第14話 物語の終わりと、始まりの一ページ
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幼馴染の僕らが将棋を教わったのは、春来さんがきっかけだった。僕の親は共働きで家を空けることが多く、夕方ギリギリまで保育園に残っていたことがほとんどだった。当時から同じマンション、隣の号室で、久美との関わりはスタートしていて、保育園で久美も一緒にお迎えを待つことがしばしばだった。なんで、久美も一緒に待っていたのかはよくわからないけど。
ただ、内向的でインドア派だった僕と活発で遊びたい盛りな久美で、お迎えを待つ間にすることのソリが合うことはなく、しょっちゅう保育園の先生を困らせていたと思う(主に久美が)。
そんなとき、出会ったのが春来さんだった。
小学校の職場体験か何かで、春来さんは僕らのいる保育園を訪れた。そこできっと、僕と久美の様子を見兼ねたのだろう。
「ねえ、あまり仲がよろしくなさそうなおふたりさん。私と一緒に面白いゲームをしない?」
五歳児からすれば十分大人に見える一一歳の春来さんの誘いに、僕らはまんまと乗っかった。
「──そうそう、駒の最初の並べかたはそれで合ってるよ。で、この八種類の駒たちを使って、相手の王様を捕まえるのが将棋っていうゲーム。どう? 面白そうでしょ?」
「う、うん。……でも、動かしかたみんな違って覚えるのたいへんそう……ぼく、自信ない」
「だいじょうぶだいじょーぶ。慣れるまでは、駒に動かしたが書いてあるから、それ見ながらでもいいよ。反則も、最初のうちは私が見てあげるから、ゆっくり覚えていけばおっけーおっけー」
「よーし、将棋ならむぎくん勝負してくれるよね。お外であそぼうって言ってもぜんぜんあそんでくれないし。今日こそむぎくんに勝つぞー」
初めての久美との将棋は、僕が勝った。といっても、初心者の五歳児同士がする将棋に中身もへったくれもあったものじゃないけど、とにかく僕が勝った。すると、何が起きるのかと言うと。
「ううううううう、くやじい、むぎくん、もういっかい、もういっかい勝負!」
「……で、でも。お姉さんもう帰る時間だし」
「やだやだ、むぎくんに勝つまで帰っちゃやだっ!」
久美が大の負けず嫌いなのは当時からで、当然こういう展開になる。駄々をこねる久美に保育園の先生は困っていたけど、春来さんはケロっとした顔で、
「うーん、今日はもう私帰らないといけないんだけどさ。じゃあ、今度お父さんかお母さんに、ここの住所にある喫茶店に連れてきてもらいなよ」
「き、きっさてん?」
「そう。大人がコーヒーとかお茶を飲みながら、ゆっくりするところ。そこが私の家なんだ。だから、ここに来れば、また将棋ができるよ」
久美に自宅の住所を書いたメモを手渡す。
「ほんと? ここに行けば、将棋できるの?」
「もちろん。それに、私にも五つ下の妹がいてね? 最近将棋教えたばっかりなんだ。将棋を指す仲間が増えると、きっと妹も喜ぶからさ、ぜひおいでよ」
「わかった! ぜったいお姉さんのきっさてん、わたし行くねっ!」
満面の笑みで春来さんと固い握手を交わす久美。
そして僕らがこの将棋というゲームにどっぷりとハマるのは、もはや時間の問題だった。
次の土曜日になると、早速久美はお父さんと僕を連れて「にゅうぎょく」へと向かった。そこには、今と変わらない静かな雰囲気漂う隠れ家的な空間が広がっていて、奥の居住スペースからは駒が盤を叩く心地よい音が鳴り響いていた。
僕らの出す駒音とは全く違う、綺麗な駒音だったのを覚えている。
「おっ、ほんとに来たなー、少年少女。さっ、この間の続きをしよっか」
お店での声を聞きつけた春来さんは、すぐに僕らのことに気づいたみたいで、嫌な顔ひとつせずに僕と久美を居住スペースに上げては将棋盤の側に案内した。
「ああそうそう、この子が言っていた私の妹の彩夏。ちょうど六歳になったばかりだから、君たちのひとつお姉さんになるのかな? 彩夏も将棋を覚えたばかりだから、仲良くしてあげて。ほら、彩夏、ご挨拶」
「本間彩夏です、不出来な姉がお世話になってます。ふつつかものですが仲良くしてください」
「……ちょい待って彩夏。どこでそんな言葉覚えてきたの? 私、そんなに不出来かな?」
このときから、本間姉妹の片鱗はその影を覗かせていた。
「「よろしくお願いします」」
何はともあれ、これが僕らの出発点。これから十年以上にも渡る関係は、八一マスを挟んで始まったんだ。
前にも話したことがあるように、強くなるのは久美のほうが早かった。毎週末に春来さんのところに赴いて将棋を教えてもらうだけに飽きたらず、久美はご両親におねだりをして盤駒と子供向けの将棋の入門書を買ってもらっていて、それを使って春来さんに会えない平日は勉強をしていたんだ。そうなると、週末しか将棋をしていない僕と差がつくのは必然の理で、あっという間に小学校に上がる頃になると僕は久美に勝てなくなった。
負けるたびに「ふふふ、わーいわーい、むぎくんに勝ったー」と無邪気に喜ぶ久美の姿を目の当たりにした僕は、不思議と将棋に関しては反骨精神が沸き上がった。
負けたくない。久美に、負けたくない。
そう思うようになった僕も、久美に倣う形で平日も将棋の勉強をするようになった。
久美の攻め将棋の才能は、子供のときからその姿が垣間見えた。どんなに僕が勉強しても、鮮やかな攻め筋で僕の王様に容赦なく襲い掛かってくる。
そんな久美に対抗するために覚えたのが、粘ること。
「あれ? なんで、これで決め切ったって思ったのに、なんで、むぎくんの王様捕まらないの?」
粘って、粘って、粘って、とにかく粘り、久美が見せる一瞬の隙をひたすら待つ。
「って、ええ? どうしていつの間にかむぎくんの王様、入玉しそうになってるの?」
場合によっては敵陣への敗走も厭わない。もし、自分の王様が敵陣への侵入を果たしたなら。
敗走から一転、逆転へのトライへと変化するのだから。
「……うっ、ううう……どうして、わたしの王様は一度たりとも王手すらかけられてないのに……負けになるんだよううう……」
「すごい、麦田くん、必敗の形勢から相穴熊で入玉しちゃった……。久美ちゃんの攻めをかわしきって……。こんな勝ちかた、あるんだ」
久美が鮮やかな攻めで勝ち切る将棋をするなら、僕は負けない将棋でひたすら我慢する。傷だらけでも、泥まみれでも、ボロボロになっても、たとえそれがみっともなくても、転がり込んでくる勝利を掴み取れば、それが正義だ。
そうやって、一歩先を常に歩み続ける久美の背中を僕は必死で追いかけ続けた。
「むうううううう、もう一回、もう一回だよっ、むぎくんっ」
僕に負けると悔しさで表情を歪ませ、涙を目に浮かべ駒を戻してもう一回を要求する久美。
紙コップの糸電話を開発して、夜も将棋を指せるようにしたり、日によっては僕が連勝することもあって、久美が勝つまで夜遅くあるいは徹夜してまでも将棋に付き合わされたり。
そういった濃厚な時間を、僕は久美と将棋に捧げてきた。
年月が流れ、僕と久美が小学六年生、彩夏さんが中学一年生、春来さんが高校三年生の年のこと。僕らの棋力はめきめきと成長していき、互いにセンターでは二段を認定されていた。
そんななか、当時豊園高校三年生だった春来さんが、全道高校選手権混合団体戦で優勝を果たし、総文祭出場を決めた。豊園高校将棋部初の、全国大会出場だった。
その年の総文祭は滋賀県開催で、どうしても春来さんの応援に行きたがった久美がご両親に無理を言って、一緒に滋賀についていくことになった。そこに、僕と彩夏さんもついていく形に。
当然、僕らは春来さんの応援に来たわけなので、必然的に混合団体戦の様子を追いかけることになったわけだけど、そこで僕らは悲喜様々なドラマを目の当たりにする。
早々に二連敗を喫し、予選リーグ敗退が決まって悔しさに肩を震わせるチームだったり。
はたまた、劇的な勝利を立て続けに挙げて連勝に勢い乗るチームだったり。
初めて見る「団体戦」の景色に、このとき久美は間違いなく惹かれていた。
「……すごい、これ」
春来さんの豊園高校は、二勝一敗で予選最終局の四回戦を迎えており、勝てば決勝トーナメント進出、負けたらそこで敗退で終了の一局を、戦っていた。
相手は確か、地元滋賀県の第一代表校だったと思う。開催県は開催地枠で二校出場できるルールがあり、しかしその第二代表校は三連敗で既に舞台から降りることが決まっていた。
地元開催なのに予選で県勢全滅はなんとしてでも避けたい相手校の勢いに、豊園高校は押されていた。まず三将の男子生徒が真っ先に投了を告げ、崖っぷちに追い込まれる。
副将の女子生徒はなんとか混戦模様の将棋を上手いことまとめきって、勝利。これで一勝一敗のタイに持ち込む。すなわち、
「……春来さん」「春ねえ、頑張れ」「……お姉ちゃん」
大将の春来さんの背中に、チームの命運が託されたことになる。
周りの対局が続々と終局していくなか、春来さんの将棋は互いに勝負を決め切れない長い対局になった。これはアマチュアの将棋大会あるあるなのだけど、長引く将棋があると、自然とそこにギャラリーが集まる。みんな、将棋が好きで仕方ないから、現在進行形で行われている将棋を見たくなる。それをプレッシャーに感じるか、追い風に感じるかは人それぞれだ。
何はともあれ、春来さんの周りに、結構な人垣が出来上がっていった。
二階席まで聞こえる対局時計の無機質な電子音、喧噪のなかパチンと響き渡る駒音、前傾姿勢で必死に次の手を考える春来さん。
どれも、僕らの耳目にしっかりと焼きついていた。
普段から飄々としていることが多く、気さくに僕らに将棋を教えてくれた春来さんの後ろ姿が、このときばかりは格好良く映っていた。
……しかし、時として結末は残酷で、運命は必ずしも自分に微笑むわけじゃないことも、このとき僕は実感した。
対局開始から二時間後、人だかりが何重にも膨れ上がったなか、
「……負けました」
静かにそう告げて頭を下げたのは、春来さんだった。
終局直後の春来さんは、比較的落ち着いているように見えた。感想戦も終始穏やかな様子でやっていたし、少なからず、対局会場にいる間は取り乱すことはしなかった。
僕ら三人は、春来さんのもとに向かおうと、一階のロビーに降りて会場から出る春来さんを待っていた。ただ、そこで目にしたのは、
「……ごめんっ、勝つ手順あったのに、勝ちを逃してっ、トーナメント、残れたのにっ」
もう二度と見ることがないであろう、春来さんが泣き崩れる姿だった。
「いいっていいって……あんな、竜を切るなんて手、三〇秒で見えるわけがないよ。春来のおかげで私たち総文祭まで行けたんだから。ましてや、最終局までトーナメントの目を残すなんて、想像もしてなかったし。……最後の夏、いい思い出になったよ」
「でもっ、でもっ……!」
「……春来のせいで負けたなんてこれっぽっちも思ってないよ。……ありがとう。私たちに、夢を見させてくれて」
チームメイトの胸に顔を埋めて泣きじゃくる春来さんに、僕らが近づけるわけもなかった。
「むぎくん」
そんな夏の終わりの一ページを見ていたとき、ふと久美が口にした。
「……わたしたちも、ここに来たい、よね」
「……ここって、総文祭に?」
「うん。ひとりじゃなくて、ふたりで。……だって、あんなにキラキラしてる春ねえ、初めて見た。普段の春ねえとは、全然違って、格好よかった。……わたしも、あそこに行きたい」
僕らにとっては、始まりともなり得る一ページの、決定的な台詞を。
「約束だよ、むぎくん。ふたりで、一緒に総文祭に出る。絶対に」
「…………。努力はするよ」
一二歳の夏休み、ただのゲーム・遊びでしかなかった将棋が、僕らにとって競技へと変わった瞬間だった。
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