第9話 前世はくノ一か何かで
部活が終わり、スーパーで買った半額のお惣菜とタイマーで炊いておいたご飯で晩ご飯を済ませたのちお風呂も済ませると、僕はノートパソコンを起動させて、ラインを開く。
ヘッドセットを耳に装着し、通話を繋いだ先は、高井さん。
「あ、もしもし高井さん? 麦田です、通話大丈夫そう?」
「は、はい。大丈夫です。今さっき、お風呂も入り終えたので」
「……ちゃんと、髪乾かしてからでもいいからね」
「そ、そこも平気ですので、あ、安心してもらっていいですよ……?」
「ごめんごめん、普段から将棋バカを相手にしてると、こういうのも注意しないとすぐすっぽかすから……」
事実、久美はそれが原因で今年の全道大会に出られない羽目になったわけだし。ただまあ、これは高井さんも触れられたくないことだろうから、これ以上は言わないでおく。
時刻は午後の九時。これから僕らは、通話を繋ぎながらネット将棋をするところだった。
というのも、高井さんの希望たってのこと。部活の二時間だけじゃ足りないんじゃないか、ということで、こうして夜にも将棋を教えることに。
「それじゃあ、今フリー対局室に僕待っているから、八枚落ちで挑戦してくれる? アカウント名は、さっきラインで教えたやつだから」
「わ、わかりましたっ」
高井さんのアカウントが対局を申し込み、僕がそれを受理する。
「「よろしくお願いします」」
ネット上でだけど、僕と高井さんの将棋はゆっくりと始まった。
僕が高井さんの将棋を見るようになってから、まだ一週間ちょっとだけど、確実に成長の跡は垣間見える。久美の言うように、真面目な努力家という評価は間違っていないようで、一度僕が教えたことはほとんどしっかりと覚えてくれている。おかげで、あっという間に高井さんは僕の陣地に角と飛車を成りこませては、僕の王様に襲い掛かる。
「……飲み込み早いね。もう八枚じゃ相手にならないかもしれないよ」
「ほ、ほんとですか? えへへ……嬉しいです」
竜と馬を作った後も、攻めの銀も攻撃に参加させ、と金も一枚仲間に加える。これで四枚の攻めになった。将棋において、四枚の攻めは切れないという格言がある。言葉通り、四枚で相手の王様に襲い掛かれば、受け切るのは容易ではないということ。無論、考えかたのひとつで必ずしもこの方針が正解になるわけではないけど、間違いにはなりにくい。
ちなみに、これは今日の部活で教えたこと。すぐ実践してくれて僕は嬉しかったりする。
その後も、着実に僕の王様を寄せ切った高井さんが、八枚落ちながらも僕に初勝利。これまで教えたことを存分に発揮する快心譜になったのではないだろうか。
「うん、ここまで完璧に勝てるなら八枚落ちは卒業だね。今度からは六枚落ちで指すようにしよっか。今日は、まだ時間ある? 平気そう?」
一局終わると、時計の針は一周して時刻は午後十時。久美ならまだ余裕で続けようとする時間だけど、そろそろ様子を見ないといけない頃合いだ。
「は、はい。あと一時間くらいでしたら、大丈夫です」
「おっけ。じゃあもう一局、今度は六枚落ちでやってみよっか。ひとまず、何も教えない状態で高井さんの思うままに」
「わかりました」
そうして、次の対局の準備に移ったタイミング。久美と繋がっている糸電話の紙コップが、カタカタと揺れたのを僕は確認した。まじか、このタイミングでかよ。でもそっか、まだ今日は久美と一局も指してない。僕と将棋を指すのを日課にしている節がある久美にとって、この行動はある意味当然ともとれるものかもしれない。
「……ご、ごめん。ちょっとだけ待っててくれる? く、久美から連絡来ちゃって。返事しないとうるさいから」
「いっ、いえ。どうぞどうぞ、気になさらずお話ししてください」
高井さんに断りを入れてから、一旦パソコンから離席して紙コップを手に取る。
「もしもし、僕だけど」
「7六歩っ」
やはりか、やはりなのか。やはりこの将棋バカは会話一発目に符号を読み上げないと気が済まないのか。いつもだったら全てを受け入れて相手してあげるのだけど、今日は高井さんがいるから久美の相手をすることはできない。
「……ごめん、今高井さんに将棋教えてて、久美と将棋する暇無いんだ。また今度でいい?」
「え? 今、高井さんと……?」
「う、うん。ラインで通話繋いで、ネットで。高井さんがもうちょっと教えて欲しいって」
糸電話の先、如何とも言い難い久美の沈黙が僕に伝う。
「……く、久美?」
僕がそう言うと、カコン、と紙コップが置かれる乾いた音が響いたかと思うと、久美の応答が無くなる。久美の機嫌損ねたかなと軽く考えていると、どういうわけかベランダのほうからドタバタという物音が聞こえてくるではないか。
「……え? ベランダ?」
僕と久美はマンションのお隣さん。糸電話を繋いでいるくらいだから、ベランダを渡れば当然互いの部屋に入れるわけだけど。恐る恐る、カーテンを開けて窓の外の様子を確認すると、
「むぎくーん、開―けーてー」
「うっ、うわあああっ!」
これまたどう見てもお風呂上がりで髪を乾かしてない、パジャマ姿の久美が僕の部屋の窓をコンコンとノックしていた。
「なっ、何やってんだよ、ば、ばっかじゃないの?」
カラカラと窓を開けて久美を部屋に入れると、「おじゃましまーす」と悪びれもせずこの馬鹿は僕のベッドに腰を掛ける。
「……ま、まさかとは思うけど、非常用の蹴破り戸壊してないよね……?」
「いやだなーむぎくん。非常じゃないのにベランダの戸を壊したらダメに決まってるじゃん」
今久美がやっていることも十分不法侵入で法を犯しているということを理解しようか。
「……前世はくノ一か何かかよ」
まあ、戸を壊してないなら、ベランダの手すりを渡ったことになるのだけど、それはそれで恐ろしい身体能力をしているわけで。
「で、なんでまた僕の部屋に押し入るんだよ」
「だって、あゆちーの将棋教室終わったらどうせむぎくん狸寝入りしちゃうと思って。それならむぎくんの部屋で待てば問題ないでしょ?」
問題しかないよ……。高校生の男女が互いにお風呂終わった後に同じ部屋にいることの異常性よ……。なんて言っても久美は「へ?」としか返さないんだろうけどさ。
もう状況は変わらないのは火を見るよりも明らかなので、一旦久美を放置する方向に切り替え、気を取り直して僕はパソコンに向かい直す。
「……ごめん、お待たせしました」
「あ、あの、結構大きな悲鳴が聞こえたんですけど、だ、大丈夫ですか?」
「……あー、うん。たった今、久美が僕の部屋に来て」
「え? 来た? って、え?」
そりゃ高井さんもそういう反応になるよね。だって、普通じゃないのだから。
「まあ、とにかく、久美のことは気にしなくていいよ。続き、始めましょう」
我が物顔で部屋に居座る久美を無視して高井さんと将棋を指していると、これまで黙ってベッドの上で横になりながら、勝手に僕の本棚から借りた詰将棋を解いていた久美はおもむろに起き上がっては、いきなり僕の背後に立っては背中にひっついてくる。
「ひゃっ!」
「む、麦田さん……?」
突如薄手の部屋着越しに伝ったお風呂上がりの久美の体温に、僕は悲鳴をあげてしまう。
「ど、どうかしましたか……? な、何か悪い手指しちゃいましたか……? 私」
「い、いや。そういうわけじゃないよ。なんでもない、なんでも」
……なんで浮気の現場を隠すクズ男みたいなムーブをしないといけないんだ、僕は。何もやましいことなんてしないのに。
「へー、もう六枚落ちで教えてるんだー、あゆちー飲み込み早いねー。それともむぎくんの教えかたがいいのかな」
それでいて吐息混じりに耳元で囁くなああああ! 楽しいか、後輩の女の子に情けない声を聞かれないように悶え我慢している僕の姿を見るのがそんなに楽しいか久美。
チラリと横目で久美の姿を見ると、もう夏の気配がする季節だからか、半袖半ズボンのパジャマを久美は着ている。それ自体は別に構わない。ただ、この将棋バカ、パジャマのボタンをきちんと留めていないせいで──
「……なんでやねん」
見えてはいけない紐状の何かが目に飛び込む。咄嗟の突っ込みとともに、僕は思いきり額を机に打ちつけて煩悩を追い払う。
「ひうっ、や、やっぱりひどい手ばっかりでしたよね、すみませんすみません、ちょっと褒められたからって調子乗ってすみませんでした」
が、電話越しの高井さんはそんな状況知る由もないので、僕の奇行に怯えてしまう。
「あーあ、ダメだぞーむぎくん、女の子怖がらせたらー」
……まじで誰のせいだと思っている。そんな調子なものだから、将棋が終わって感想戦も済ませて、高井さんとの通話を切る頃には、じっとりと汗をかいてしまっているのを自覚した。
ノートパソコンをパタと閉じ、後ろを振り返ると、
「あっ、終わったー? お待ちしておりましたー」
いつの間に用意していたのか、盤に駒を並べた状態で正座待機してた久美がニンマリと歯を零して笑みを浮かべていた。時刻は午後一一時半。どう考えても将棋を始める時間ではない。
「……ほ、ほんとに今から一局指すの? ぶっちゃけ僕この時間に二局指したからもう頭ヘトヘトなんだけど」
ちなみにだけど、しばしば将棋は頭脳スポーツと呼ばれることがある。その形容は、概ね間違えているわけではなく、実際将棋は指すと脳が疲れる。一日六局指す大会とかこなした日なんかは、家に帰ったらベッドにバタンキューするのも珍しくない。だからこそ、大会会場でブドウ糖を齧る人もいたりする。それくらい、消耗する競技だ。
二局とは言え、それなりにカロリー高く高井さんに将棋を教えたこともあり、今すぐ眠れそうなくらいに僕の頭は疲れていた。正直、これから将棋をしたいかと言われるとしたくない。
「へ? あゆちーとは二局指したんでしょ? じゃあ、一局じゃなくて二局だよ、むぎくん」
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだった。次元が違い過ぎた。っていうかなんでそこで局数張り合うんだよ。負けず嫌いの方向性どうかしてるだろ。
「はいむぎくんの番だよー、指して指してー。大丈夫、二局目はむぎくんの先手でいいからさー」
気を遣う場所は絶対そこではない、と内心泣き叫びながら、僕は眠たい目をこすりながらなんとか久美と将棋を二局指した、気がする。気がするのはどうしてかと言うと、翌朝目が覚めると、僕が将棋盤の上に突っ伏していたことを知ったから。
その日の授業、二時間目の日本史まで僕はうつらうつらしながら船をこいでいた。久美は四時間目までぐっすり寝ていた。……テスト近いって言ってるだろいい加減にしろよ。
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