第2章

第8話 クーラーと民主主義

 翌日、週が明けた月曜日。例によって将棋部の部室に集まる僕ら。今日は久美も数学の補習はないみたいだし、一年の長谷川君も顔を出している。


 僕と高井さんはと言うと、部室の隅で将棋盤を挟んで、昨日のセンターでの将棋を一局ずつ検討している。言うなれば、反省会みたいなものだ。


 本や問題集を読んで勉強するのもいいけど、自分の将棋で同じ内容を勉強したとするなら、説得力は桁違いだ。何せ、「こうしておけば勝てたのに」という後悔みたいなものは、確実に頭に定着するから。


 僕らが師弟でよろしくやっている間、久美はむすーっとした顔でつい先日行われたタイトル戦の棋譜並べをしているし、長谷川君は長谷川君でぼんやりとした様子で詰将棋を解いている。


 まあ、これまでは僕と久美、高井さんと長谷川君でそれぞれペアになって将棋を指すことがほとんどだった。ペースが変わって困惑することもあるとは思う。

 前半三局の検討が終わった段階で、小休憩とばかりに僕は高井さんに話を振る。


「この間さ、一緒に最終的な目標について決めたけどさ。初段になるってだけだと、息切れしちゃうかもしれないし、中間目標みたいなのも決めちゃおうっか」

「は、はい」

「そうだね、とりあえず、向こう二、三か月以内くらいに達成したい目標、あったりする?」


 さすがに初段っていう目標だけだと、ゴールが遠すぎて嫌になっちゃうかもしれない。途中途中にチェックポイントを作って突破することで、達成感も得られるし、さらなるモチベーションにも繋がる。


「なんでもいいよ? 僕に六枚落ちで勝てるようになるとか、まず大会で一勝するとか。センターで〇級まで昇級するとかでも」


 僕がそう言うと、高井さんは少しの間薄桃色の唇に指を当てて考え込んでみては、

「……えっと、今度は、勝ちたいです」

 ゆっくりと、答えた。


「今度、吉原さんと当たったとき。そのときは、勝てるように」

 なるほど、そういう目標で来たか。いや、僕はそういうの、嫌いじゃない。


「……あんなに、豊園高校のこと馬鹿にされて、負けっぱなしなのは嫌です。麦田先輩だって、いいように言われて」

 ライバルの存在は、成長速度を恐ろしいほど引き上げる効果がある。あの子には負けたくない、あいつには絶対勝ちたい。僕にとっての久美がそうだったように。


「……多分吉原さんとは級が近づかない限り、よほどのことがないとセンターでは当たらない。公式戦なら全然あるけど。次の公式戦は夏休み明けの秋季大会だ。とりあえずそこまでは絶対に当たらないって考えるなら、強くなる時間はまだ残ってる。夏休みもあるしね」

「あ、それだったんですけど……。夏休みの間、どうするんですか? 部活、するんですか?」

 高井さんが真っ当な疑問をぶつけると、これまで蚊帳の外だった久美が会話に入ってくる。


「基本的には部室に集まって何かするってことはやってないよ? わざわざ暑いのにクーラーもない学校に来たくないでしょ? それに、将棋は学校じゃなくてもできるしね」

「そ、そうなんですね……」

「……まあ、去年の部員って、僕と久美と彩夏さんの三人だったから、特に約束なんかしなくても『にゅうぎょく』にみんな集まる節はあったから……。でも、夏休みどうするかはちょっと考えないとまずいかもね」


 さすがに、部員全員で「にゅうぎょく」に押しかけたら迷惑でしかないだろうし。

 しかし、だからと言って夏休みの間何もしないのは悪手が過ぎる。どうしたものかなあ……。


「んー、じゃあ、むぎくんの家に集まればいいんじゃない? むぎくん、将棋盤と駒、たくさん持っているし。対局時計はむぎくんもわたしも一台ずつ持ってるから、足りるでしょ?」

「……は?」

 などと考えていると、前触れもなく久美は突然そんなことを言い出す。


「え? な、何言ってんの久美」

「あゆちーって家どこだっけ?」

「し、白石です」

「じゃあ、こーたんもそのへん?」

「はい、俺も歩夢の家の近所なので」


「うんうん。白石からならむぎくんの家、自転車で十分とかだし、学校よりも近くていいんじゃない? それに、むぎくんの家にはクーラーがついている!」

「まじっすか、クーラーついているんですか、麦田先輩の家っ!」


 久美の宣言に湧く長谷川君。高井さんも、ちょっとだけ期待に溢れた目を浮かべ始める。

 昨今の札幌も、なかなか暑さが厳しいものになってきている。とは言え未だクーラーがない家庭の数も多く、こと将棋部員に関してもそれは御多分に漏れなかったようだ。


「俺の家、扇風機一台しかなくて、いつも妹と取り合いになるんですよ、暑くて仕方なくて」

「……クーラー、いいなあ、麦田先輩の家」

 って、まずいまずいまずい、本格的に僕の家にみんな心が傾きかけている。


「みんなー、むぎくんの家に行きたいかー!」

「「おー」」

「クーラーで涼しい環境を、享受したいかー!」

「「おー」」


「はい、夏休みの将棋部の活動は、むぎくんの家で行うこととします。これは決定事項です」

「ちょ、待ってよ、僕の意思は? 僕の予定とか考慮は一切ないの? え? まじで言ってる?」

「民主主義だよ、むぎくん」


 ど、どや顔うぜええええええ……! ひどい、ひどすぎる、なぜ幼馴染の一存で僕のプライベート空間を侵略されないといけなくなるんだ。

「……だって、じゃないとむぎくんまたわたしほったらかしにしてあゆちーにかかりっきりになるじゃん」


 ぷくうと頬を膨らませては、わざとらしくそっぽを向く久美。素直なのか素直じゃないのかはっきりしてもらってもいいですかね、ええ。嫉妬は嫉妬なんだろうけど、単に将棋の相手を取られないように、っていう嫉妬なんだろうなあ、これも。


「……もうそれでいいから、それで。でも、夏休み前に期末テストあるの忘れてないよね久美。もし期末で一科目でも赤点取ったら、夏休みの最初のうちは補習で潰れるの知ってるよね」

 さて、それはそれとして。今は六月の上旬。期末テストは、六月下旬に予定されている。


 つまり、もうすぐテストなんだ。

「……え? 期末テスト? ナニソレオイシイノ?」

 だが、案の定というか、テストの話題になると久美は素知らぬ顔で下手くそな口笛を吹く。


「……あー、高井さんと長谷川君は、テスト大丈夫そう?」

 一年生ふたりは迷いなく首を縦に振ってみせる。この様子なら、心配はしなくてよさそうか。


 となると、問題児はこの将棋バカひとりというわけだけど……。

 一般的に将棋指しは頭がいいという印象を世のなかの人は抱いている。その印象、六~七割は間違ってないと言えるけど、やはりどんなものにも例外というものが存在する。つまり久美だ。


 この米野久美という将棋馬鹿、将棋のことしか頭にないのか勉強はからきしできない。いつもテスト前になると僕に泣きついてくるし、泣きついたテストも赤点スレスレかそもそも赤点だ。


 高校受験のときも大変だった。春来さんの母校で彩夏さんがいる豊園高校は、そこそこの進学校だ。決して、家が近いからとかいうふざけた理由で入れるほど簡単な学校ではない。


 だからまあ、四六時中僕が久美の勉強を見てあげてなんとかギリギリで豊園高校に引っかからせたのだけど、そのときの苦労を語ると日が暮れてしまう。


「ちなみに言っておくけど久美。もし総文祭に出るつもりなら一学期の期末テストは必ずパスしないといけないからね? 総文祭の日程と、補習の時期、被ってるからね?」

「……今年は総文祭出られないもん」

 いや、そういう問題じゃないし。


「もっと言うと、テスト一週間前から部活止まるからね?」

「……部活できないなら『にゅうぎょく』で将棋するし」

「今のうちから春来さんにテストの日程送っておくわ」

 そうすれば久美が逃げ込んでも将棋盤しまってもらえばいいだけだし。


「ひどいっ! むぎくんはわたしに将棋するなって言いたいんだねっ!」

「赤点取るなって言ってるだけで、将棋するなとは言ってないから。少しは勉強せいって話」

「……ううう、むぎくんが虐める」


「虐めてないから、安心して」

「あっ。もし留年したら総文祭のチャンスもう一回増えるんじゃ──」

「大丈夫。だとしたら四回目の夏は参加資格ないから。僕らあと一回しかチャンス無いから」


「……勉強、嫌い」

「…………。さて、高井さん。そろそろ将棋に戻ろっか。次、四局目だけど──」


 わかっている。どうせ一週間前になって泣きつく久美を助けるオチになるのはわかっている。わかっているからこそ、泣きつかれる前に少しでも高井さんの将棋の勉強に時間を割きたい。

 その日は結局、センターで指した七局の反省だけで部活の時間が終わってしまったのだけど、満足いく時間にできたんじゃないかと思う。


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