第7話 僕が失くしたもの

「──……負けっ……ました」

 対局開始から、どれくらいの時間が経過しただろう。

「……あり、がとう、ございました……」

 駒台に手を置いて、涙で潤んだ声とともに頭を下げて投了を告げたのは、高井さんだった。


 何度か、吉原さんはミスを犯し、高井さんに勝ちが転がり込んだ場面は存在した。でも、幾度とあったチャンスを高井さんは活かすことができず、次第に攻守は入れ替わった。


 そして零れ落ちたはずの勝利を再び掴む機会を得た吉原さんは、今度ばかりは逃さなかった。

 決定力の差が、如実に表れる結果になった。


 感想戦は、互いに行える状態じゃなかった。長時間の将棋をこなした肉体的な疲労感に、互いに気持ちを押し出した指し回しをしていたから、メンタル的な消耗も激しいだろう。


「……次は。もっと、文句の言われない勝ちかたであなたに勝ってみせる。……こんな勝ちかた、勝っただけで、褒められたものじゃない」

 疲れ切った顔つきで対局カードを重ねて手にした吉原さんは、俯いたまま動けずにいる高井さんにそう言い残して、カウンターへと去った。


 僕は、無言で吉原さんの後を追っては、児玉さんに「高井さん、今日はもう終わりでお願いします。僕も、帰ります」と告げ、二枚の対局カードを受け取る。白紙と、七つの黒星が繋がった、対局カードを。吉原さんの座っていた椅子に腰を下ろし、僕は高井さんと向き合う。無言で僕は盤面を戻していき、件の▲6四銀の二手前。高井さんが相手の銀を取った局面まで遡った。


「……色々、反省すべきポイントがあるのは、高井さん本人が一番理解しているだろうから、ここでは言わない。僕がどうしても聞きたいのは、これだけ」

 ここまで首を垂れていた高井さんが、顔を上げ、将棋盤を見下ろす。


「この、銀を回収してからの▲6四銀は、読んだ上で、狙って指せたの? それとも、なんとなく指したの?」


 言ってみれば、三手一組の好手順だ。たかが三手、されど三手。自分がこうすると、相手はこう指す、だから次にこれを指そう。この三手の読みがきちんとできるようになれば、初心者は卒業だ。ましてや、銀のタダ打ちを発見できる初心者なんて聞いたことがない。こんなの、将棋を指しなれた上級者が指すような手だ。だから、どうしても聞きたかった。この手順を見つけたのが、なんとなくなのか、それとも実力なのか。


 僕の問いにしばらく悩んだ高井さんは、やがてボソッと消え入るような声で質問に答えた。

「……適当に指したわけではないです。ただ、負けたくない、負けたくないって思い続けてたら、パッって6四の地点が色づいて見えて……。ちょっと考えたら、いけるんじゃないかって。も、もしかして、大悪手でしたか……? この手」


 高井さんの答えに、僕は息を呑む。なんとなくではない。きちんと読みを入れた上での指し手だった。その事実に、ちょっとだけ僕は嬉しさで笑みが零れそうになるのを堪える。


「……今日指した手のなかで、一番の好手だったよ。だから、この手を発見できたことは誇りに思っていい。高井さんの、負けたくないって気持ちは、よく伝わってきた」

「でっ、でもっ……。負けちゃいましたし。……今日も、六局指して、全部負けて、これで、高校の大会と、練習対局会も全部合わせて、三六連敗でっ……」


 だって、目の前に座っている年下の女の子は、悔しさに涙で瞳を濡らして、八一マスの上に染みを描いていたのだから。


「どんなに勉強しても、全然強くなってる実感湧かなくて、今日も、近い棋力の人ばかり対局させてもらったのにっ、それでも、勝てなくてっ……。もう、何をやっても勝てないんじゃないかって……将棋、向いてないんじゃないかって」


 静かに、ポタリポタリと感情を表に出す高井さん。そんな彼女の様子を、遠巻きに久美と彩夏さんも見守る。


「もうっ、負けたくなんてないのにっ。今年、彩夏さんの最後の夏を終わらせて、このままじゃ、きっと来年も同じことを繰り返すんですっ。麦田さんと、米野さんの夏も、私が奪っちゃう。私にはっ、将棋部しか居場所がないのにっ、これ以上、皆さんの足を引っ張りたくないっ……」

「……負けたくないって気持ちは、強くなる原動力に間違いなくなるよ」


「……へ?」

「かく言う僕も、強くなりたい理由はさ、すぐ後ろにいるベレー帽被った将棋馬鹿に負けたくないからだったからさ」


「て、ちょっとむぎくん、将棋馬鹿ってどういうことだよー」

「そうだぞー、女の子を馬鹿呼ばわりは感心しないなー麦田くん」

「あっ、あれっ、よっ、米野さんっ? 彩夏さんまでっ? ど、どうしてここにっ」


 そこでようやく久美と彩夏さんの存在に気がついた高井さんは、慌てて丸縁の眼鏡を外してゴシゴシとハンカチで濡れた瞳を拭う。


「……知っての通り、僕と久美は同時に春来さんに将棋を教わったからさ、自然と久美と将棋を指す機会が多かったんだ。で、僕に言わせてみれば、久美のほうが強くなるのが早かった。もう何度久美に負けたかなんて数え切れない。僕は将棋、向いてないんじゃないかって思った時期もあった。久美との差は今も埋まってるとは思ってない。むしろ、広がるばかりってさえ感じてる」

「む、むぎくん?」


「だから、僕はついていくのに必死だったんだ。久美に負けたくない。置いていかれたくないって。で、久美の棋風は高井さんもわかってるよね?」

「……泣く子も黙る攻め将棋、です」


「そう。そんな久美に対抗するために、覚えたんだよ。『粘る』ってことを。ひたすら負けたくない、負けたくないって叫びながら、相手の攻めを受けて受けて。転がり込んでくるチャンスをひたすら待って。……みっともない将棋かもしれない。でも、僕にはそれしか能がなかった」

 久美が何か言いたそうに僕に視線を飛ばしてきたけど、構わずに続ける。


「……けど、粘るのだって誰にでもできることじゃない。何より必要なのは、どんなに形勢を損ねても、諦めないメンタルの強さ。それを、高井さんはもう持っている。吉原さんとの対局で、それを証明してくれた。高井さんが発見した▲6四銀が、何よりの証拠だ。あんな手、諦めが悪くなければ普通見つけられない」

「……で、でも結局」


「その後のことは、基本的なことなら僕が後でいくらでも教えられる。僕が強くしてみせる。高井さんが将棋向いてないなんてことない。負けたくないって強く思えることも才能なんだから」

 それでも高井さんは押し黙ってしまう。三六連敗の重みは、やはり桁が違うか。なら。


「負けたくないって指し回しは、時に団体戦においてチームメイトに勇気を与えることがある」

「……え?」


「自分がもし劣勢で、苦しい状況のとき。隣に座っている仲間が、必死に粘って、粘って、泥のなかに落ちてる勝利っていう星を探していたら。諦めないで、どこかに残っている可能性を追いかけ続けていたら。それで、相手が明らかに焦っていたなら。間違いなく、自分へのエネルギーになる。それが、団体戦の面白いところだと、僕は思っている」

 高井さんの価値を、まず僕が認めてあげないといけない。ここにいていいと。


「……つまるところ、何が言いたいかって言うとさ。高井さんのその気持ちは、まず間違いなく豊園高校に必要なものってこと」

 だって、それは。その感情は。僕がとうに八一マスの奥底に置いてきた感情なのだから。


「……いていいんだよ。高井さんは、ここに。高井さんがそれを望むのなら、拒む人なんて将棋部にはいない」

 僕の言葉に呼応して、久美と彩夏さんも無言で首を縦に振る。それを見た高井さんは、感極まったのか、にたび眼鏡を外して瞳を拭う。

 しかし、赤く腫れた瞳で前を向いた彼女はすると、震えた声で僕らに話した。


「……私は、ここにいたいです。ここに、いたい。……だから、強くなります。今度こそ、皆さんと勝つために」

 それは、紛れもない決意表明だった。ここから、この瞬間から。僕と高井さんの師弟関係が、本格的にスタートしたんじゃないかって、僕は感じた。


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