとまず一局四枚で指してみよっか」


 ピクリとも動かない紙コップと神妙な面持ちの高井さんを交互に見やっては、僕は将棋盤の前に座る。


「……大丈夫。僕がどうなったとしても、約束は守る。ちゃんと来年の全道大会までに、高井さんを強くしてみせるから。それが、せめてもの久美への償いだから」


 初めての四枚落ちは、やはり高井さんにとって難しい将棋になった。途中までは上手く指せていたのだけど、僕に攻めを切らされてしまい、あえなく負けてしまった。

 それでもへこたれずに、改善点を探して少しでも強くなろうとする高井さんの姿が、昔の僕と重なって、眩しかった。


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