第6話 泣き虫な君の可能性

 結局、高井さんはその後お昼ご飯を挟んで初心者・初級者相手に手合いをつけてもらって六戦全敗という結果に。児玉さんから15級の認定証を渡された。


 15級は、この将棋センターでの一番下の級位。最初に対局した原さんは12級、その次の西野くんは10級だったから、平手でも若干の手合い違いハンデ不足という計算になる。


「ま、まあ、今日はたくさん将棋指すのが目的だから。さっきの将棋も、あとちょっとで勝てそうだったし」

 明らかに落ち込んでしまっている高井さんに、僕は慌ててフォローを入れる。


「……そ、そうですよね。そんなすぐ勝てるようになるほど、甘くないですよね。わかってます、わかってました……はい……」

「……まだ、指せそう?」


 正直、センターとは言え六連敗なんかしたら、僕でも嫌になって帰りたくなってしまう。高井さんが望まないのなら、これ以上将棋を指させても辛いだけかもしれない。

 そう思い、僕はセコンドのようにリングにタオルを投げ込んだ。


「……だ、大丈夫です。まだ、まだ指します」

「高井さーん、高井歩夢さーん」

 が、僕の懸念とは裏腹に、高井さんはキュっと唇を嚙みしめ、再び次の対局へと向かって行く。


「ごめんね高井さん、近い級の人ともうあらかた指しちゃってて。ちょっと離れてるけど、吉原よしはらさんに一局教えてもらって」


 ただ、カウンターで児玉さんに告げられたのは、予想外のひとこと。対局カードの対戦欄に目を移すと「吉原 5 六枚」と書かれているのが確認できた。

 よりによってメンタルどん底のこのタイミングに中級者に手合いつけられちゃったのか。


「吉原さん、高井さんと六枚落ちで。同じ高校一年生みたいだから、教えてあげて」

「……六枚ですか、わかりました……って、あっ」


 相手の吉原さんも到着しいざご対面。すると、対局カードを受け取った吉原さんは僕らの顔をまじまじと見つめてから驚きの声をあげる。かと思えば、途端に表情を苦々しげに歪ませては、


「……もしかして、豊園の副将と三将にいた人ですか」

「えっ、はっ、はい……三将は私でした」

「……なんで私よりこんなに弱いのに団体戦に出られてるのよ」

 ボソッと僕らにしか聞こえないくらいの声で毒を吐く。


「んんっ。初めまして。札幌教育大学札幌高校将棋部一年の、吉原日向よしはらひなたです。先日は先輩たちがお世話になりました」

 ……まじか、札教大札幌の生徒だったのか。


「さ、札幌豊園高校一年の、高井歩夢です……」

 カウンターから移動して将棋盤を挟んで座るふたり。吉原さんの敵意に満ちた目は変わらず高井さんに向けられている。


「今日はデートですか? 楽しそうで何よりですね」

「でっ、デっ……。そ、そういうんじゃっ……」

「それとも、副将と三将で傷の舐めあいでもしてるんですか? 暇そうで羨ましいですね」

 二〇枚が向かい合う初期配置から、カラカラと飛車角桂香の六枚を駒箱にしまう吉原さん。


「……まあ、あなたみたいな初心者でも、メンバー入りできるんですからね。思い出作りは、楽しかったですか?」

「そ、そんな、思い出作りなんかじゃ──」


「──じゃあ、あなたのあの将棋は何? 実力がないのは一旦置いておいて、序盤で必敗にして、ボロボロ駒を取られて、みっともない負けかたして。さぞ、今後ろにいる先輩もやりにくかったでしょうね。だって、隣に黒星がつくことが確定している将棋があるんだから」

「……っ」


「あなたみたいなのが団体戦に出てるのを見ると、イライラするの。私だってあの席に座りたい。座って、先輩たちと一緒に戦いたい。だから、私は強くならないといけない。あなたみたいなのに負けるわけにはいかないの。例え、駒落ちだとしても」


 チラっと、駒台の下に置かれた吉原さんの対局カードを覗いてみる。すると、白星が五つ繋がっているのが確認できた。確かここのセンターの、5級から4級への昇級規定は七連勝か一〇勝二敗。つまり、ここで高井さんに勝てば、次が昇級の一番になるわけだ。


 選手層が厚い札教大札幌では、初段あってもメンバー入りできるかどうか怪しい節はある。級位者なんて論外だろう。だから、吉原さんから見れば高井さんの存在にイラついてしまうのはわからなくもない。当日変更とかそんな事情は関係ない。自分の学校を背負って戦うのが団体戦。席についた時点で、戦うしかないのだから。


「よろしくお願いします」

 そこまで言い切ると力強い手つきで吉原さんは左金を動かし、対局時計のボタンを叩いた。


「あっ、あ……、よろしくお願いします」

 極端なことを言ってしまえば、八枚落ちも六枚落ちも、やることは大して変わらない。飛車角を敵陣に侵入させる。それに尽きる。ただ、六枚落ちだと銀も守りに加わるから、なかなか一筋縄ではいかなくなるけど。……八枚落ちは何度か指したけど、六枚はまだ教えてない。高井さん、大丈夫かな……。なんとなく、吉原さんに気圧されているようにも見えるし。


 実際、高井さんの角は吉原さんの金銀によって完全に抑え込まれてしまっている。これでは、攻めるに攻められないし、逆に高井さんの攻め駒を攻められてしまう。困った局面だな……。


「随分と熱心に見てるみたいだね、むぎくん」

 高井さんの後ろから盤面を覗き込んで思考にふけていると、ふとさらに後ろの耳元から聞き馴染みしかない女性の声が囁かれた。


「おわわっ、……って、久美。なんでいるんだよ」

「べっつにー。ただわたしも来たくなっただけだよーだ」

 赤いベレー帽を浅く被り、半袖のボタンがついた白のシャツと胸元に紐のタイを咲かせた久美が、ひょこりと僕の肩の上から覗くように高井さんの将棋を眺める。


「……彩夏さんまでいるのかよ」

 さらにカウンターを振り返ると、やっほーと小さく手を振ってみせる彩夏さんの姿が。どうやら先輩は将棋を指していくつもりのようで、児玉さんにすぐ手合いをつけてもらっていた。

 受験勉強、いいのだろうか……。


「およ? 相手の子、なんか見覚えあるなって思ったら、もしかして札教大札幌の子?」

「……久美、知ってるの?」

 高井さんが苦し紛れに飛車先の歩を交換するために手を広げたタイミング、じっと局面を見つめていた久美がふと漏らした。


「うん。今年の春季大会で当たって。筋はいいなって感じたよ。これから伸びるだろうなって」

 この言いかたは、久美が何の問題もなく勝ったからなんだろうな。まあ、実際今年の春季石狩支部大会で久美は女子個人で全勝優勝してるから、それはそうなんだけど。


「で、あゆちーの調子はどうなの? 勝ってる?」

「……ただいま六連敗中」

「……あちゃー。それでこの局面? もう、これで終わりにさせてあげたほうがいいんじゃない? これ以上は、しんどいだけだよ」

 吉原さんは、その攻めを丁寧に受け、ますます優位を広げる。これは、重たい反撃を受けるのも時間の問題だ。


「そうかもね。反省点は今日の七局でかなり洗い出せたから、決して収穫がないわけじゃない」

「けど、勝てないと将棋は面白くないよ。とくに、始めたての頃は」


 正論過ぎるほど正論だ。勝つから将棋は面白いし、面白いからもっと勉強して、強くなれる。そういうスパイラルが回っているんだ。今の高井さんは、ただただ苦しい思いをしているだけ。何か、何かせめてきっかけだけでも、掴んでもらえたら……。


「やっぱり、大したことないじゃない。こんな棋力で、どうして団体戦の椅子に座れたの? 色仕掛けでもしたの?」


 始まった、吉原さんの反撃。同時に、彼女の口撃も高井さんのメンタルを蝕む。

 一手、一手、確実に吉原さんの指し手は、高井さんの攻め駒を奪っていくために進められ、事実、金、銀、そして大駒の角さえも強奪していった。


「後ろに立っている先輩、優しそうだもんね。ちょっといい顔してオーダー融通利かせてもらったとか、そのへんでしょ。でないと、あなたレベルが豊園の三人に入るとは思えない」

「そ、そんなこと……」

「じゃあ、証明してみせてよ。あなたが三人に入る価値があるってところを」


 パチッと、駒音高く吉原さんは入手した角を中段の好所に打ち込む。それは、高井さんの守りの要である金を狙った角打ち。一気に決めに行く激しい手だ。

「……あっ、な、なんでっ」


 その角打ちを見て、僕は目を細める。勢い任せの攻撃かもしれないけど、確かに攻めとしては厳しいものになっている。そういう意味では、筋がいいのはやはり久美のお墨付きなだけある。


 実際、高井さんは自陣にばかり目がいってしまい、有効な受けの手段を見つけられていない。

 結局、開き直ったのか諦めたのか、それともスクランブルを期待したのかは本人に聞いてみないとわからないけど、力ない手つきで高井さんは手薄になった筋から飛車を敵陣に成りこんだ。


 高井さんは竜こそ作れたものの、体感の形勢はかなり悪いと思っているのではないだろうか。

「今さら竜を作られたところで、怖くもなんともないのよっ」

 吉原さんの攻めは留まることを知らない。盤上に残っていたと金で、さらに高井さんの駒を一枚、二枚と飲み込んでいく。


「……こ、このままじゃ……寄せられちゃう……寄せられちゃうよ」

 震える指先で、持ち駒の金を掴んでは、自玉を固めるために攻められているところに鉄壁を作ろうとする高井さん。


 一瞬、吉原さんは顔を上げて、苦しそうに顔を歪める高井さんの表情を確認し、さらに盤上に遊んでいた(活用できていない)金を高井さんの守り駒に忍び込ませた。


 それは、高井さんからすれば緩手のように見えたのかもしれない。確かに、一見すると表立った狙いが無いように思えて、自分に攻撃の手番が回って来たと「錯覚」してしまうだろう。


 歪んでいた高井さんの表情が、ふと緩んだと思えば、成りこんだ竜の縦の利きを遮るように、彼女は成銀を一路近づけさせた。吉原さんの見せた、教科書通りの遊び駒の活用を真似て。


 途端、後ろで見ていた久美が声にならない悲鳴をあげる。僕もつられて、思わず天を仰ぐ。遊び駒を活用すること自体は、決して間違った発想ではない。

 ただ、どんなものにも例外というものは須らく存在する。


「かかったね」「……えっ?」

 不敵に笑みを溢した吉原さんはポタリと半紙に墨汁の染みを浮かべるように、歩を垂らした。

 今しがた高井さんが作り出した鉄壁の非常口を、塞ぐように。


 一秒、二秒、三秒。少しずつ盤面を見て、高井さんは今打たれた歩の意味をようやく理解したみたいで、緩んだ表情が急転直下、真っ青になった。


「えっ、わ、私、まっ、間違えたの……?」

 高井さんが成銀を動かしたことによって、攻防に利いていた竜の、防御の利きが止まってしまった。その隙を、吉原さんは待っていたんだ。


 文字通りの挟み撃ち。これをされると高井さんの王様は一気に狭くなってしまい、油断すると即詰みに討ち取られる筋さえ生まれるかもしれない。

 のしかかる重圧はこれまでと比べものにならない。


「……むぎくん、さすがにこれはもう」

「…………。厳しいかもしれないね」

 予想しなかった手が飛び出たことで動揺したのか高井さんはこのタイミングで持ち時間を使い切り、一手三〇秒の秒読みに入った。垂らされた歩をと金にさせないために歩で受けて、さらに自玉を狭くしてしまう。これでは吉原さんの思う壺だ。


「大丈夫? あなたの王様、燃え盛る城のなかで酸欠になりそうだけど。そんなに逃げ場所自分で潰したら、まずいんじゃない?」

 余裕綽々な表情で、高井さんの鉄壁を崩しにかかる吉原さん。これは、トドメを刺しに来たな。


 堂々とした手つきで、吉原さんは手厚く高井さんの王様に剣を振りかぶった。

 万事休す。真面目に受けたとしても、もう寄せ切られるのは時間の問題だ。


「……う、うう……」

「結局、大したことなかったのね。あなたも、そんなあなたを重用するあなたの先輩たちも。そんなふうにして来年も仲良しこよしで大会に出ればいいんじゃない?」


 唇を噛みながら局面を見下ろす高井さん。しかし、無情にも対局時計は刻々とカウントダウンの電子音を鳴らし彼女に決断を迫る。


「……負けたくない、負けたくない、負けたくない」

「考えたって無駄。もう終わり。何をやってもあなたの王様は助からないし、私の王様は絶対に捕まらない。決まったんだよ」


 そのときだったと思う。重なる駒音と対局時計の電子音に掻き消されて、微かにしか聞こえなかったけど、そんな高井さんの声を僕の耳は拾い上げた。


「……むぎくん。あゆちーの様子、ちょっと変、じゃない?」

「……雰囲気が、変わった……?」

 僕と久美は、僅かに覗いた高井さんの変化に、目を見開く。


「……負けたくない、負けたくない、こんなに先輩たちまで馬鹿にされて、これ以上、みっともなく負けたくない、負けたくないっ」

 ラスト五秒伸びる電子音の音が終わる直前、高井さんは振り下ろされた銀を、王様を守っていた金で取る。


「……そんなこと言う割に、普通の手じゃない。何か、あるわけじゃ……」

 吉原さんはノータイムで時間を残したまま、攻めの金で高井さんの金を取り返す。金銀交換の成立だ。このやり取りによって、高井さんの持ち駒が一枚、増えたことになる。


「……もうっ、誰にも負けたくないっっっ」

 刹那、小鹿みたいに震えた高井さんの指が、たった今「増えた」銀を掴んでは、どこにも紐がついていない「タダで取られる」場所に、銀を置いた。


 ▲6四銀。


 それは、吉原さんの角が利いている地点。確かに、吉原さんの王様を頭から抑えつける、基本的な手だけど、タダで取られるなら、普通、うっかりでしかない。


「…………。……え、何、この銀」

 吉原さんは、そのドブに捨てたような銀打ちを見て、ポカンと口を半開きにして高井さんの顔を見やる。しかし、秒数を重ねるにつれて。


「──なっ、なんでこの銀。取らないといけないのよっ……!」

 その銀打ちの真意を読んだ吉原さんの表情が一変する。


「……むぎくん、こっ、これっ」

「うん。吉原さんの王様に、詰めろがかかったね」

 詰めろとは、何も対応しなければ次に王様が詰みます、ということ。わかりやすく言えば、リーチみたいなもの。高井さんの持ち駒が銀二枚になった瞬間、この▲6四銀のタダ捨ては、吉原さんの王様に銃口を突きつける一手になった。


 いくら吉原さんが高井さんの王様に迫っているとは言え、「まだ」即詰みには至らない。つまり、この瞬間に限って言えば、吉原さんは守りの手を指さないといけない。

 最善手は自然かつ当然の、△6四同角と、捨てられた銀を取ること。これで吉原さんの王様は安全になる。しかし、するとどうなるかと言うと。


「こ、この銀を取ったら、私の金がタダで取られるのに……!」

 中段の好所、攻めにも守りにも利いていた吉原さんの角の利きが逸れ、高井玉に襲い掛かっていた金が途端にその後ろ盾を失ってしまう。

 吉原さんの攻めが、シャットアウトされてしまうということに繋がるんだ。


「こっ、これ……もしかしなくても、攻守が入れ替わったんじゃ──」

「──うん。形勢が、逆転したね」

 そして、吉原さんの攻めが一瞬でもシャットアウトされると、何が起こるか。


「これで。守りの利きを失った高井さんの竜が攻撃で一気に輝きを放つ展開になる」

 吉原陣の奥深くで眠っていた高井さんの竜が、目を覚ます。


 ピッ。


「──くっ、んぐっ」

 持ち時間が切れ秒読みが始まったことを知らせる電子音に急かされた吉原さんは、苦虫を嚙み潰した顔で着手。悔しすぎる、△6四同角だ。


「……まだっ、まだっ。負けないっ、私は、負けたくないっ……!」

「こっ、このおおっ……!」


 それからはもう泥沼の将棋となった。形勢が入れ替わったと見るや、吉原さんはすかさずありったけの戦力を自玉の防御に回した。こういった切り替えをあっさりできるのも強さの一つだ。

 格上の相手に全力で受けに回られると、高井さんはいくら逆転したとは言え簡単に土俵を割らすことはできない。


「……負けないっ、もうっ、負けないっ」

「な、なんでこんな相手にっ……。ああっ、もうっ、しっつこいっ」


 秒読みに追われ互いの指し手はもうめちゃくちゃだ。恐らく将棋ソフトにかけたら悪手のオンパレードになるだろう。それでも互いの気持ちが全面に押し出された、一進一退、泥沼の終盤から僕と久美、さらにいつの間に観戦に加わっていた彩夏さんと児玉さんは目を離せずにいた。


「……凄い将棋だ」


 僕らのうちの、誰が漏らした感想かは、わからない。初心者と中級者による、泥だらけの棋譜なのかもしれない。それでも、この将棋にもしラベルを貼りつけるのなら──熱戦譜──以外に、つけるタイトルは思いつかない。


 そんな、将棋を。そして、高井さんの可能性を、目の当たりにしていた。


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