第10話 まだ早いんじゃないかなって

 それからというもの、部活の時間、お風呂を上がってから寝るまでの二時間ちょっとを高井さんとの将棋の時間に割くようになってから今回のように久美が部屋に押しかけることが増えた。


 睡眠時間が着実に削られ、眠気と疲れがピークに達した期末テスト一週間前。

 僕はテスト前最後の将棋教室のシフトのため、「にゅうぎょく」に来ていた。

 冴えない思考を働かせ、僕の体調などお構いなしに将棋をせがんでくる子供たちを相手する。


「むぎくんせんせー、俺も俺もー」「せんせー私もー」

 なんだろう、久美を相手するのとそんなに変わらない気がした。だとするなら、久美の精神年齢って、小学生並みってことになるけど。……事実だから、仕方ないか。


「つ、疲れた……」

「今日もお疲れ様―、翔ちゃん。やけにへとへとだね、どうかしたの?」

 バイト終わり、盤駒時計を後片付けするなか、不意にもれたため息に、春来さんが労いの言葉をかけてくれる。


「……最近、久美が僕を寝かせてくれないんです」

「……え? あれ、もしかして、とうとう翔ちゃんと久美、くっついたの? え、えっと、仲良いのはいいけど、せ、節度は持ったほうがいいと思うよ?」

 ぼんやりしながら漏らした言葉は、含みを持たせたものになってしまったようで、春来さんに要らぬ誤解を与えてしまった。


「あ、ああ違うんです。その、高井さんに将棋を教える時間が増えたことで、久美の相手をする時間が後ろ倒しになって……それで」

「あー……なるほどね、そういうことか」

 ただ、この説明だけで誤解が解けてしまう久美の信頼よ。


「そうだよね、年から年中将棋のことしか考えてない久美が、突然そんなふうになるわけないよねー。ごめんごめん、ちょっと考えればわかることだったね」

「……わかってもらえて何よりです」

 片付け終えた盤駒時計を棚にしまい、僕は空いているカウンター席に座る。


「……高井さんと二局指したら久美も二局、三局なら三局、昨日なんか四局やらされましたよ……。一一時から始めて、終わったの、三時過ぎとかで……」

「なんだろう、最後のところだけ切り取ったらなんだよ惚気かよって言いたくなるんだけど、そうじゃないから翔ちゃんが可哀そうでしかないっていうか……」


 春来さんは同情の目で僕を憐れんでは、お父さんが作ってくださったオムライスとお茶をテーブルに出す。


「いつもありがとうございます」

「ううん、こちらこそ久美の面倒見てくれてありがとね」

「……けどなんでまたこうも久美が僕に構われたがるのか、いまいちわからないんですよね。高井さんに将棋を教えて欲しいって言ったのは、久美と彩夏さんのほうなのに……。高井さんにかかりっきりになったら、久美と将棋指す時間が無くなるのも目に見えてたろうに。……美味しくてなんだか涙が出てきそうになりました」


 過酷な状況だからか、久々の温かい料理に不思議とほろろと目が光りそうになるのを堪える。

「お父さんにそう言っておくね。喜ぶから。翔ちゃん、取られたくないんじゃないかな、久美は」


 嬉しそうに頬を緩めた春来さんは、僕がいつも飲んでいるアイスコーヒーの用意を始める。

「取られるって……、別に僕は誰のものでも」

「うん、そうだよ。翔ちゃんは、誰のものでもない。それは確かだけどさ」

 カラ、カラ、と氷が容器を叩く心地よい音が静かな喫茶店内に響き渡る。春来さんは、じっと僕の顔を見つめながら、


「頭でそれをわかっていたとしても、時に我儘になるのが、女の子って生きものなのさ」

 至って真面目に口にした。

「あ、その間はさてはあれだね、もう女の子って年じゃないだろって思ってる間だね? 言うようになったね翔ちゃん?」

 僕が何も言葉を返せずにいると、春来さんは顔をくしゃりと綻ばせそうおどける。


「冗談はさて置いて。……翔ちゃんが思っているより、久美は脆いよ、って私は伝えておくよ」

「そんなに、脆いですか? 将棋以外のことなんて何も考えてないし、悩みだってなさそうな性格してますけど」


「……だから、だよ。だから、久美は危なっかしいし、脆いんだよ。それだけは、心の片隅でいいから、覚えておいてもらえると嬉しいな」

 そこまで言い、僕に出来上がったアイスコーヒーを春来さんは差し出した。

「春来さんがそう言うなら……まあ、覚えておきます」

「さて。らしくなく真面目な話をしちゃった。ああ嫌だ嫌だ。年を取ると説教臭くなっちゃうね」


 パチン、と手を叩いて物理的に会話の流れを切った春来さんは、頬を掻きながら残っていた食器洗いを始める。


「……春来さん、まだ二三歳じゃないですか、そんな気にする年でも」

「翔ちゃん。人はね、二十歳を過ぎると誕生日が来ても嬉しくなくなるんだよ。もはや、誕生日じゃなくて、加齢記念日って言ったほうが適切なんじゃってくらい、嬉しくないんだよ」

 ……な、なんか凄まれた。す、すみませんでした……。


「あと二年したら私もアラサーの仲間入りだし、こうしている間にもどんどん私より若くて強い女流棋士が生まれてたりで、気が気じゃないんだよ」

 普段の姿からはあまり想像がつかないかもだけど、春来さんはれっきとしたプロの女流棋士。将棋を生業にしている春来さんも、色々と考えないといけないことはたくさんあるのだろう。


「で? 話は変わるけど、その後、翔ちゃんのお弟子さんはどうなの? 順調?」

 僕はオムライスの最後のひとくちを口に含んでから、現在の高井さんの状況について話す。


「はい、飲み込みが早いみたいで、もう六枚落ちでもいい勝負になってきました。この分だと、すぐ四枚落ちまで進めるんじゃないかと」

「早いね。ってことは、単純に4級伸びたってことじゃない? この短期間で。すごいじゃない」


「まあ、まだ駒落ちしか教えてないので、平手の将棋は全然なんですけど。でも、よく勉強してくれているので、僕としても助かります」

「これは、次の大会、期待してもいいかもね」

「……彼女に必要なのは、結果と自信ですから。努力は欠かさない子だし、何より、負けたくないって気持ちがすこぶる強い」


「お? じゃあ翔ちゃんと同じタイプ? うわー、豊園、ねちっこい棋風ばっかりになりそう」

「……どうでしょうね。長谷川君は割とあっさりしたところありますし、来年入る一年生も、どんな棋風なのかまだわかりませんから。そもそも誰も入らないかもしれませんし」


 多分、春来さんはそんなつもりで言ったのではないだろうけど、それでも、僕は他人事のように自分の高校のチームを語る。

「……まだ、気持ちは変わらないんだ。団体戦辞めるって気持ちは」

「変わらないです。高井さんを最後まで育てることが僕が団体戦のためにする最後の仕事です」


「……翔ちゃん」

 すると春来さんは一度洗い物の手を止めて、カウンターに座る僕の目の前に立つ。

「私としてはさ。今日みたいに教室を手伝って、子供たちに将棋の楽しさを伝えてくれたり、後輩の女の子に将棋を教えたりと、普及に協力してくれるのは、嬉しいしありがたいんだけどさ」


 そんな春来さんの前に、僕は無言で空になったオムライスの食器をそっと置く。

「一線から退くのは、まだ早いんじゃないかなって、思うんだよ。せめて、高校生のうちは」

「いいんです。僕はもう、いいんですよ。……戦えない人間に、価値なんてないですから」


 春来さんが淹れてくれたアイスコーヒーを一気に飲み干した僕は、グラスも一緒にカウンターに置いて席を立ち荷物をまとめる。


「今日も晩ご飯用意して頂いてありがとうございました。テストが終わったら、またよろしくお願いします。あともしかしなくても、久美がテスト勉強を嫌がって将棋を指すために『にゅうぎょく』に逃げ込むと思いますが、相変わらず赤点スレスレの成績なので、久美が来たら勉強するよう言ってください。未来の女流棋士が、高校留年なんてしたら、笑えないじゃないですか」

「え、ええ……わかったけど」


 春来さんはまだ何か僕に言いたそうな顔をしていたけど、構わず僕は「失礼します」と一礼して、「にゅうぎょく」を後にした。


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