第15話 初顔合わせ

 この夏から、久美の将棋は指数関数的な速度で爆発的に強くなっていった。その成長速度は春来さんが苦笑いを浮かべながら「ほんと、将棋の神様に愛されてるのかってくらいあっという間に強くなるよね、久美は」と漏らすほど。


 休日に行われる子供将棋大会では悪くても入賞するようになったし、センターでの段位も年を重ねるごとにどんどん上がっていった。

 久美に才能があったと言えば簡単だったろう。でも、久美が弛まぬ努力をしているのも僕は知っているし、何よりその努力(つまり対局の相手)に付き合ったのは僕自身だ。


 あの約束に、「努力はする」なんて擦れたことを言ったからには、僕も必死で久美の成長に追いつこうとした。


 もう久美を棋力で上回ることは叶わないかもしれないけど、せめて久美の練習相手として、仲間として相応しい存在であれるために。

 そう思っているうちに、僕らは中学生が出る大会で揃って入賞することが多くなる。大体は優勝:久美、三位:僕、みたいな形だったけど。気がつけば、僕と久美は互いの名字を取って穀物コンビなんて言われるようになった。


 迎えた僕らが中二、彩夏さんが中三、春来さんが大学二年生の年。

 この年、同じ東豊園中学校に在籍していた僕・久美・彩夏さんの三人でチームを組んで、文部科学大臣杯小・中学校将棋団体戦の北海道大会に参加した。


 総文祭とはまた違うけど、中学生のうちに真剣勝負できる団体戦の経験ができるならそれに越したことはない、ということでの参加だった。優勝すれば、夏休みに東京で開催される東日本大会への出場権を得られ、さらにそこで好成績を収めれば、西日本大会を勝ち抜いた学校との全国大会に繋がる。僕らのモチベーションは、高かった。


 初戦、二回戦と危なげなくストレートで勝ちを収めた僕らは、続く三回戦で、札幌教育大付属札幌中学校とぶつかった。

 あの、藤ヶ谷皐月がいる、札教大札幌だ。


 僕らのオーダーは、大将が久美、副将が僕、三将が彩夏さんという並びだった。対する札教大札幌は、藤ヶ谷を副将に置いていた。

 つまり中学時代、彼女と対決したのは、僕だったんだ。藤ヶ谷皐月の名前は、大会に何度も出ていれば自然と目についていたし、彼女の将棋も見たことがあった。


「さつきん、めちゃくちゃ強いけど、むぎくんなら勝てるよ、勝てるっ。札教大札幌に勝てたら、ほんとに東日本大会見えてくるよっ」

「……そ、そうだね」

 ……久美に引けを取らないレベルで、強いと感じていた。


「よろしくお願いします」「……よ、よろしくお願いします」

 藤ヶ谷との将棋は、先手の僕が雁木を選択して、藤ヶ谷が積極的に右四間飛車で攻め立てる展開になった。粘る将棋、ひいてはカウンターのチャンスを狙う棋風の僕からすれば、指しやすい将棋になってひと安心だ。


 久美は生粋の振り飛車党だから、対抗形(居飛車対振り飛車)に比べると実戦経験は少ないかもしれないけど、それでも勉強は重ねてきた。藤ヶ谷の攻撃も慌てることなくしっかりと対応していき、カウンターのチャンスを窺う。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫、普段から攻め立てられる将棋は久美で経験済みだ。僕なら、例え藤ヶ谷が相手でもやれる。


 ふと、左右の久美と彩夏さんの将棋を視界に捉える。

 札教大札幌は大将に当て馬(わざと棋力が劣るメンバーを相手校のエースにぶつけ、自校のエース、二番手で確実に白星を掴もうとする作戦)を置くオーダーとなっており、大将席は早々に久美が優勢を確保していた。この分だと、割とあっさり勝つかもな……。


 対して三将の彩夏さんは、札教大札幌の二番手相手に苦しい将棋を強いられていた。変則的な将棋を指す相手に、彩夏さんはリズムを崩され、じわじわと真綿で首を絞められるように悪くなっているのが傍から見ても伝わってくる。


「……ふぅん、余裕そうね。隣の将棋を見れるなんて」

 すると、僕の様子を見ていた藤ヶ谷が、不敵な笑みを浮かべて盤上にある歩を手にした。


「まあ、それも終わりだと思うけど」

 彼女はそんな台詞とともに、玉頭の歩を突き捨てた。相居飛車の将棋ではよく出てくる手だ。さすがに無視すると一気に囲いに傷ができてしまうから、取る一手。


 僕が着手を終えるか終えないかくらい、ギリギリのタイミング、藤ヶ谷は間髪入れずに僕の王様の頭に持ち駒の歩を叩いてきた。

「……え、もう……?」

 確かに、相居飛車において玉頭に歩を叩いて、相手の守備陣形を崩すのは常套手段だ。効果的な手になることが多い。それにしたって、タイミングが早すぎるんじゃ。まだ後続の手があるわけじゃないのに、歩を僕に渡していいの……?


 カウンターを狙う僕にとって、持ち駒に歩が一枚増えるのは願ったり叶ったり。歩が一枚増えるだけで、できなかった攻めができるようになる。たかが、歩一枚でも。

 僕は何の疑いも持たずに、守りの金でたった今打ち込まれた歩を払った。守備陣は崩されたけど、問題ない。今すぐ藤ヶ谷に厳しい攻めがあるわけじゃない。むしろ、このタイミングでカウンターに転じるチャンスだ。


 そう、考えて前傾姿勢に盤を覗き込んだ瞬間。

「……後悔しても、遅いからね?」

 藤ヶ谷は、ゆっくりと、僕に見せつけるように自陣へと指先を伸ばし──


「……は、は?」

 まるで一手パスに感じられるような、じっくりと攻撃の力を蓄える一手を繰り出した。


 ……何も、無いよね。うん、大丈夫。厳しい狙いがあるわけじゃない。いける、カウンターのチャンスだ。ここまで我慢したんだ、今攻めなくていつ攻める。

 意気込んだ僕は自らの角のラインを活かすため、藤ヶ谷の王様のコビン(斜め前のこと)を攻め始めた。……ゆっくりと、僕の王様に藤ヶ谷が仕込んだ毒が回っていることにも気づかずに。


 僕のカウンターは、上手く決まったように見えていた。実際、藤ヶ谷の王様を、囲いを残したまま危険な位置に引っ張り出すことに成功して、一気に決着さえつけられるかもしれない局面に運べた。


 まあ、そんな簡単に将棋が進むはずもないけど、満足いく展開ではある。

 僕の攻撃の合間に繰り出された藤ヶ谷のパンチも軽くいなし、藤ヶ谷の飛車の頭に僕は歩を打ち込んだ。


 これで、飛車取りだし、飛車を逃げたら藤ヶ谷の攻めを完封できる。かといって飛車を取り込んでと金にできれば、都合よく挟撃体制も築ける。厳しい手になっている、はずなんだ。


「ありがとうございましたっ」

 隣の久美は、すぐに勝利の報せをチームにもたらす。これで一本先取。彩夏さんは相変わらず苦しそうだけど、問題ない。


 勝てる。藤ヶ谷に勝てる、勝てるんだ。僕が勝てばチームも勝つ。ここで勝てば、本当に東日本大会が見えてくる。久美と誓った総文祭とは違う舞台になるけど、それでも悪くない。


 この勝負、貰っ──


「──逃げないよ? 飛車は」


 次の瞬間、藤ヶ谷は至って真剣な表情でそう呟いては、飛車を逃げずに唯一の攻めの拠点を活かして銀を放り込んできた。


 ……え? 逃げない? 飛車、逃げない……? だって、これ取りこんだら飛車の丸得だし、攻撃の足掛かりをひとつ失うことになる。そんな細い攻め、繋がるわけが……。

 僕は藤ヶ谷の飛車に手を伸ばし、歩を成ろうとした。が、その瞬間。


「……え、もしかして、僕の王様に詰めろがかかる、の……?」

 じわり、全身を巡りに巡っていた毒が、とうとう急所に届いた感触が走った。

「ま、まさかっ、さっきの玉頭の歩……!」

 僕が飛車を取ると、藤ヶ谷は僕の王様のお腹に角を打つ。いわゆる「腹銀」「腹角」と呼ばれる寄せのテクニックだ。


 その瞬間は王手にならないけど玉の動きを大きく制限できるから、寄せに繋がりやすい一手。

 そしてこの腹角は、詰めろになる。

 ちょっと前、たった一歩で乱された守備陣形の隙を突かれて。


 対して僕の飛車の取り込みは、確かに厳しい手だけど、でも、詰めろには至ってない。つまり。

「……は、速さで負けてる……の?」

 将棋は相手より先に玉を捕まえるゲームだ。最後に物を言うのは駒得ではない。速度なんだ。


 どんなにたくさんの駒を持っていても、王様を捕まえられてしまえば無意味。それが将棋だ。

「どうしたの? 飛車、取らないの? もう、時間ないみたいだけど」

 気がつけば、数分残っていたはずの持ち時間はすでに使い切っていて、一手三〇秒の秒読みに入っていた。僕が一番嫌いな電子音が、真顔で次の指し手を急かしてくる。


「く、くっ……!」

 僕は唇を噛みしめながら仕方なく藤ヶ谷の飛車を取る。そうは言っても、ここで飛車を取る以外の手はあり得ない。

「それじゃあお望み通り、空けておいたスペースに銃口を突きつけてあげる。麦田翔太」

 藤ヶ谷は僕の読み通り、王様の真横に角を打つ。


 まさか、藤ヶ谷はこの局面まで読み切っていたのか? あの短時間で。まだ時間もたっぷり残しているのに。なんだよ、どんだけ強いんだよこいつは。


「……こ、こんにゃろ……!」

 秒に追われ、正常な思考もままならないまま、僕は一旦自玉の詰めろを解消する。藤ヶ谷はそんな僕の応対を歯牙にもかけずにノータイムで追撃の一手を放つ。必死に僕は耐えようとする。


 もう得意の粘りを発揮できる局面ではない。完全に僕の王様は八一マスの隅っこに追いやられている。入玉もあり得ない。受けもない。でも、ギリギリ詰めろはかかってないから、まだ僕に勝ち目は残っている。藤ヶ谷の王様を、捕まえれば。しかし、


「……つ、捕まえるって言ったって……どうやってだよ」

 藤ヶ谷の囲いはまだ美しい金銀の連携を保っている。僕のカウンターで、歩という皮膚はあらかた剥がされたけど、それでも守備陣は健在だ。こんな王様を捕まえるのは、あまりにも難しい。


「……ま、負けました」

 さらに、僕の真横から彩夏さんの震えた声が聞こえてきた。

 結局、彩夏さんは苦しい将棋を苦しいまま、何もさせてもらえずに落としてしまった。後から聞いた話だと、それでもなんとか粘っていたらしいけど。


 ……あまりにも、タイミングが悪い投了だった。

 これで、一勝一敗のタイスコア。この勝負の結末は、僕と藤ヶ谷に懸けられたことになった。絶体絶命の、この局面で。


 やばい、やばい、やばい。僕が負けたら、終わってしまう。終わってしまう。

 負けたくない、負けたくない、けど。それなら、勝つしかない。

 僕が苦手とすることを、しないといけない。


 藤ヶ谷は若干の思考とともに、端に桂馬を打ち、詰めろをかけてきた。僕は、三〇秒目一杯使って、その桂馬を歩で取る。藤ヶ谷は、今度はノータイムで歩で取り返す。


 まごうことなき、詰めろだ。いや、ほぼ必至に近いかもしれない。

 必至とは、受けのない詰めろのこと。何をやっても、次で王様は捕まりますよ、という指し手。


 ……崖っぷちだ。なんだったら、かかとも全部宙に浮いているくらい、追い込められた。

 詰ますしかない。ここから勝つには、藤ヶ谷の王様を詰ますしか、手段は残されていない。


 詰ます? どうやって? 読み切れる? 僕に? できるのか?


 でも、やるしかない。やらないと、チームが負ける。負けちゃう。僕のせいで、僕のせいでチームが負けてしまう。そんなの、申し訳ない。詰ませ絶対詰む。詰ませないといけないんだ──


 ──ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピー──

 対局時計の長い電子音が五秒流れきり、ディスプレイに「End」の文字が表示される。


「……負け、ました」

 盤上には、僕のお株を奪って大空に脱出した藤ヶ谷の王様が羽ばたいていた。

 僕は、捕まえることができなかった。


「そ、それでは、大将は東豊園、副将と三将は札教大札幌の勝ち。二対一で、札教大札幌の勝ちですね。ありがとうございました」

 札教大札幌の大将の一声で、相手の三人は離席する。


 僕の真横に座ってじっと盤面を見つめていた久美は、やがてすっと正座したまま近くに寄ってきては、終局図の数手前に戻り、僕の予想だにしなかった手を示した。


「……これで、詰んでたよ。むぎくん」

 刹那、全身の血流が止まった気がした。

 久美のらしくなく落ち着いた声音も、彩夏さんのどこか焦点の合ってない目も。何もかも、


「……あっ、あっ……そ、そんな、手が……」

 たった今明かされた、あの大迷路を解き明かす燦然と輝く答えさえも。


「……ごめん、ごめん、ごめんなさい、僕のせいで……僕のっ……」

「やっぱり、むぎくんは攻めるより粘っているほうがらしいよ」


 追い打ちのようにかけられた、妙に明るい口調で呟かれた久美の糾弾も。

 銃弾となって、僕の全身に降り注いでいる気がしてならなかったんだ。


 悪い流れは伝播するもので、この後、メンタル的にガクっときた僕は続く四回戦も、嘘みたいにあっさりと負けた。チームも連敗を喫し、東日本大会はおろか、上位に入ることすら果たすことはできなかった。


 久美と彩夏さんの顔を、僕は怖くて見ることができなかった。


 *


 きっかけはこの出来事だった。この日から、僕の将棋に対する向き合いかたが、少しずつ変化していった。

 僕は久美とは決定的に違う。


 僕は、久美みたいに将棋は強くないんだ。これまでも、これからも。

 だって、そうじゃないか。強くなるのは、いつだって久美が先だった。僕も負けじと必死に久美の背中を追いかけた。けど、久美に実力で並んだことはあったとしても、追い越したことは一度たりともない。


 追いついたと思っても、またすぐに久美は強くなるのだから。

 僕が必死の努力で追いついたとしても、久美は活き活きとした楽しい表情で、どんどん強くなって僕を置いていくのだから。


 それでも、必死に追いかけた。負けたくなくて、置いていかれたくなくて。久美との約束を守るために。総文祭に行くために。けど、気づいてしまった。


 このまま久美の横で将棋を指していたら、久美の夢の邪魔をしてしまう。きっとまた、中学のときと同じように、僕のせいで総文祭を逃すことになってしまう。


 もしそうなったら、僕は責任を取れるのか? あの夏の日に見た春来さんのように、久美が僕の目の前で泣き崩れたら、どうすればいいんだ?


 無理だ、怖い、何もできるわけがない。言い訳だけは、すぐに浮かんだ。

 いつの間にか、口癖になっていたんだ。

 僕に期待するのは、もうやめたんだ。って。


 期待したところで、応えられない。そんなの、無責任だ。それなら、潔く身を引いたほうが余程久美のためになる。

 だから、将棋部の入部も久美より遅れた。遅れたことで、全道大会のエントリーに間に合わず、去年は団体戦を組めなかった。


 今年は久美と彩夏さんの説得に屈し、渋々団体戦のメンバーになった。結果はご覧の通りだ。

 僕のせいで負けた。トーナメントに残れなかった。

 来年、最後のチャンスだって、きっと同じ未来を辿るに決まっている。それはつまり。


 久美との約束が破れることになる。そんなの、許せるわけがない。

 あんなに誰よりも愚直に将棋に向き合い、真剣に取り組み、努力を積んでいる久美が、僕という他人のせいで夢破れることを、どうして認められる。


 団体戦がどうでもよくなったから、団体戦を辞めるわけない。

 大切なものだからこそ、僕は諦めないといけないんだ。


「……家帰ろ」

 誰もいなくなった夜の公園。僕は嫌な記憶を足元の砂利とともに蹴っ飛ばしては、自転車に乗って家へと急いだ。この日も当然、久美から将棋に誘われることはなかった。




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