第18話 足りない

 練習対局会が終わった後、頭が真っ白になっていた私は、自然とその場所に足を運んでいた。

「……足りない、まだ、これくらいじゃ足りない。足りないんだったら……もっと、もっと」


 学校近くにある「にゅうぎょく」にフラフラと立ち寄ると、今日は春来さんの姿はカウンターになく、代わりに恐らくマスターのお父さんがカウンターに立っていた。

「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」


 ……そっか。麦田さん言ってたっけ。今日は研修会があるって。春来さんもそっちに行っていたのかもしれない。プロの女流棋士さんなわけだし。そっか、そうだよね。そもそも今日、教室開いているわけじゃないし。


 ここに来れば、少し将棋を勉強できるかもしれないと思った自分の浅はかな考えを恥じ、私は隅っこの空いているカウンター席にちょこんと座った。

「……えっと、アイスカフェラテひとつ、ください」

「はい、ただいま」


 いつも教室が開かれる賑やかな雰囲気とは一変、物静かな空間にマスターのお父さんがカフェラテを作る音とBGMのジャズだけが聞こえてくる、と思っていたら。

「……もう、どうして私が将棋指してたか、わかんなくなっちゃったよ」

 奥の居住スペースから、聞き覚えのある声が微かに耳に入ってきた。


「……え? この声」

 もしかしなくても、米野さん……? なんで、ここに。今日は、研修会だったんじゃ。


「……むぎくんが団体戦出てくれないなら、意味ないよ」

「お待たせしました。アイスカフェラテです」

「あ、ありがとうございます」


 私が聞き耳を立てていると、マスターさんは静かにカフェラテの入ったグラスを目の前に置き、チラッと米野さんたちがいるほうに目配せしてから、何も言わずにカウンターで自分の作業に取りかかる。


「このまま翔ちゃんが団体戦を嫌がり続けて研修会にこんな影響が出るようなら、決めなさい」

「き……、決める、って?」

「……団体戦を諦めて、研修会に専念するか。極論、部活を辞めることだって選択肢になる」


 春来さんのそんな声が聞こえた瞬間、私は口にしていたカフェラテを思い切りむせそうになってしまった。

「けほっ、けほっ!」

 よっ、米野さんが部を辞める? 麦田さんが、団体戦に復帰しなければ?


 もし、そうなってしまったら、ほんとに私の居場所がなくなってしまう。仮に洸汰くんが団体戦に入ってくれたとしても、麦田さんは出るつもりがないらしいから、来年の新入生の数によってはチームが組めなくなる。


 中学生プロ棋士の誕生や、アニメや漫画、小説の影響で世間一般に将棋がより広く認知されるようになったとは言え、将棋の競技人口は緩やかに減少しているらしい。もともと男女別で組むしかなかった高校の団体戦に混合部門ができたのも、混合でしか団体を組めない学校への配慮がスタートって春来さんがいつか話していた。


 そんな状況で、別に将棋の強豪校でもないただの準進学校の豊園高校に、将棋部に入ってくれる人が無条件にいるなんて期待できない。

 ここしか、このチームしか、私には無いのに。チームが無くなるのは、嫌だ。絶対に嫌だ。


 麦田さんは私には絶対に言わないけど、弱い人か強い人とチームを組むなら間違いなく強い人と組むほうが嬉しいに決まっている。

 ……半年経っても、未だ高校棋戦で勝てない私なんか、論外だ。


 確かに麦田さんは私の気持ちを評価してくれているかもしれない。努力だって認めてくれているかもしれない。でも、そんなの、結果が伴わなければ気休めでしかない。慰めでしかない。


 勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい。

 こんなに勉強しても、教えてもらっても、勝てない私は将棋の才能はないのかもしれない。向いてないのかもしれない。それでも、そうだとしても。


 ここにいていいよって、吉原さんに負けた日に言われたんだから。その言葉に、いつまでも甘えるわけにはいかない。……強くならないと。強くなって、勝てるようになって、麦田さんを、米野さんを引き留めないと。


「……もっと、勉強しないと、もっともっと、頑張らないと」

 いつの間にか空っぽになっていたグラスを見て、私はさっきよりも思考が少しだけクリアになったのを実感する。やっぱり、甘いものは効くみたいだ。


「すみません、お会計お願いします」

 席を立ち、私は財布を片手にマスターさんの前に移動する。

「……もう少ししたら、春来、出てくると思うけど、いいのかい?」

 にたび居住スペースのほうに目線を配ったマスターさんは、きっと私に気を利かせてくれたのだろう。春来さんに用事があると思って、何も言わずに待たせてくれていたんだ。


 私も、最初はそのつもりだったけど、春来さんばっかりに迷惑をかけるわけにはいかない。

「いっ、いえ、いいんです。ちょっと、甘いもの飲みたくなっただけなんで」

「そうかい。将棋部の子だよね? 三百円でいいよ。いつもお店使ってくれてありがとうね」


「えっ、で、でもメニューに書かれている金額は」

「いいんだいいんだ気にしなくて」

「……あ、ありがとうございます。そ、そういうことなら……」


 本来の半額の百円玉三枚をマスターさんに手渡した私は、「にゅうぎょく」を後にする。夏の強い日差しを隠した分厚い雲は、西から吹きつける風に流れて徐々にその影を濃くしていた。

「……雨降る前に帰って、棋譜並べしないと。もっと、もっと、もっともっと……やらないと」


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